THE DOOR
「森の奥に、マントを着た女の子がいるんですって。」
僕は、相槌も打たずストーブの中の炎を見ていた。
「それでね、その女の子に頼むと、扉を一枚だけ開けてくれるんですって。どんな扉でもよ。」
ヤカンがシュッシュと音を立て、湯気と共に自己主張している。
僕は鼻をすすった。
「でもね、その代わりに体の一部を奪われちゃうんですって。怖いでしょー。」
アーヤは嘘つきだ。
こないだは、図書館に兵隊の幽霊が出るって噂していた。アーヤが話すと、瞬く間に学校中にその噂は広まる。低学年のある子が、怖くて図書館に行けないと言い出し、先生に怒られたばかりだというのに、どうしてこう懲りないのだろう。
「リョーカ、あなたの家、森に近いじゃない、何か聞いてないの?」
「何も。」
「あなた、信じてないでしょ。知らないの?隣町の学校の子の話。ある寒い日にね、家の鍵をなくしちゃったんだって。その日はお家の人の帰りが遅いと聞いてたらしいから、困ったでしょうよ。雪がどんどん降ってきて。でも家に入れないの。でね、困ったその男の子は、名前は何だったかしら。忘れちゃったわ。でね、その子は森の噂を思い出したのよ。どんな扉でも開けちゃう女の子のこと。それで、凍えながら森に行ったんですって。ずーっと奥に行くと、少し開けた所があって、そこでマント姿の女の子は一人で遊んでるんですって。」
僕なら、いや僕じゃなくても普通は森へは行かずに友達の家にでも暖を取りに行くだろうに。この手の話はどこか辻褄が合わない。アーヤが作っているからなのかな。アーヤはあまり成績が良くない。
「それでね、『開けてもらいたい扉がある』って伝えると、女の子はついてくるの。で、家の前まで来て、『この玄関のドアを開けて』って言ったら、開いたのよ、鍵がカチャッって!でもね、体の一部を奪われちゃうって私言ったでしょ、その男の子、どうなったと思う?」
「さあ」
「なんと心臓を奪われちゃって、即死だってんですって!帰宅したお母さんが見つけたらしいんだけど、玄関の前に倒れてて、カチンコチンになってたらしいのよ。かわいそうに。」
アーヤは『かわいそうに』を、大袈裟に首を振りながら言った。アーヤの仕草はいつも芝居がかっている。
「それさあ、ただの凍死じゃないの?」
この雪の町では、外に長時間いると凍え死んでしまう。だから僕達は休み時間も外で遊べずに、こうしてストーブの近くに寄り添っており、そのためにアーヤの作り話を聞く羽目になる。
「ううん、心臓を取られちゃったのよ。」
「じゃあ、確かめに行けば?そのマントの女の子がいるかどうか。森へ。」
「嫌よ怖い。」
なんだ、アーヤは怖いのか。
ヤカンの自己主張は続いていた。窓の外は一面真っ白で、音が無い。
丘を下って、薬屋さんの角を曲がって、遊び場となっている工場跡地を過ぎると、僕の家のアパートがある。薄い茶色のブロックを積み上げたような建物で、ところどころ壁が剥げている。
空き部屋が多いこともあり、アパートから学校に通っている子供は僕一人だ。下校のこの時間、付近を歩いているのも僕一人だ。
家は3階にあるが、エレベータはーない。階段は吹き曝しになっているので、踏み固められた雪があり、ツルツルと光っている個所を見極めて転ばないように避ける必要がある。錆びた手すりに摑まりながら、階段を注視し上がる。
僕がまだ小さかった頃、クラスメイトを家に呼んだことがある。「お前の家、ぼろいな」と言われ、それ以来、友達を誰も家には呼んでいない。
「ただいま。」
部屋の匂い。ドアを開けると、暖かい空気が僕の冷えた頬を包み込んだ。ドア一枚でも、外と中はこんなに世界が違うのだ。
僕の家。靴箱の上には、おばあちゃんの写真が飾ってある。おばあちゃんは赤ちゃんの頃の僕を抱いており、こちらに笑いかけている。僕はおばあちゃんの事を覚えていないが、編み物が得意だったらしく、赤ちゃんの僕が被っている帽子はおばあちゃんが編んだらしい。他にも、ソファーにかけられている青と白色のモチーフ編みのカバーや、鍋敷きまでおばあちゃんの作だ。
長靴に付いた雪を軽くはらい、毛糸の帽子と手袋を脱ぐ。残念ながらこれらはおばあちゃんの作ではなく既製品だ。ママはおばあちゃんの器用さを受け継がなかったらしい。
部屋の奥へと進むと、テーブルの上にある物に気付いた。
絵葉書だ!
僕宛のものだとすぐに分かる。丸々と太ったサンタクロースがプレゼントを抱えているイラストがあり、裏を見ると「メリークリスマス」とだけ一言添えられている。
パパからだ。送付元の住所は病院。5階の病室の番号も書かれているが、こっちはパパの字ではない。
「ママ!パパからだよ!」
僕はキッチンに向かって大きな声を出した。
ママは夕飯を作っている。キッチンからはグルリグルリと何かが煮込まれている音がしている。ママから返事は無い。
鍋の音の正体はビーフシチューだった。僕はちぎったパンを使ってお皿を綺麗にする。
一滴も残したくないのだ。ママが作るご飯はどれも大好きだけど、特に僕はビーフシチューが好きだ。赤ワインが入っているそうで、僕がこの甘さと渋さを堪能している様子を見て、いつだったかママが「リョーカは大人ね」と言ったことを覚えている。僕は褒められた気がして、それ以来余計にビーフシチューが好きなのだ。
パパもビーフシチューが好きだった。僕達は同じだった。
この家でお酒を飲むのはパパ一人だったから、今では僕の好物を作る時にしか、我が家で赤ワインを購入することはない。
そして今日ママがビーフシチューを作ったのは、僕の機嫌を取るためだ。
僕がお皿をピカピカにし終えると、ママは冷蔵庫からアイスクリームまで出してきて、僕の前に差し出した。
「それじゃあ、出かけてくるわね。遅くならないようにするから。」
嘘だ。
「TVばかり見てないで、宿題もしてね。それから、早く寝るのよ。」
ママは僕のおでこにキスをした。
化粧品の匂い。
ママは赤毛の髪をカールさせていて、仕事に行く時と随分違って見える。
「行ってらっしゃい。」
それぐらい言える。
ママは、よく磨かれた紺色の革のハンドバッグを手にし、一度僕に微笑んでからドアを閉めた。
僕はそんなバッグを見たことが無かった。
ある晴れた日、近所の工場跡地に集まった僕達は、かつては沢山のトラックが利用していたであろう駐車場に雪山を作ることにした。シャベルで雪をかき集めてソリに乗せて、運んで高く積み上げる。その繰り返し。作業に一番早く飽きたのはアーヤだ。
「ねえねえ、みんなで森に行かない?」
また森の話だ。
「マントを着た女の子、探しに行きましょうよ。」
「いる訳ないって。」
僕は、もっと雪山を高くしたかった。そこからソリで滑り降りるのだ。今年はパパがいないから、スキーに連れて行ってもらえない。
「あら、いるかどうか見に行けって言ったの、あなたじゃない。」
「何の話?」
「知らないの?ダルコ。森にいる女の子の話。」
知らない訳がない。アーヤは毎日のように誰かを捕まえては、噂話を少しずつ脚色しながら広めている。
「知らないよ。」
違う、ダルコは忘れているんだ。今日も算数の宿題を忘れてきたじゃないか。
「どんな話?」
「その女の子はね、どんな扉でも開けれるんですって」
「凄いや!でもどうやって?」
「分からないわ。きっと、超能力よ。」
「どんな扉もってことは、ヤンネ先生の家のドアもだよね?そしたらさ、テストの問題を盗められるね!」
ダルコは鼻水が固まってこびりついている鼻の穴を膨らまして、興奮気味に言った。未だに指を折りながらでないと引き算ができない癖に、こんな悪巧みは思いつくらしい。でもダルコ、もしそうするなら問題だけでなく解答も盗まないと、君には解けないよ。
「そうよ、ヤンネ先生の家のドアなんて、一瞬で開けられるわよ。だけども、開けてもらうには、交換条件として差し出さないといけないのよ。体の一部を。」
「何それ!怖いよ。」
「あなた知らないの?隣町の学校の子が死んじゃったって話。」
ダルコは勢いよく首を振った。
「アーヤ、もういいよその話は。」
僕はアーヤが喋り出すのを遮った。雪山を完成させたいのだ。
「リョーカは興味無いの?」
「君の作り話は聞き飽きたんだよ。」
「まあ!失礼ね。私が作ったんじゃないわよ。」
「じゃあ誰から聞いたのさ。」
「それは、忘れてしまったけど。でも、上級生から聞いたのよ。本当よ。お兄ちゃんの友達から聞いたのかも。」
「君じゃないなら、作ったのは、森へ行かせまいとしている誰かだ。」
「どういう意味?」
「森は、人気もないし、野生動物がいるかもしれないし、危ないから子供に行かせたくない大人が作った話なのかもね。」
「動物?ウサギとかかな?」
ダルコの家は、耳の垂れたウサギを飼っている。
「違うわよ、そんなかわいいものじゃなくて、オオカミとかでしょうよ。」
「オオカミ?僕怖いよ。」
「いや。あの森にオオカミはいないよ。」
「じゃあ、熊とか?」
アーヤは上を向いた鼻に皺を寄せながら考えている。
「違う。あの森には・・・。」
どうしてだろう、僕は森に野生動物がいないことを確信していた。
「でも、でも、動物じゃなくて変な人が住んでたらどうしよう。斧を持った巨人とか。」
「ダルコ、おとぎ話じゃあるまいしそんなのいないわよ。やっぱり、確かめる必要があるわね。」
「森へ行くの?本当に?僕達だけで?」
小さなダルコは完全にびびっている。
「だって、野生動物がいるのか、女の子がいるのか、確かめなきゃ。いいわよね、リョーカ。」
僕は手を止め、作りかけの雪山を見つめていた。頭の中の凪いだ海に、何かが浮かび上がりかけ、消えてしまった。
「分かったよ。でも、暗くなる前には帰るよ。」
こうして僕達三人は、森へ向かう事となった。何かあった際の武器としてシャベルを握りしめて。深い、深い、森へ。
黒い森。名前を付けるならこうだ。糸杉がひしめき合って、天へ天へと伸びている。葉が、枝が、光を届けさせまいとしている。風も、音も、生も、何もかもを覆い隠している。
暗い。
僕達はキュッキュと雪を踏み固めながら、何もないその世界の奥を目指した。
「体の一部ってことはさ、髪の毛1本でもいいのかな?」
沈黙に耐えかねたダルコは自分の、金色の短い髪の毛を引っ張ってみせ、僕とアーヤの顔を覗き込んだ。
「何を奪われるかはこっちでは決められないのよ。」
「えー。」
「そりゃそうよ。髪の毛ぐらいなら誰でも差し出すでしょうよ。」
「あとね、虫歯なら、抜いてくれてもいいんだけどな。」
虫歯なら、僕だってありがたい。右の奥歯が少し痛むが、長いこと放置している。ママにも言ってない。お菓子を取り上げられたら困るし、歯医者に連れて行かれるのはもっと困る。
僕は黙り込んで先頭を行く。
僕の前には足跡一つない。
動物の足跡もだ。
だから、やはり野生動物はここにいない。斧を持った巨人もいない。
僕は歩みを止めなかった。道に迷うことも無くどんどん進んだ。
雪が纏わりついてくるので、足は、重い。
光が差し込まないので、夕暮れが迫っているのかどうかが分からない。
同じ景色が続くので、どれだけ進んだのかも分からない。
何の気配もしない。
後ろでアーヤとダルコが明日のテストの話をしていた。
僕はただ、鋭く痛い空気を吸い込みながら、足を動かした。
世界は終わったのかもしれない。
無くなったのかもしれない。
そんな静けさが、僕の前に、ずっと広がっている。
キュッキュ。
キュッキュ。
アーヤとダルコの声も聞こえなくなった。
キュッキュ。
キュッキュ。
キュッ。
一面の雪。
キュ。
何も聞こえない。
耳が壊れたのだろうか。
僕の吐息さえ吸収されてしまう。
僕は歩みを速めた。
雪。
杉。
雪。
光。
光が差し込んでいる。
少し開けているようだ。
いや待て。
誰かいる。
僕は足を止めた。
どくどくどくどくどくどく。
無音だった世界に音が戻った。僕の心臓の音だ。
どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく。
灰色の、マント。
女の子だ。
光の下に後ろ姿がある。
どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく。
足が動かない。
こっちを向くなよ。
お願いだから、僕に気付くな。
やめてくれ。
やめ。
こっちを、・・・・・・・・向いた!
僕は直ぐに振り返り走り出した。途中でアーヤとダルコに出くわし、二人の手を掴んで走った。二人が何か言っていたが、構わずに手を引っ張って外を目指した。足がうまく動かない。雪がのしかかる。それでも絶対に振り返ってはいけない。とにかく森から出なくては。僕は走った。
森から一歩出ると、もう空は暗かった。でも街灯はあるし車も走っていて、音も、人の気配も、生活が変わらずにそこにあった。
「リョーカ、急に怖くなったんでしょ。」
アーヤとダルコは僕の異変に気付いていない。僕は多分青い顔をしている。心臓の音も止まらない。
「何も居なかったわねー。がっかり。」
「巨人の家も無かったね。」
違う。確かに居た。あの場所に。
二人はまた明日のテストの話をし出した。僕はあの時シャベルを放り投げ、森へ置いてきてしまったことに気付く。両手はまだ震えていた。
町まで戻り、いつもの交差点で二人と別れた。いつもの帰り道で、家まではそう遠くないのに、心細いなんてものじゃなかった。何度も振り返り、あの女の子が追っかけて来てやしないか確かめた。
家のドアを開けると、奥からママの鼻唄が聞こえてきた。僕はキッチンへと走った。 「あら、お帰り。」
「ママ!」
僕はママに飛びついた。
「どうしたのリョーカ。」
僕は汗と雪でべちゃべちゃになった体をママに押し付け、ママの暖かさで日常に戻してもらおうとした。
「こんなに日が暮れるまで外で遊んでたらダメじゃない。」
ママは、帽子を脱がし、僕の濡れた頭をエプロンで拭いた。
「ママ、聞いて、僕ね。」
「あらあら、こんなに汗かいて。随分と動いたのね。着替えてらっしゃい。」
「ママ、僕、森でね。」
「森?あなた、森へ行ってたの?」
「うん。それでね、森でね。」
「どうして森なんて行ったの?危ないじゃない。まさか、パパに何か言われたの?」
「え?パパ?」
ママは僕の両肩をぐっと掴んだ。
「正直におっしゃい。あなた、パパに連絡したの?」
「してないよ。」
「じゃあどうして森へ行ったの?パパがあなたに森の話をしたんじゃないの?」
「違うよ。」
ママの手に力が入って、痛い。
「パパの話を信じちゃダメよ。パパはおかしくなっちゃったんだから。パパは昔、森の話ばかりしてた。そう、今思えばあの頃からおかしかったのよ。いい、パパはもう病院からは出られないのよ。」
ようやく手を離したママは、時計に目をやった。
「早く、着替えてらっしゃい。お客様が来るから。」
「誰か来るの?」
ママは、スープの入った鍋に火を点けた。
「そうよ。一緒にディナーを食べるのよ。3人で。」
「誰なの?」
「リョーカ。森は危ないって何度も言ってるでしょ。もう絶対に行ってはダメよ。」
ママは鍋を見つめていた。
「分かったよママ。」
僕はママの背中にそう言うと、自分の部屋へ向かった。
クリストフ。その日ママが夕食に招待した男の名前だ。
ずんぐりとした体つきで、丸い大きな眼鏡をかけており、頭頂部には気持ち程度の量の髪の毛が乗っかっていた。
「クリストフは銀行で働いているのよ。」
そう言うママは、どこか誇らしげだ。銀行。ママがお金を下ろしに行くときについていったことがある。でも大抵ママはATMを利用するので、銀行で人が働いている所を僕は見たことがない。クリストフは野暮ったい茶色のスーツに、深緑色のネクタイをしていた。ヤンネ先生もスーツを着ている。偉そうに見えるから、僕はスーツが嫌いだ。
「リョーカは学校の授業では何が好きなのかな?」
クリストフが、僕の名前をねちっこい声で呼ぶ。僕は、手元のパン屑集めに夢中なふりをした。
「この子はね、算数が得意なのよ。あとは体育かしら。結構やんちゃなのよ。」
ママがクリストフのグラスにビールをつぎながら言う。そこはパパの席なのに。
「そうか、男の子はそれぐらいがいいよな、うんうん。」
そう言いながらこいつは僕でなくママをいやらしい目つきで見ていた。
僕はこんな男、知らない。
それから頻繁にクリストフは家に来た。パパの席に座り夕飯を食べ、ソファーの、パパが座る位置だった場所に陣取り、ビール片手にテレビを見ることもあった。
「そうだ!やれ!ぶっ潰せ!」
アイスホッケーの試合を見ている時のクリストフは、声を荒げて乱暴な言葉を吐く。それが始まると僕は、自分の部屋に閉じこもった。
パパはけして怒鳴ったりしない。
ママ。ママとパパは高校の同級生で、卒業後すぐに結婚して僕が産まれた。ママはおじさんのコーヒーショップを手伝っていたのだが、ママのような店員のことを『看板娘』と言うらしい。ママは豊かな赤毛を束ねてよく働き、いつもニコニコしていた。だからママの淹れるコーヒーを飲みに、この町の親父達がお店に通うのだ。
パパはスーパーマーケットで働いていて、よく余った魚を貰って帰ってきていた。パパはスーパーマーケットの制服を着て、家から出勤していた。胸元にワッペンの付いた緑色の半袖のシャツで、背中には大きく『ヒルヴィマーケット』の文字が入っていた。痩せているパパには少し大きかったが、僕はその制服が好きだった。
あの制服はどこにいったのだろう。いつ頃からか、パパは制服を着なくなり、家に居るようになった。ママが言うには、郊外に大きなショッピングモールが建ち、みんながそこへ買い物に行くようになったので、スーパーマーケットの売り上げが落ちたらしい。パパはクビになったのだ。
パパとママはよくケンカをするようになった。違う、ケンカじゃない。一方的にママが怒っていて、パパはいつも『ごめんね』と謝っていた。
うちにお金が無いのだという事は、徐々に分かった。家に沢山の手紙が届いていた。きっと催促されていたのだ。僕は、靴が少し窮屈になってきたのだが言わずに、そのまま履くこととした。それでも、パパのせいではないのだから、ショッピングモールが建ったせいなのだから、僕はパパを怒るのはおかしいと思っていた。ショッピングモールになぞ決して行くまいと誓った。クラスメイトから、大きなおもちゃ屋があり、TVゲームの種類が豊富だと聞いた時には心が揺らいだが、いやいや、断固として行かないと改めて誓った。ショッピングモールは憎い相手なのだから。
パパがショッピングモールに清掃員として働くことになったと聞いた時の、僕の怒りが想像できるだろうか。仕事を失うことに自分を追いやった敵に、パパは身を売ったのだ。パパは青色の清掃員の制服に身を包むことになった。ダサい、薄汚れた青色だ。
食事中、モールがどれだけ大きいか、どれだけたくさんのお客さんで溢れているのかなどを、自慢げに語るパパの神経が僕には信じられなかった。
「そうだ、今度の日曜日にモールに行こうよ。パパ、案内できるよ。」
僕はとにかく腹を立てていた。
「行きたくない。」
「リョーカの好きなTVゲームも沢山あるんだよ。お店でできるんだよ。」
おもちゃ屋でゲームを試せる話はクラスメイトから聞いていた。街の男の子達がこぞって腕試しに行くのだと。僕だって本当はしたい。新しいゲームをしてみたい。でも我が家の敵であるショッピングモールに行かないと誓っていたのだ。パパは馬鹿だ。
「行かない。」
「そうだ、もうすぐクリスマスだね、サンタさんにお願いするプレゼントの下見に行くってのはどう?」
ちなみに、賢い僕はサンタクロースなどこの世に居ないことはとうの昔に知っていた。僕は、パパにイライラして、意地悪なことを言った。
「クリスマスに欲しいのは、新発売のバズーカマンのゲームだけど、どうせ買えないでしょ?だったら見に行ってもしょうがないじゃん。行かないよ。」
モールで働きだしたパパだが、以前よりもうんと給料が下がったということを、ママが言っていた。うちに相変わらずお金が無いことは分かっていた。
「・・・ごめんね。」
パパはそう呟いた。
何で僕が怒っているのかもきっと知らない癖に、謝られても許す気にはなれなかった。これが一年前の話だ。
去年のクリスマス、僕には勿論プレゼントは届かなかったが、加えて僕はパパも失ったのだった。
下校途中、アパートへの道を通り過ぎ、気が付いたら森が見える所まで来ていた。雪がはらはらと降り続いているのだが、糸杉が密集した黒い森には積もらずに、吸収されていってるように見えた。この道を向こうに渡り、数分歩けば森だ。僕は帽子や睫毛に降り積もる雪を気にも留めず、ただ立ち尽くして森を見つめていた。
「リョーカじゃないか。こんな所で何してるんだ。」
振返ると、パパが働いていたスーパーマーケットのヒルヴィさんが、車を止めて窓の中からこちらを見ていた。
「ヒルヴィさん。こんにちは。」
僕は自分に降り積もった雪を払った。
「こんな所に居たら風邪ひくぞ。一人か?送ろうか?」
「いえ、大丈夫です。」
「また迷子にでもなったら大変だぞ。あの時はお前の親父がひどい騒ぎようだったな。リョーカがいない、リョーカがいない!って。」
「何の話ですか?」
僕はヒルヴィさんを睨み付けた。
ヒルヴィさんは、パパの事を話題に出して『しまった』という顔をした。
「まあいいや、じゃ、気を付けてな。道草しないで早く帰れよ。」
ヒルヴィさんの車が排気ガスをぶほぶほ吐きながら去っていった。パパをクビにした男だ。パパは朝早くから頑張って働いていたのに。彼の口から出た言葉も排気ガスと同じだろうと思った。
「そうだ、リョーカ。今度釣りに連れてってあげよう。」
家に帰ると、クリストフがまた食卓にいた。お前の家じゃないのに。
「あら、いいわね。良かったわね、リョーカ。」
「君の作る料理は本当に美味しいよ。」
「嬉しいわ。これ、得意料理なのよ。」
ママのそばかすが好きだった。どんよりとした雲が空を覆い、雪ばかり降らせるこの町で、ママのそばかすは太陽に愛されていることの『しるし』のようで、僕は好きだった。なのに、ママはこの頃厚い化粧をし、そばかすを隠すようになった。新しい服が増えた。
もうすぐクリスマスだ。パパがいない二度目のクリスマス。ママは僕の知っているママじゃなくなってきている。ママもいない。
「リョーカ、あなたの好きなビーフシチューよ。おかわりはいいの?」
「うん。ありがとう、ママ。」
僕は食事の味が分からなくなった。
ある日、夢を見た。
僕はパパと一緒に、あの森を歩いている。パパが僕の手を引くんだ。こっちだよと。
森はあの日と同じく、一面の雪で。
光が無い。
音も無い。
僕達の白い息が出ては宙に消えていく。
僕はあの少女を見つける。
汚れた、ぼろぼろの灰色のマント。フードを深く被っているので顔は見えないが、僕と同い年ぐらいの少女だ。
金色の長い髪がフードの端から垂れ下がっている。
僕は足を止める。でもパパが僕の手を引くんだ。
少女に近づく。
少女の首には、沢山の、沢山の鍵のついた鎖が巻かれている。
そして少女は、こう言うんだ。僕に。男の声で。
「お前が開けて欲しいのはどの扉だ。」
僕は熱を出し寝込んだ。度々あの夢を見た。
そういえば、パパから昔、森の話を聞いたような気がする。僕がまだ小さかった頃だったので、よく思い出せない。森に誰かいたとか、確かに見たのだとか、誰にも言ってはいけない秘密だとか・・・。
パパは、森に少女がいることを知っていたのだろうか。
休みの日の午後、僕はクリストフに連れられて川へ釣りに来た。釣りは初めてだったので、餌である虫を針につけることが気持ち悪く、また手もかじかむので、早く帰りたかった。
魚はなかなか釣れなかった。
「学校はどうだ、リョーカ。」
でっぷりとした腹に釣竿を押し付けながらクリストフは口を開いた。
「どうって。普通だよ。」
「そうか。クリスマスプレゼントには何が欲しい?言ってごらん。買ってあげるから。」
僕がサンタクロースの存在をまだ信じていたらどうする気だ。
「いいよ、別に。」
「遠慮するな。去年はどうせ貰えなかったんだろ?」
僕は黙り込んで、雪解けの冷たそうな川の中を見つめていた。魚なんかいやしない。
「何が欲しいんだ?言えよ。買ってやるから。ママにはダイヤモンドの指輪をねだられているんだ。」
ダイヤモンドが高価な物だってことぐらい、子供の僕にでも分かる。ママは、ママはどうしてこんな男を選んだのだろう。パパのことはもう忘れてしまったのか?
「そうだ、新しい家も探さなくちゃな。」
「え?」
「引っ越すんだ。あんな古くて隙間風の入る家、住んじゃいれないだろう。大体、恥ずかしいじゃないか。俺はな、いずれ支店長になる男なんだ。」
「嫌だよ、僕。」
「嫌だ?あんなみすぼらしい家の方がいいってのか?もっといい暮らしをさせてやるって言ってるんだよ。俺の言うことを聞いていればな。リョーカ、お前まさか、父親が戻ってくるとでも思ってるのか?」
僕はギクリとして顔を上げ、クリストフの方を見やった。
「馬鹿だなあ。あの男は一生病院から出られんよ。狂っちまったからな。そうか、リョーカは父親がどんなふうになってしまったのか、聞いてないんだったな。」
クリストフが腹を揺らしながら笑った。
「何の話?」
僕の知らない話を、パパの話をこの男が知っている。
景色が歪んで見えた。
「お前の父親は、森にお化けがいるって話を信じて、そいつに会いに行ったそうだ。ショッピングモールで真夜中に発見された時も、その話ばかりでろくに会話もできなかったそうだぞ。それで。おっと。かかったぞ!」
クリストフの竿がしなった。こんな男の餌に食らいつく魚がいる。
「森には、本当にいるんだよ。僕、見たんだ。」
「何言ってるんだ、お前までイカレちまったのか?まさか遺伝じゃないだろうな。やめておくれよ。おっと。こいつ。」
クリストフはリールを巻くことに苦戦している。
「パパは嘘つきじゃない!本当なんだ!」
僕はクリストフの釣り竿に両手で掴みかかった。
「何しやがる!」
こんな男に魚を捕まえさせてはいけない。逃がしたい思いで、僕は両手に力を込めた。竿がミシッと音を立てた。
「このガキ、離しやがれ!」
クリストフは僕のお腹を蹴飛ばした。僕は後ろに吹っ飛び、砂利の上に倒れてうずくまった。痛い。パパなら、こんな乱暴しないのに。
「折れたらどうするんだ、高いんだぞこの竿。まったく。」
クリストフは僕の方なんて見もせず、竿とその先の魚にしか興味が無い。
パパなら。
パパに会いたい。
ママもクリストフも大嫌いだ。
僕は立ち上がり、お腹をさすった。口の中に変な味がする。
「森には、いるんだよ本当に。女の子が一人で。」
「そうかい。そいつはお前ら狂った親子に何をしてくれるんだ?ん?」
クリストフはリールを巻きながら声を荒げた。魚が跳ねる音。風の音。
僕はどうしてこんな所にいるんだろうか。
「扉を開けてくれるんだよ。」
クリストフの背中に向けてそう呟くと、僕は立ち去った。
森。あの時は来るものを拒んでいるかのように見えたが、今では僕は歓迎しているかのようで、吸い込まれるように僕は奥を目指した。
そうだ、夢と同じだ。パパが僕の手を引いている気がした。
僕は雪に足を取られながら歩みを速めた。汗がこめかみから流れた。
奥へ、奥へ。道は分かっている。お腹の痛みも、クリストフへの苛立ちも、ママのことも忘れられた。雪が、森が僕を包んでくれている。
暗い森は何の匂いもしない。生物の気配が無い。僕は随分と走った。
いた。
あの子だ。
少女は光の差し込む開けた場所に、俯き加減でただ立っていた。僕は足を止め、鳴りやまない心臓の音を連れて、ゆっくりと彼女に近づいた。一歩ずつ。
薄汚れた灰色のマント。フードからは長い、透けるような金色の髪がだらんとただそこに付いている。
また一歩近づく。マントから、細くて汚れた両足が伸びている。裸足だ。裸足で雪の中に立っているのだった。これだけの心臓の音を鳴り響かせながら近づいているのだから、彼女はとうに僕のことに気付いているだろう。だけれども彼女は横を向いたきりこちらを見なかったので、僕は震える足を何とか引きずり、正面に回り込んだ。
また一歩近づく。首には何本もの鎖がかけられていて、そこには数えきれない程の大小様々な鍵がぶら下がっている。どれも古く、錆だらけで、黒く変色した物や折れそうな物もある。
また一歩。フードを深く被っているのでやはり顔は見えないが、覗き込む気にはなれない。彼女の、口元だけ見える。生気の全くない、青紫色の唇は少しだけ開いており、そこから暗闇が見えた。
僕は生唾を飲み込み、彼女にこう言った。
「開けてもらいたい扉があるんだ。」
彼女はゆっくりと頷いた。動いたんだ。
「・・・こっちだよ。」
アーヤの話では、少女はその扉までついてくると言っていたので、僕は歩き出した。心臓はまだバクバク鳴っていて、動き過ぎでこのまま止まるんじゃないかとさえ思えてくる。汗の粒が額から次々浮き出ては流れたが、拭うことも忘れていた。僕は歩みを止めず、少し進むと振り返っては彼女がついてきていることを確認し、道案内に努めた。
森を少女と二人で歩いたんだ。
糸杉も、遠い空も、足元の雪も、吐く息も、そこにあるであろう空気も、さっきまでとは違い、古い写真の中の物のようで自分と接していないように感じた。
こんなことをしている自分が信じられなかった。この先どうなるのか不安が無いはずは無い。きっと僕はひどい顔をしていたと思う。眉は歪み、その下で見開いている目はキョロキョロと焦点は合わず、鼻は酸素をまともに取り入れられておらず、口は乾き、歯がガタガタ鳴っていた。
森を出ると、日はとっくに暮れており、闇が町を包み込んでいた。僕達は町を歩いたが、不思議なことに誰にも会わなかった。人がいないんだ。車も通らず、犬やカラスの鳴き声も無く、見覚えのある風景なのに知らない町に思えた。生活のかけらも感じない。彼女は僕から数メートル離れてついて来ている。アスファルト上の汚れた雪を、裸足の足がびちゃびちゃと踏みつける。
僕の住んでいるアパートが見えてきた。クリストフは釣った魚を得意げに持ち帰っているのだろう。ママは僕を心配しているだろうか。いや、この魚をどう料理したらクリストフが喜ぶのかを思案しているに違いない。僕は振り返り、少女がこちらへ歩いてくることを確認した。ほら、パパが言っていた森の少女だよと奴らに伝えたい。パパは嘘つきじゃなかったことを証明したい。でも僕はアパートを通り過ぎた。開けてもらいたい扉はここには無いからだ。
町を過ぎ、大通りに出たが車一台通らなかった。真夜中みたいだ。森と同じように無音で、ビルの窓には明かりが無い。少女が、森から闇を連れてきたのだろうか。
目的地は本来、電車で行く距離だったので僕はかなりの距離を歩いていたが、疲れは微塵も感じなかった。心臓はまだフル活動中だこんな時間に一人で出歩いたことはないので、夜の闇が僕の心を盗み出そうとひゅうひゅう冷たい風を吹かせたが、僕は心細さに気付いてないふりをすることに慣れてきていた。もう少しだ。地図で何度も確認しておいた、絵葉書にいつも書かれているパパの病院の住所まで。
その古く大きなコンクリートの建物には、『精神病院』と書かれた看板がついていた。夜の病院を初めて見た。不穏な闇が建物にべっとりと巻き付いている。夜の学校よりも更に不気味に思えるが、僕の連れに比べれば大して恐ろしくはなくはない。
正面玄関のガラス戸を押してみる。グッという、物が当たる音がした。当然ながら鍵がかかっているのだ。僕はほっぺたを冷えたガラス戸に押し付けて、中を覗き込んでみた。人の気配は無く、非常灯の緑色のランプだけが、ぽつぽつと遠くで冷たく光っている。
彼女が僕に追いつき、隣に並んだ。俯いたまま、声も発さずに、よろめいたりも疲れも見せずに、ただそこに立っていた。
「この扉を開けて欲しいんだ。」
僕がそう言うと、彼女は汚れた細い手をゆっくりと胸元へ動かした。その指に爪は一枚も無く剥がれており、黒い血の塊のようなものがこびり付いている。彼女は一本の鍵を掴むと、そのまま正面玄関の鍵穴へと差し込んだ。
ガッチャン。
鍵が開いた。
と同時にぼとっと僕の足元に何か落ちた音がした。見ると、肌色の物体が地面に落ちている。
僕の小指だった。
左手の、小指があった部分には空間があった。血は出ておらず痛みも特になく、付け根に違和感もない。ただ小指が取れたのだ。
僕は声を押し殺し、震える自分の左手を見つめていた。すると彼女が初めて機敏な動きを見せた。僕に近づきさっと屈みこむと、落ちている指を拾い上げ、少し開いたままの口の中に押し込んだのだ。彼女は顎を動かし、ぼりぼりと骨をかみ砕く音を漏らし、やがて飲み込んだ。僕の小指を食べたのだ。
僕の目には涙が溢れてきて、震えが止まらなかった。でも、扉は開いたのだ。僕の小指と引き換えに。僕はガラス戸を押した。きいっという音が、病院の外と中に響いた。
「開けてもらいたい扉はまだあるんだ。」
僕は声を絞り出して言った。彼女はまたこっくりと頷き、僕についてきた。
階段で三階まで上がると、ガラス張りの廊下の先に、病棟の扉があった。分厚い金属製で、塗られている白色のペンキは剥げかかっていてみすぼらしかった。
「この扉も開けて欲しいんだ。」
彼女はまた、胸元に沢山ぶら下がっている鍵の束の中から、迷うことなく一つの鍵を掴み、鍵穴へと差し込んだ。
来る、また来るぞ。
僕の両膝は、これから起こる恐怖を前におののき、自分の物でないかのように震えた。
ガッチャン。
ぼと。
今度は左手の薬指が落ちた。
さっきよりも長い指だ。指の腹をこちらに見せて、僕の足元に転がっている。すると彼女が即座に拾い上げ、自分の口に運ぶ。
ぼりぼりぼり。
僕は左手をさすってみた。指が二本あった場所には、付け根の骨が当たるだけ。左手の残りの三本の指を握りしめた。
ごっくん、と飲み込む音がした。
僕は重い鉄の扉を押して開けた。まだだ。引き返すことはできない。
「開けてもらいたい扉があるんだ。」
彼女はゆっくりと首を縦に動かした。
院内は静まり返っている。
パパのいる五階まで上がると、今度は鉄格子の扉が行く手を阻んだ。患者を外に出さないように厳重に管理されていることに気付かされる。
「この扉を開けて。」
彼女はまた別の鍵を選び出し、鍵穴へ入れた。
ガッチャン。
ぼと。
想像がついた。左手の中指が転がっていた。外でさんざん雪遊びをしたせいで、しもやけができていた指だ。僕の指だ。彼女はそれをすぐさま口に押し込む。
ぼりぼりぼり。
美味しいのだろうか。肉も、血も、爪も、骨も、彼女の口の中で咀嚼され、やがて飲み込まれた。僕は格子戸を開けて中に入った。もうすぐだ。
「開けてもらいたい扉があるんだ。」
僕は小さな声で呟いた。
509号室。パパの部屋だ。ドアを押してみるが重くて、開く感触が無い。上に、部屋の中を覗き込めるガラス箇所があるが、僕の身長では届かない。
「パパ!パパ!」
僕はドアを叩いて叫んだ。
「パパ!いるの?」
「誰だ?」
パパの声だ。
「パパ!僕だよ!」
「リョーカか?そんなまさか。あり得ない。やめてくれ!」
「パパ!僕だよ!会いに来たんだよ!」
「嘘をつくな!リョーカがいるものか!ああ、俺は耳までおかしくなってしまったんだ。」
「パパ、ドアを開けてよ。僕を見てよ!」
「嫌だ!何も聞こえない!いやしない!」
パパの泣きそうな声が廊下に響いた。パパをここから助け出さなきゃいけない。
僕は、後ろを振り向いて言った。
「この扉を開けて!」
彼女に告げ、ドアを叩き続けた。
「パパ!パパ!僕、本当に来たんだよ!」
ガッチャン。
ドアを叩く手を止めると、今度は左手の親指が床に転がっていた。僕はもう気にも留めず、ドアを開けて部屋の中に入った。
「パパ!」
部屋の隅に置かれたベッドの上に、頭を抱えて座っているパパがいた。
「パパ!」
僕はパパの傍に駆け寄り、抱きしめた。
「リョーカ、本当にお前なのか?」
パパも僕をぎゅっと抱きしめ返してきた。
「パパ、会いたかったよ。ずっと会いたかったよ。」
僕は涙が溢れる両目をパパの胸に押し付けた。パパの暖かい手が、僕の頭を撫でる。
「パパもだよ。元気にしてたか?」
「パパ、帰って来てよ。パパじゃなきゃ嫌だよ僕。引っ越しなんてしたくないんだ!」
パパの胸。パパの体温。
「パパも帰れるものなら帰りたいさ。でももうダメなんだ俺は。」
「聞いてよ、ママがね。」
「誰だ!誰かそこにいるのか?」
僕は顔を上げ、振り返ってパパの声の先を見た。
ごっくん。
灰色のマントの少女が、部屋の入口に立って僕の親指を飲み込んでいた。
「お前は!」
パパは僕を突き飛ばし、ベッドの上に立ち上がって後ずさりした。尻もちをついた僕は、急にパパから、しかもパパの手で引き剥がされた事に驚きを隠せず、立ち上がることもできずにパパの方を見やった。
「お前だろ!分かるんだ、見えなくてもな!気配で分かるんだ!」
伸びたパパの長い髪がめくれ、窓から差した月明かりのもと、パパの顔が見えた。
両目が無い。
両方の目の玉が無く、空洞だ。
「パパ」
パパの顔は、僕の知っているパパの顔はもう無かった。僕は座り込んだまま、後ろへじりじりと下がってしまった。
「どうして、パパ、どうして。」
パパは壁に背中をこすりつけながら叫んでいる。
「そうか、リョーカの幻もお前が連れて来たんだな!リョーカがいる訳が無い!お前が作り出した幻なんだ!」
「パパ、その目はどうしたの?」
僕は震える声で聞いた。
「どうして?はははははは!どうしてって!食われちまったんじゃないか!なあ!お前に!二つとも!」
まさか。
僕は少女の方を見た。ただそこに立っている。パパの声など聞こえていないかのように。俯き加減のままで、森で見た時と何一つ変わっていない。深く被った汚れたフードからは金色の髪がうねりながら垂れており、月明かりに照らされている。細い手足。僕の指を食べた口。もしかしてこの少女がパパの目玉も食べてしまったと言うのか。
「パパ・・・どうして。何があったの?」
「ああ、リョーカの声だ。だがお前は幻聴さ。リョーカじゃない。ああ、そうだ、そうだよリョーカ。お前のせいだ!お前がクリスマスにTVゲームを欲しがったから、お前にやるために俺は!」
「パパ?」
「夜中に忍び込んだモールの、おもちゃ屋の扉を開けてもらったのさ。でも!目だ!両目を奪われてしまった!何も見えない!ゲームがどこにあるかなんてて探せやしない!帰れやしない!そうだよ、目玉を食われちまったからなあ!」
僕はまだ立てずにいた。僕のために両目を失ったとパパは言う。そのせいで僕はパパを失い、指を失った。震えが止まらない。パパの顔にある暗闇が2つ、こちらを向いていた。
「ああああああ!リョーカ!お前のために!お前のために!まだ奪い足りないか、この悪魔め!全てお前が悪いんじゃないか!お前がこいつを連れてきたんだ。俺をそそのかすために。あの日まで俺は何も知らなかったのに。恐怖など感じたことは無かったのに。お前がこいつと出会ってしまったから悪いんだ!」
パパは頭を掻きむしり、壁を叩いては奇声を上げた。僕にはパパの言っている意味が理解できなかった。
「リョーカ、もしかして覚えていないのか?そうか、あの時お前はまだ3歳だったもんな。覚えてないか、お前は忘れられたのか、いいなあ。俺は忘れられなかった。恐怖を!呪いの言葉を、ずっと!」
パパが一歩前に出てきたので、僕はまた後ろへ下がった。
「お前がどこにもいないから、こんなに寒い日に、一人でいなくなってしまったから、俺は方々探したよ。それでもいないから、森へ行った。そしたらお前が、あいつといたんだ一緒に。見つけるまでお前は森で二日間過ごしたんだ。あいつと。お前は元気に遊んでた。お前を見つけて抱き寄せた時、『あのお姉ちゃんは友達だよ』って言ったよな。俺には一目で分かったのに。化け物だって。それから、あいつが言ったんだ。『お前が開けて欲しいのはどの扉だ。』ってな!」
僕の夢の話だ。
頭の中で鈍い音がした。
僕は、彼女を知っていたのか?パパが僕の手をでなく、僕がパパの手を引いて、この少女を・・・。
部屋の中にびゅううとあの森の風が吹いた気がした。
パパは髪の毛をブチブチとむしり、それから自分の頭を叩き始めた。
「あの言葉がずっと俺の脳味噌に食い込んでいた。だからお前がゲームを欲しがった日、すぐに分かったよ、お前はドアを開けろって言ってるんだってな!あははははは!」
パパがこっちに近づいてきた。
「来ないでパパ。」
僕は這いつくばったまま、足を引きずってドアの方へ向かった。急いで開けようとしてドアノブに手をかけるも、ガチャガチャと音が鳴る。が鍵がかかっているのだ。
パパが僕の足首を掴んだ。僕は足をバタバタさせ、その手を振り払った。
ドアの横には少女が立っている。
「この扉を開けて!」
僕がそう叫ぶと彼女が鍵を開け、僕は部屋の外に這い出てすぐさまドアを閉めた。
ドン!ドン!
「リョーカあああああー!」
パパがドアに頭をぶつけている。僕はまだ立ち上がれずに、ドアを見つめていた。
ぼりぼりぼり。
隣に少女が立っていることに気付き、思い出した。左手を見ると、変わらず人差し指が一本ある。次に右手を見ると、親指が無かった。
ごっくん。
あの夜から十年が経った。
僕はクリストフの口利きで、何とか職を得ることができ、クリストフが務める町の銀行の警備室に居た。警備室と言っても執務室と金庫の間に設けられた小部屋で、行内の監視カメラのモニターや操作パネルの置かれた机があるだけで、僕一人が座るスペースしかない。
僕はここに一日中座って、ただカメラを見ている。そして金庫を使用する行員が来た時に、金庫前の大きな扉を開けるボタンを押す。行員は鍵を使って金庫を開け、中にお金をしまったりする。行員が出てくると、僕はまたボタンを押して扉を開ける。これが僕の仕事だ。ボタンを押す、それしかできないからだ。
僕には両方の人差し指、つまり二本しか指が無かった。
あの夜、僕は病院から出るためにも来た時と同じだけの扉を開ける必要があり、行きと帰りで計八本の指を少女に奪われたのだ。
あの年のクリスマス、クリストフはTVゲームを買ってくれなかった。僕の指ではゲームができないからだ。ママはクリストフと結婚し、僕達は隣町に引っ越した。その際にはおばあちゃんの作った毛糸の小物は捨てられた。
ママはおじさんのコーヒーショップで働くことを辞め、クリストフ専門の看板娘としてクリストフのご機嫌取りに努めた。ママは事あるごとに『クリストフに感謝なさい』と言う。クリストフにだろうか、クリストフのお金にだろうか。
ママは妹と弟を産んだ。だけども二人とも僕のことをお兄ちゃんだとは思っていない。そりゃそうだ、クリストフが僕のことを息子だなんて思っていないのだから。
ママは、出産を重ねるごとに体重を増やし、クリストフによく似てきた。かつての美貌を失ったママに対して、クリストフは執着心をやがて失った。クリストフは週末、家に居ないことが増えた。行員の若い女と浮気をしていると、行内でももっぱらの噂だったが、ママには興味の無いことのようだった。ママはよく食べ、体重を増やし続け、ぬくぬくと暖かい家の中で過ごし、へそくりを貯め、満足そうだった。
それでもクリストフから離縁を言い渡されては困るので、ママは家のことはよくやった。妹と弟の世話をし、部屋はいつも片付けて、美味しい料理を拵えた。でもママは、ビーフシチューを作らなくなった。
15になったアーヤは、女優になると言って家を出たが、それ以来音信不通らしい。ダルコは13歳で死んだ。癌だった。
あれからパパには一度も会ってない。絵葉書も来てない。
僕は、3歳の頃のことを少しずつ思い出した。迷子になったこと。森で過ごしたこと。雪の中で時間を感じなかったこと。実際には僕が行方不明になってから2日も経っていたのだが、あの森の中で僕は、閉ざされた澄んだ空間に守られてケガ一つなく過ごしていた。僕を見つけた時のパパの表情を思い出した。喜びから一転、強張った顔になり僕をすぐさま抱き上げ、その場から逃げるように去った。
2日間も子供が一人で雪の中を生きていられる訳がないので、パパは二人だけの秘密だと言った。近くの廃屋で見つけたと周囲には嘘をついたのだ。パパは、『大丈夫だ、大丈夫だ』と僕に言い聞かせた。『あいつはもういない。あれは何かの間違いだ。ここにはいない。』パパは、自分に言い聞かせて必死に拭い去ろうとしていたのだろう。少女の禍々しい面影を、言葉を。しかし結局忘れられなかったのだ。真っ新な雪に落とした一滴の墨は、やがて広がりパパを侵した。
あの少女は僕の命を救ったのだろうか。どうしてだろうか。友達だからだろうか。いや、違う。彼女は自分に依頼してくる者を待っているだけなのだ。そうすれば食べることができるから。
僕は最近、家を、町を出ることばかり考えている。あの夜、町には人ひとりいなかった。今は、人は視界に入るけれども、皆いないのと同じだった。僕は誰とも口をきいてない
町を出て、どこか遠くに行きたい。この透明な檻から外に出てみたくなったのだ。雪の降らないところなんてのもいいだろう。それには、お金が必要だ。
「開けてくれ。」
男の行員がドアの前で僕に言う。僕は右手の人差し指でボタンを押す。ビーッという音が鳴り、扉がゆっくりと左右に開く。男は銀色に輝く鍵を使い、金庫の大きな扉を開けて中に消えていく。
僕には一つの計画があった。そう、指はまだ二本あるのだ。大金までの扉は一枚だ。
あの少女に言うのだ、
「開けてもらいたい扉があるんだ。」と。