〃 -Ⅲ
「手を貸すよ、アキラ」
美しい小川に出た。木々の隙間から差し込む陽の光に、白い小石が映えて綺麗だった。水も透明度が高く、流れは穏やかで、こんな状況でなければ弁当でも広げたい気分だった。
大きな岩の上が滑らないことを確認して、振り返った。
「どうやら、追ってきてはいないようですね」
「なんだったんだろうなあ、あれ」
「常識なんて捨てた方がいいという教訓でしょう。それより、やはり喪服で走るのは無理がある。枝に引っ掛けたので少し破れてしまった」
「たかが墓参りにちょっと格好つけたのが悪かったなあ。ってか水もロープもなしでこんな山ん中に放り出すなんて、神様とやらは鬼畜だな」
まったくです、と同意した義弟は体力的にかなり劣る。山奥の水は綺麗だが、野生動物の糞や死骸が溶けていてもおかしくないから、安易に口をつけるのは危ない。
それに、終わりの見えない山中では下手に休ませるのも得策でない。
「よし、ちょっと気分を変えよう。スタンドでなにが欲しいか喋ろう」
この義弟は頭の巡りが良い。いろいろと察して、少し乱れた息を整えて、
「禁止カードは? タロット縛りか九栄神禁止とか、制限をつけますか?」
「じゃ隠者の紫禁止ね」
「まあ、それを入れると一択になりますからね・・・・・・」
登っている山道を見上げる。木々が枝葉を無秩序に伸ばして、あとどれほどなのかも判らない。疲労で滅入りそうな気分を変えるのは良い考えだ。
「じゃ先手そっちな」
「そうですね・・・・・・」
岩を乗り越えて、水気に足を取られないよう気をつけて進む。
「俺は法皇の緑にします。人に憑りつけるのもひも状になるのも便利だし、融解したエメラルドの使い道を探ってみたい」
「渋っ! まあ汎用性ピカ一っぽいしなあ」
「義兄さんは?」
小川はすぐに消えて、元の山道に戻った。ただ靴の裏に感じる土の湿り気が強く、滑らないように気を遣うのが難儀した。
「じゃ俺クヌム神」
「そっちのがよっぽど渋いでしょう。なにに使うんです?」
「理想のマッチョとかに化けてみて、とか? まあ本命はさ、なんとなく自分じゃない自分になりたい、みたいな時にいいかなって」
「なんとなく疲れているようですね。あれを見るたびにラバーの人の下位互換の気がするんですよね」
「あれ節制だからね、ラバー生地の化身とかじゃないからね」
話をすると息も切れるが気がまぎれる。遭難と紙一重の状況では、随分救われた。
その甲斐あって十分ほどで、開けた場所に出た。
蓋をするかのような大石をよじ登って、廃墟が見えた。入口の辺りが崩れている。話に聞いていた特徴に、シンタロウは安堵のため息を吐いた。
「着いたみたいだな。まあ、しばらく休もう」
「え、ええ・・・・・・そうですね・・・・・・」
息が切れている。今にも倒れそうに膝に手を置いていた。手を引くように瓦礫の上を渡り歩き、丈夫そうな民家に入る。
「なんもねえな、当たり前だけど」
適当に物色してみるが、助けになりそうなものはない。せめて水でもあればと思ったが、それさえない。あったところで、廃墟に残された水など、この頭のいい義弟が口をつけるとも思えないが。
「九死に一生、てやつかね。あんなの見たことない」
「ないでしょう。違う世界なら、別に不思議じゃない」
汗を拭う。姉によく似た女顔の義弟は同年代と比べて体力が乏しいのに、よくぞ喪服で登山が出来たと褒めてやりたくなる。
「この先だったよな?」
「ええ。あの女神という女性が真実女神で、嘘を言っていないのならそうなります。生活の心配はしなくていいとのことですが、とにかく陽が落ちる前に動くべきでしょうね」
気を遣っている。こういう状況では体力のない方が足を引っ張るのは当たり前だが、この義弟の判断力と冷静さに何度も救われているのは事実なのに、そのことを本人だけは気づかない。
「もうちょっと休んでなって。時計が確かならまだ日暮れまで二時間くらいはある。のんびりしようぜ」
「陽の落ち方も時の刻み方も、違う世界なら異なる可能性もあります。なにも断定できない状況で楽観は出来ませんよ。致命的に足を引っ張るのでないならやはり動き出しは早い方がいい」
そういうことなら、と腰を上げようとした瞬間、地面が揺れた。
「でかいぜ、こいつは!」
しかも縦揺れである。シンタロウは四つん這いになりながら振り返って義弟を見る。体力を消耗したアキラは揺れに対応できず、転んでいた。
「くっ!」
腕を引っ掴んで引き摺る。日陰を選んだために奥へ行き過ぎた。いつ崩れるかも判らない民家の出入り口が、ひどく遠く感じた。
「アキラ!」
無意味に名前を呼んだ。揺れは収まらない。地震の時は動かないことが大切だと教育を受けてきたが、廃墟で見舞われれば話は別である。外から耳を覆いたくなる嫌な音が響いてくる。石の割れる音や転がる音は、そのまま自分たちの死を予感させた。
体重の軽い義弟を引き摺ってようやく外へ出る。
その頃になってようやく揺れは小さくなった。なんとか息を吐いて見上げると、さっきまで身を休めていた民家の半分が崩れていた。
「怪我ないか、アキラ?」
「え、ええ・・・・・・」
地面を引き摺られて、黒い喪服が埃まみれで白くなっているが怪我はないようだ。
「でけえ地震だったな、今の」
「呑気なことを言っている場合じゃありませんよ義兄さん」
振り返ろうとした瞬間、またも揺れた。
いや、揺れではないだろう。上から地面に押し付けられるような感覚と、足先や股の間が軽くなる感覚。独特の感覚に反射的に両手両足で地面を噛み、
「まさか、起動した!? まだなんにもしてないのに!?」
「っ!」
シンタロウの疑問に答える余裕はない。三半規管を揺らす不快な浮遊感に、両手足を踏ん張って懸命に抗っている。
どれくらいそうしていたのか。不安な感覚に陥ると恐ろしく長いように思えるが、実際は二分もなかっただろう。なんとか周りの環境は安定したが、舞い上がった土煙と埃に咳き込んだ。
「い、行くか?」
顔の周りを払いながら、涙目で振り返る。ハンカチで口を覆った義弟は頷いた。
ぐるり、と周囲を見回してみる。
あまりの環境の変化に、廃墟たちは軒並み瓦礫と化しており、バランス悪く積み上がったそれらが、空洞を埋めようとずり下がり、石と石の擦れる嫌な音が聞こえてくる。
「うっかり足でも挟まったら大怪我だ。ゆっくり行こう」
出来るだけ瓦礫の少ないところを選んで、どうしても踏み越えなければいけないところは一歩一歩を確かめるように。
少し高いところへ出た。見下ろすと、瓦礫の山があるばかりで、この世の終わりのような風景だった。
「嫌な感じだ。ほんとに誰も居なかったんだろうな・・・・・・?」
「居なかったわけではないでしょうね」
ぞっとすることを言う義弟に思わず振り返ると、視線の先は後ろではなく前だった。
「おいおい、そんなこと・・・・・・」
「そうでなければ勝手に起動するわけもない。もしあの女神とやらが嘘を言っていないのなら、俺たちよりも早く何者かがここを動かしたことになる。セキュリティのようなものまで掌握されていたら、俺たちはいきなり異物扱いです。注意しましょう」
どこまでも冷静な義弟である。シンタロウは頼もしいとさえ思いながら、傍に寄った。
「ま、なんとかなるって。心配はしててくれ。それが対策の第一歩目だ。ただ不安にはなるなよ。いざとなったら逃げちまえばいいんだ」
「ええ。逃げ道があれば、そうしたいですね」
瓦礫の風景の向こうは、既に山ではない。ほんの数分前までここは深山に囲まれた場所だったのに、木々の緑が見えていた筈の風景は、一面の青だった。
話に聞いていた天空城が、その主の来報を待たずに空へと飛び立ったのである。
たっぷりと時間を掛けて遠回りして、安全を確保して奥へと向かった。敷地内のほとんどが崩れ去ったこの場所で、講堂だけは原形を保っていた。
その扉の前で、女が二人を待つように立ち、姿を認めて上品に会釈した。
「お待ちしておりました、シンタロウ様、アキラ様。お二人のアドバイザー兼ナビゲーターのユリエラと申します」
とにかく今日の宿の心配だけはなさそうだと、シンタロウは安堵のため息を吐いた。