元婚約者の事情
「糞が!」
夕飯の支度をしていると部屋の扉が乱暴に開いた。
悪態を吐きながら部屋に入ってきた男。
これが私の夫、ナッツ・ヒュフテ。
ラムズボトム領で領主を勤めるアント・ヒュフテ男爵の嫡男で次期当主...
「どうなさいました?」
開け放たれた扉を閉めながらナッツに話掛ける。
漂う酒の臭い、また実家で酒を呷って来たのだろうか。
酒癖が悪いナッツ、度々問題を起こし私達夫婦はナッツの実家から程近い小さな民家で暮らしていた。
「アイツが、あの野郎が貴族だとよ」
ナッツは乱暴に椅子を手繰り寄せて座る。
髪は乱れ、目は落ち窪んで酷い有り様、とてもではないが男爵家の嫡男に見えない。
「あの野郎?」
一体今度は何に腹を立てているのか?
特に興味がある訳では無い、だが聞かないとナッツは更に当たり散らす。
どうせ領民の誰かが町を出て、成功したのを妬んでいるのに違いない。
「オイドだ!」
「オ...オイド」
それは全く予想外の言葉だった。
胸が張り裂けてしまいそうな錯覚。
どうしてナッツの口から彼の名が...
「畜生が!」
テーブルに並べていた皿を手で払いのけるナッツ。
次々と食器が床に落ち、砕け散る音が部屋に響いた。
「どうしてオイドが貴族に...?」
聞いてはいけない。
しかし私の口は意思に反し、言葉を紡いでいた。
「何でもジャンゴ王国との戦役で活躍が認められたとかだと!
糞!オイドの代わりに王都に行ってれば今頃俺が...」
唾を飛ばしながら悪態を続けるナッツ。
オイド...剣に優れていた貴方なら。
だってラムズボトムでは一番の実力だったもの。
ここに居るナッツなんか問題にならなかった位。
「そうですか...」
元婚約者の成功を聞き、心が満たされる。
オイドは私と別れて素晴らしい栄光を手にしたんだ。
こんな女に縛られなくて本当に良かった。
「なんだあ?」
ナッツは酒臭い息を出しながら私に近づいて来た。
「はい」
もう覚悟は出来ている。
ナッツは矮小な男。
卑屈で身の程を知らない、自分が周りの誰よりも優れていると自惚れている。
本当は全くの無能なのに。
「お前もオイドと結ばれてたら今頃は貴族の妻になれたと思ってるのか?
あっさり俺に乗り換えたかお前が!」
「...ナッツ」
彼の言葉が私の心を抉った。
10年前、ラムズボトムを追い出されたオイド。
彼は町を出る最後の夜、私の部屋にこっそりやって来た。
『フーリー、今までありがとう。
元気でやれよ』
『...オイド』
涙を溜めた彼の目。
彼は私に手を差し出した。
その手を私は払いのけてしまった。
本当は彼の手を取り一緒に逃げたかったのに!
「その目を止めろ!!」
「...グェ」
ナッツの拳が私の腹にめり込む。
息が出来ない、床に手を着き踞った。
「畜生!
親父とお袋もバカばかりだ!
今さらオイドに謝罪だあ?
あんなクソ野郎に頭なんか下げられるか!」
ナッツは狂った様に私を蹴り上げる。
抵抗なんか出来ない。
いつもの事だ、早く終わって...
「何がオイドに手紙を出しただ!
昔の事は水に流して家族としてやり直そうだと、バカが!」
「...そう」
お義父さ...あの男はそんな事をしたのか。
どうせ金の無心だろう。
ラムズボトム領はナッツが主導した新しい作物の栽培に失敗。
更に昨年の干魃で飢えが起き、領民の流出が続いていた。
「だからその目を止めろ!!」
ナッツは私の頭を蹴り上げた。
目の前が暗転する。
意識が...
「...ん」
気がつくと私は床に這いつくばっていた。
ナッツの姿が無い。
部屋に置いてある家具の引き出しが全て飛び出している。
どうやら家中の金を持って出て酒場にでも行ったのだろう。
「...自業自得ね」
滅茶苦茶に荒らされた部屋の掃除をしながら呟く。
ナッツの実家、ヒュフテ家は元々騎士爵。
野心溢れる当主アントはジャンゴ王国がハムナ王国との政略結婚相手を探している話を聞きつけ、自分の妹を差し出した。
そうして手にした莫大な金で男爵の位を買い取り、ラムズボトム領を奪った。
病で前領主の両親を亡くしたばかりのオイドに抗う術は無かった。
無理矢理養子にされたオイド。
手続きが終わり、ラムズボトム領が自分の物になるとオイドは追放された。
何も持たされること無く...
(どうして私はオイドと逃げなかったの?)
私の両親がナッツの父親から金を受け取ったから?
違う!
婚約者が居た自分の妹をジャンゴ王国に差し出す様な薄汚い男の金なんか受け取る両親が悪い。
挙げ句、干魃が起きると名主でありながら真っ先に逃げた。
オイドと逃げなかったんじゃない、逃げられなかったんだ!
私はあの時、既にナッツに抱かれていた。
無理矢理だった。
両親が部屋に引き入れた。
私は必死で抵抗した。
『オイドが殺されても良いのか!』
『な?』
『親父はオイドを殺すつもりだ。
助けたいだろ?』
....こうしてナッツに抱かれてしまった。
私の純潔は奪われてしまったのだ、オイドの命と引き換えに。
最近聞いた話によるとジャンゴ王国に嫁いだアントの妹は随分前に亡くなり、遺骨が送られて来た。
その骨を兄であるアントは妹の元婚約者を呼びつけ、目の前で撒いて捨てたという。
そんな人間のクズ、それがヒュフテ男爵。
元婚約者は無言で骨を集め、王都に帰って行ったそうだ。
「私もクズ、廃棄物ね...」
取り返しなんかつかないのは分かっている。
オイドに会わせる顔なんか!
こんな痣だらけの顔。
身体はボロボロ、足は折れたまま放置したせいで真っ直ぐ立てない。
腹を何度も蹴られ、子供も無理だ。
女の印すら来なくなった。
もう絶対戻れない。
そんな事は分かっている。
でも...オイド...せめてもう一度会いたい。
最後に一目会って...謝りたい。
『あの時、貴方の手を振りほどいてごめんなさい』と。




