おまけ:大河にも出てくる歴史上人物たちの覚書
※このパートは設定資料集です。本編ではありません。
《 北条一族 》
北条時政(ガチクズ度:★★★★★)
初代執権……なのだが、そもそも執権という役職がちゃんと機能するようになったのは孫の泰時になってから。当時の北条氏は出自も定かではなく身分も低かった。にも関わらず、将来的に躍進できたのは頼朝の妻になった政子の存在が大きい。
とにかく身分も人望もないため、ありとあらゆる手段で政敵を滅ぼしにかかり、北条一門同士でも権力争いを繰り広げるガチクズ。比企氏を滅ぼし支配した武蔵国で、自分に歯向かう武士団を強引に粛清・検地を行った結果、味方がいなくなってしまう。最終的には政子との闘争に敗れて無理矢理隠居させられ、そのまま死去した。
北条義時(存在感:★)
二代目執権。歴代の大河ドラマ主人公の中でも、トップクラスに実像がなく、影の薄い人物。その証拠に今年の大河の主役に抜擢されたにも関わらず……「吾妻鏡」を除くほとんどの歴史資料にその名が登場する事はない。「実は影の権力者だった」という説を聞く事があるかもしれないが、要するに源実朝、和田義盛、北条政子といったやり手将軍やベテラン勢の影に隠れ、ほとんど目立っていなかっただけであった。
大河ドラマで色んな所に出張っているのは、当時どこで何をしていたかまったく分かっていないため。脚本家的には非常に動かしやすい人物といっていいだろう。彼の生涯最大のイベント「承久の乱」の最中ですら、特に輝くような見せ場がないまま、持病の脚気が悪化して無事死亡。
北条政子(度胸:★★★★)
源頼朝の妻。尼将軍とも呼ばれる。大河ドラマでは北条一門という事で美化されているが、二代目将軍である息子・頼家のやる事にいちいち口出ししたり説教したりと、過保護な母親根性丸出しのエピソードも多い。しかし実朝の死後に起きた「承久の乱」においては、高齢になり体調を崩しがちだったにも関わらず、御家人たちの前に姿を現し大いに奮い立たせ、崩壊寸前だった鎌倉幕府を立て直した功績は大きいと言えるだろう。
なお「政子」という名前は1218年、朝廷より従三位および従二位の官位を賜った時の文書記録に登場するもので、実際の場で呼ばれていた訳ではない。
北条泰時(光堕ち:★★★★)※本編未登場
義時の嫡男。幼名は金剛。義時の死後、第三代執権となる。「御成敗式目」を制定した事で有名。北条氏が本格的に執権となり、政治の中心的役割を担うようになるのは泰時の代になってからであり、「吾妻鏡」でも彼は名君としてこれでもかと美化され、別の公家が言った名言なども泰時が言った事にされたりしている(笑)。
実際名君ではあるが、前半生では華厳宗の明恵なる高僧の教えにハマり、寺社仏閣を過剰に敬うようになった。そのため調子ブッこいてモヒカン野盗化する僧兵たちを取り締まれず、長い間京の治安が最悪に近い状態に陥った事はあまり知られていない。
後半生では覚醒し、名執権として采配を振るう。しかしこれは、前述した通り北条家は身分が低いため、官位で御家人に言う事を聞かせる事ができず、公平で誠実な「徳政」に頼らざるを得なかった為でもある。徳政を実践するには今まで以上にきめ細かな仕事をする必要があり、執権の仕事量は爆増。想像を絶するオーバーワークは泰時の寿命を確実に縮めてしまった。以降、歴代の執権北条氏は有名無実となる高時の時代になるまで、ことごとく短命となる宿命を背負ってしまうのである。
《 源氏・坂東武者 》
源頼朝(政治力:★★★★★)
源氏の棟梁にして、鎌倉幕府の初代征夷大将軍。身内であっても容赦なく粛清を行った事でやたら有名だが、全員チンピラヤクザどころか猛獣に等しい、気性の荒い坂東武者たちをまとめ上げるには恐怖政治以外あり得なかっただろう。その政治手腕は凄まじく、木曽義仲を手玉に取り、後白河法皇をも言いくるめて日本全国に徴税官&警察の役目を担う地頭を置く事に成功した功績は絶大。以降、日本の軍事力の主導権は朝廷から武士政権へと移行する事になる。
源頼家(体の強さ:★ 幸運度:★)
二代目将軍。幼名は万寿。才覚はあったのだが、いかんせん頼朝が死ぬのが早く、頼家は若すぎたためか、御家人たちは露骨に彼を侮って反抗する様子を見せ始める。「鎌倉殿の13人(実際は10人?)」もそれが原因で結成されたようなものである。もともと病弱であり、京の貴族とのコネクション構築のために導入した蹴鞠を毎日のように行った(かなりのハードワーク)ため、病に倒れ危篤状態となる。この隙を突かれて北条時政によって後ろ盾だった比企氏を滅ぼされてしまい、最終的には後を継がせるハズだった息子まで義時に殺されてしまった。
源実朝(政治力:★★★★ 体の強さ:★★)
三代目将軍。幼名は千幡。頼家追放後に12歳で将軍となる。歌人として有名なためあまりクローズアップされないが、彼の政治手腕は確変チートレベルであり、御家人たちとのコネクション作りも上手ければ決断力もカリスマ性もあり、重鎮の和田義盛と組んで大いに辣腕を発揮した。
しかし病弱であり子にも恵まれず「源氏の将軍は自分で終わり」という発言も残している。右大臣の官位を得ている事から、京から皇族将軍を迎え、外戚として力を振るおうとする北条氏を牽制する目的があったものと推測される。しかし1219年に頼家の子、公暁によって暗殺されてしまう(この暗殺も謎が多く、実は義時を殺すつもりだった説、三浦義村が裏で糸を引いていた説などが存在する)。その後源氏の血筋は絶え、京から皇族ではなく、1ランク下の摂関家の将軍を呼ぶ事になる(摂関家ならば御家人たちでもワンチャン、外戚となって介入の余地があるため)。
大江広元(野望:★★★★★)
鎌倉幕府の政所別当。要するに事務方のトップ。京では下級貴族だったが、頼朝に仕える事に成り上がるワンチャンを狙った。
本人も述懐しているが「成人してから一度も泣いた事はない」と言ってのけるほど沈着冷静な性格で、頼朝死後も政子や義時と連携して政務に当たり、数々の政変を乗り切った。
晩年には眼病を患いつつも、「承久の乱」にて強硬論を主張し勝利。その後は政子とほぼ同時期に亡くなっている。ちなみに彼の末裔は戦国大名・毛利元就である。
梶原景時(真面目度:★★★★ 嫌われ度:★★★★★)※本編未登場
御家人。頼朝が石橋山の合戦で敗北した時、逃げる彼をわざと見逃したという逸話がある(しかし「愚管抄」では最初から頼朝側だったという記述もある)。
世紀末ヒャッハーな坂東武者にしては珍しく教養が高く、和歌もたしなんだ。頼朝からの信頼は厚かったが、しばしば讒言、要するにチクリをしたため鎌倉武士たちからは嫌われていた。しかしながら当時の坂東武者は隙あらばすぐ揉め事を起こし、殺し合いにエスカレートする事も珍しくなかったため、景時の言い分は至極もっともだった可能性が高い。
頼朝死後、66人もの御家人に弾劾され鎌倉を去るが、上洛途上で現地の武士たちと戦闘になり、一族のほとんどが滅ぼされてしまった。
比企能員(風評被害度:★★★★)
御家人。二代目将軍・頼家の育ての親となり、娘を源氏に嫁がせて権勢を強めたが、北条時政によって殺害され、頼家の子もろとも比企一族は滅亡に追いやられた。
「吾妻鏡」ではいかにも悪党に書かれており、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も「吾妻鏡」ベースなので絵に描いたような悪役として演出されている。が、当時の記録「玉葉」「愚管抄」を読む限り、どう考えても悪いのは騙し討ちにした時政のほう。比企一族が滅んだ後、武蔵国の統治が混乱した事や、それが原因で何も悪くなかった畠山重忠までもが謀殺された事も総合すると……やっぱり汚いなさすが北条氏きたない、と言わざるを得ない(笑)。
畠山重忠(人望:MAX)
御家人。文武両道にしてイケメン。鎌倉武士たちの間でも人気は高く、遠征する時の先陣はとりあえず畠山重忠で、となるパターンが多い。時政の娘を嫁にもらっている。
何かと問題の多い武蔵国を比企一族と共にどうにか治めていたが、後釜に座った北条時政がムチャな統治政策を断行するため折り合いが悪くなり、邪魔に感じた時政の謀略で謀反人にデッチ上げられて滅ぼされてしまう。しかしいくら何でも無理がある話で、この事件後に時政の評判はどん底に落ち、政子によって無理矢理隠居させられる遠因を作った。
和田義盛(将軍への忠誠:★★★★)
御家人。正妻はあまり美人ではなかったらしい。大河ドラマでは巴御前とよろしくやっている微笑ましいシーンが多いが、産まれた子供の年齢を考えるとどうも辻褄が合わず、後世の創作である可能性が高い。
晩年は三代目将軍・実朝を支えて一大勢力を築くが、それを疎ましく思った義時がさまざまな嫌がらせを仕掛け、義盛を挑発しまくる。これに耐えられなくなった義盛は、義時を討つべく「和田合戦」を引き起こす事になる。しかしあろう事か、主君である実朝が義時側についたため形勢逆転され、一族は滅びる事に。実朝からすれば、老い先短い義盛ひとりのカリスマ性だけで持っているようなものだった和田に味方しても先が無い、というしごく冷静な判断だったのだろう。
三浦義村(怪しさ:★★★★★)※本編未登場
御家人。桓武天皇の血を引く結構由緒正しい家柄で、家格はもちろん北条氏なんかよりずっと上だった。かなりの謀略家であり、頼朝死後に起きた数々の政変においても、裏で糸を引いていたという説がある。実際鎌倉武士からは何かと「なんか企んでるだろお前」と疑われ、警戒されているシーンが多い。
三代目将軍・実朝の暗殺後は、京の有力貴族・九条家と組んで摂関家将軍を擁立する動きの中心人物となるが、結局政争では政子に勝つことはできなかった。義村の死後、三浦の権勢は衰えてしまい、1247年の宝治合戦にて北条氏(というか、三浦に恨みを抱いて暴走した御家人たち)に族滅させられてしまう。
《 京の人々 》
後白河法皇(謀略:★★★★)※本編未登場
第77代天皇。もともと今様(現代風に例えれば、大衆的な歌謡曲)にハマるほどの遊び好きで、天皇には不適格だと言われていたが、中継ぎ的に在位していた経験あり。
平清盛、木曽義仲、源義経といった当時の大物たちを相手取る。謀略家としては一流だが、政治家としてはイマイチで、朝令暮改も当たり前というほど自由奔放な振る舞いが目立った。頼朝から「なんで俺の追討令なんか出したん?」と咎められると「天狗じゃ! 天狗の仕業じゃ!」と返した。このせいでキレた頼朝は、後白河法皇に「確かに京にいますね! 日本一の大天狗が!!」と罵った事は有名。
あまり知られていないが、若い頃の頼朝と肉体関係にあったらしい事が、当時の記録を読むと推察できる。
後鳥羽上皇(政治力:★★★ 戦略性:★)
第82代天皇。だが即位した時には「三種の神器」は平家に奪われたまま、結局剣は戻ってこなかったのでその事を結構気にしている。
皇族にしては珍しく文武両道で有能ではあったが、軍事戦略的な才覚は持ち合わせておらず、彼我戦力差を考慮しないまま取り巻きの貴族たちに煽られ、1221年に「承久の乱」を引き起こす事となる。
乱に敗北後、隠岐へと流される。後鳥羽上皇がいなくなってから京の政治機構はほぼ全損状態で、治安は過去最低に悪化、深刻な食糧不足に見舞われてしまう。公家ですら栄養失調で病を患ったり、盗賊を雇わなければ自分の財産を守れないほど。天皇の輿の担ぎ手すら飢えて倒れ込むほどの惨状であった。こんな状況が十年近く続く有様だったため、後鳥羽上皇は最後まで政界復帰を諦めていなかったという。