神さまが注いだ水を、飲み干す時
とても寝苦しい夜だった。
空気が重く、湿り気を帯びた上白糖のような粉っぽさが、喉元に纏わり付いてきて、呼吸の度に僕は溺れてしまいそうだった。
やけに長く。瞼を閉じても、夜はいつまでも深くなっていかなかった。
ただ、時折、耳元で何かが聴こえたり、止んだりした。
三毛猫が喉を鳴らすような。とても不明瞭で頼りないような。それでいて何処かへの道しるべでもあるかのような。そんな音や気配がさざ波を立てて、迫ってはふと、消えたりした。
時間は永遠のようで、実際には瞬間的なものでしかなかった。
とにもかくにも、憂鬱としか言えない五月の淡い夜にある闇は、未だにこのどこにでもある小さいベットの毛布にそっと寄り添い包まっている。
僕は、まだはっきりとした意識の中で。
なかなか溶けない粉ミルクを掻き回す老婆のようにゆっくりと。
結局はあの日の君のことを想いおこさないわけにはいかなかった。
縛られた。そしてとても困惑した。消化したはずの夕食のパスタや、食道にピンと刺さったままの小魚の骨がいつまでも取れないような。そんな苛立ち。
抗う術もなく、ただ、そうしない訳にはいかない歯痒さ。倦怠感と同様に。しずしずと書斎で荷ほどきをするような。
僕は森を歩いている。
ただ、とぼとぼと。うすぼんやりのまま。
何年か前の。良く知った、何度も歩いた海へと続く森の中を。
木々が時折木漏れ日に揺れ、風で運ばれた潮風の匂いがする。
履き慣れた茶色い革靴で。僕は確かに君の後を追っている。
足取りは決して重くはない。
何故かは分からないが、分かっている。
今日がいつで、何の日なのかも。明確に。
松の枝が縦横無尽に伸びて、葉先の尖った先端が時々腕へつき刺さる。大きな蟻が、隙間から入って足の親指に噛み付く。そこは森なのに底は砂やら小石だらけで、道がいびつで何度も足を取られ、転びそうになる。
そこは木々の場所特有のひんやりとした空気の心地よさと、海水に含まれる湿度や懐かしさがどこまでも混同している。
歩みを進めれば、進めるほど。
森なのか、砂漠なのか、やはりただの海へと続く道なのか。少しづつ分かりづらく、境界が曖昧になる。
また、歩み。また、歩み。それでも道が続いていて、疲労はやはりあるのだけど。心はと言うと、どちらかと言えば徐々にはやっている。
大切なのは、沢山の獣たちの足跡をなぞること。或いは、模倣すること。
小さい頃に父と出かけた登山で道に迷った時に言っていた言葉を思い出す。
適切なのかもしれないし、的外れなのかも知れない。
のどが乾いているのか、声が出ない。だけど涙が頬を真っ直ぐつたうのが分かる。ずっと止まらない。あまりにも真っ直ぐだ。
力の限り、歩き続け、ただ歩き続け。とうに方向の感覚を見失ってしまっていたが、ついでに失いかけた色彩感覚の中、ようやく見覚えのあるあの景色が垣間見えた。
小さな川の源流を辿り、ほとりで名も知らない小さな花の蕾を愛でて。人知れず沢山の後悔と、幾分回り道もしてしまったその先へ。
そこには、
切り立った険しい崖が現れる。
恐ろしいほど鋭角な、ほんの少しの容赦もなく平然と。
恐らくは光だ。
道の先を神様にすっぽりと、えぐりとられていて、
ここから先は目をこらしても、何も見えない。まったくの闇か空白だ。
考えてはいけない。
五感を研ぎ澄ませて、感じなければならない。
突然に。いや唐突に。
獣たちは皆死んだんだ。
赤いだけの血の匂いを残して。
両手を伸ばせ。
すくいとれ。
口に注いでみろと、その人は言った。
その言葉の意味が、あの時少しも分からなかった。
いや、たった今だって。そのすべてを理解できている訳ではないし、
信じられない。
でも、僕はここにいる。
そしてここに立ち。あの人と同じこの景色を瞳に宿し。今まったく同じ言葉を想っている。
そうしなければならない。
心が感じるままに。
脳の命令に従うように。
或いは、
君がそうしたように。
たがが、夢の為に。
されど小さな明日と明後日の為に。
どうなるかなんて
全部分かってたんだろう?
それとも
それすら。
とても寝苦しい夜だった。
とても寝苦しい夜はまだ、終わっていなかった。
空気が重く、湿り気を帯びた上白糖のような粉っぽさが、
喉元に纏わり付いてきて、呼吸の度に僕は溺れてしまいそうだった。
何度も祈った。天を仰いだ。だけど誰も、神様も。助けてなんかくれなかった。
汗を掻いていた。身体中の毛穴が開いて、玉のように大きくて美しくて丸い汗が。止めどなく閉め忘れられた蛇口のように身体中を、大きく滲ませていた。
ひとつだけあった。
とても小さな変化だ。
僕があの場所から持ち帰った恐らくたったひとつだけの。
淡かった夜は濃さを増し。
もう声はどこにも。どこらかも聴こえなくなっていた。
ラジオは消され。砂嵐も消えた。
僕は、あの海を想い。あの森を想い。
寝言のようにただ早口で繰り返した。
右手と左手の人差し指と薬指の間に、夢中ですくい集めたであろう確かな血のぬくもりが。今まだ少しだけそこにあった。