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第三部 昭和初期の九州福岡1

 大正の時代は大正十五年の年末に大正天皇の崩御によって十二月に昭和となった。

 私が数え年で七歳の時であった。即ち幼稚園の今で言う年長組の時だった。

 すぐに正月を迎え昭和二年と年号が変わって私は八歳になり、四月には帰範附属小学校へ上がる事となった。

 大正天皇の御大葬は私の記憶では二月に行われた様に思われる。

 その理由は幼稚園で御大葬の式典が行われたときに皆で歌った御大葬の歌が、今でも私は歌うことが出来てその歌詞を覚えているからである。その歌詞の中に「如月の空はる朝み」という文言があるからだ。

 その後に「黒白あやめも分らぬ闇路やみじを行く」と続くのだが、如月とは二月の事であるからきっと御大葬の行われたのは二月であったと思う次第なのだ。

 御大葬の日は酷く寒い日だったことしか覚えていないが、何故かその歌は今でもスラスラと口から出るのが不思議な気がする。

 大体私は若い頃は歌を覚えるのは得意な方であったし、実際に古い流行歌はやりうたや軍歌、軍国歌謡、歌謡曲等は今でも人々に驚かれるほど知っていて歌うことが出来るのだ。

 しかしこの後行われた昭和天皇の御大典の時には、奉祝の歌があった筈であるのに全く何の憶えも無いのが私にはその理由が分らない。あるいは奉祝歌が作られなかったのかもと考えられる。

 四月になって入学した帰範附属小学校は今で言えば進学校であって、中学、高等学校、大学へと進学する子供が殆どであった。

 当時は現在と違って義務教育だけで終わる人が大多数の時代であったので、この「フゾク小学校」へ上がる子供の家庭は俗に言う「良い家の子」が多かった。

 今の日本でも有名大学へ入るのは容易ではないが、その頃はその様な大学へ入る事は大学そのものも絶対数も少なかった事もあり、今よりも更に困難であったように私は思っている。

 ちなみに私が大学在学中の学生時代に私が在籍していた慶応義塾の経済学部は、入学できる者の比率は25人に1人であった。そのことは私がその時の試験場に臨席する試験管と一般に呼ばれている立会い監視員を務めた経験があるので確かである。確か一日の日当を五円位支給されたと憶えている。受験者の中学生や浪人の数が余りに多いので、正規の教職員だけでは手不足になるので、信頼できると思われる学生を指名して、応じてくれた現役学生を採用したのだった。当時その金額は学生にとってなかなかの大金であったので私は二つ返事で応募採用された。

 昼食を学生食堂で食べると15銭でライスカレーやハヤシライスが食べられた頃である。

 話が度々横道に外れるが「フゾク小学校」では教生きょうせいと呼ばれる帰範学校の学生の実習の先生が一つのクラスに四人程付いていた。

 本来の教諭の授業の外にこの教生の先生は当然若くて一年生の生徒には大きなお兄さん的存在であり、面白く遊んでくれて毎日学校生活を楽しいものにしてくれた。

 人手が余る程あるので教育内容も充実していて、低学年でも正規の国定教科書に加えて副読本も使って教育が行われていた。

 したがって正規の進度より遥かに先へ進んだ授業が先行していて、後は普通の小学校へ転向した時に私はその差の余りにも大きな事に驚いたものだった。

 この学校では男女それぞれ一クラス宛があるのみで各学年に幾クラスもある普通一般の小学校とは随分異なっていた。

 しかし男女七歳にして席を同じうせずの時代の事であったので、女子児童との接点は全く無かったに等しく、八十有余歳の私は今尚女子生徒の存在に関する記憶や思い出は全くの皆無であり、女生徒が同じ時期、同じ学校にいたという事が信じられないのである。

 日本が戦争に敗れて迎えた終戦の後、暫くのときを経て昔を懐古する心の余裕が出て来始め、色々の同窓、同期の会活動が活発になってこの「フゾク小学校」のクラス会も誕生し活動が始まった。

 音頭取りや旗振り役をやる者も、戦争の中で生き残った者の中から出てきた。

 前のほうで述べられた仙台市の光禅寺通りの我が家の正面の太田博士の倅の河合正一(正ちゃん)もその内の一人で、私を探し出して連絡をくれた。正ちゃんは横浜大学の教授になっていて建設の方の学者で有名な先生だとの事を知った。また庶務をやってくれているのはKDDの重役の児島光雄君で度々会合を企画して面倒見の良い幹事さんになっていた。

 会は名簿を「八申会ハッシンカイ」と名付けられており女子生徒も何名かいた。

 私は先に書いた様に女の子の存在すら意識に無かったので、女子の名前が名簿にプリントされているのに驚きを喫したものだった。

「ヘエーッ女もいたのかい?」と私は正ちゃんや児島君に尋ねて笑われた事を覚えている。進学校の「フゾク小学校」出身者は殆ど皆一流大学を卒業してそれぞれ社会人として各方面の要職について祖国再建に働いておられたが、その職業の比率において大学教授が多いのにも驚いたのだった。

 矢張りエリートというのか秀才といえば良いのかは分らないが、氏や素性が良くて高度の英才教育を受けた連中は皆それぞれ成るべくして成ったのだと言われる人生を歩いていたと思われる。

「八申会」の名称は昭和八年に「フゾク小学校」を卒業した申年サルドシ生まれ(大正九年生まれ)の者の会の意味である。

 自分の事を言うのは何か抵抗を覚えるのではあるが、私は総て本当の事を書いておきたいので敢えて赤裸々に書いて行く事にする。

 この「フゾク小学校」に私は一年の入学から二年生の一学期の終了即ち夏休み前まで在学し、夏休みに父親が九州福岡市の支店長に転任する迄在籍した。

 二年生の一学期の終了時私はクラスで一番の成績であった。優等生だったのだ。

 ここまで書いて不思議に思ったのだが、私は「フゾク小学校」での女子生徒の存在についての記憶が全く無いと書いて来たのだが、今その頃綴り方や先生に提出する用紙に名前を記入する際、一年大谷正彦ではなくて常に「一年男ダン大谷正彦」と書いていた事を突如として思い出したのである。

 即ち一年男は女の生徒がいたからこそ書いた事に他ならない。矢張り女性とはいたのだったと納得出来た。

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