第二部 大正生れの育った時代5
仙台在住中の最も印象に残る出来事はラジオの出現だった。
既に東京や大阪ではラジオ放送が開始されていたが地方都市の仙台では未だだった。
仙台にもラジオ局が出来て放送が始まるというので市民は期待で皆がその日を待っていた。
私の母の弟はその頃東北帝国大学の理学部の学生であって、二番目の姉である私の母の家に下宿人の如くに同居して通学していたのだった。
この叔父は所謂学者肌の人で、家業の質屋の跡を継げるような人ではなかった。
叔父は早速受信機を造り、また子供用には何台かの鉱石ラジオをこしらえて与えてくれた。
最初の頃は受信用のラッパは無くて、レシーバーで聞く方式であった。今でいうイヤホンである。
したがって当然一人宛交代で順番に頭にかけたレシーバーで聞くのであるから、一人が聞いている間は他のものには聞くことが出来ない。
皆早く聞きたくてムズムズしながら順番を待つのであった。
放送開始の日、私は学校が終わると十町の道を一目散に走って帰宅した。
座敷には家族全員が丸く輪になって座っており、真中にラジオが置かれていた。
そのうちに時間が来て放送開始となった。タタミの上のレシーバーからピーピーという様な音が流れ出た。
皆は一斉に興奮して「あっ鳴った鳴った」と叫んだものだった。
何しろ生まれて初めて聞く音である。その音は遥か遠方で発する音であり、当然眼に見えない遠い所の音なのである。
今この所にいる人間達は、今迄に聞く事の出来なかった遠くで発生した音を、同時に聞くことが出来たのだという不思議さと科学の力を現実に身に沁みて何となく身体中がゾクゾクする感覚を感じたのであった。
叔父は、これは雑音であって人の声が入らないので具合が悪いところを直すので少し待って欲しいと言って修理に掛かった。
修繕が済んで暫くアナウンサーの音声が入るようになって、皆は順次耳に当てたレシーバーを通じて人の声を聞くことが出来た。
放送の内容が何であったか、何をアナウンサーは喋ったのかの記憶は私が幼かったせいで全く存在しない。
しかし人間が近代科学を生み出し、文明が急速に進み出した二十世紀の初頭の時代に生きた我々の世代は、日進月歩の現実の世界に日々接して生き、目まぐるしく新しい事物に接しながら近代社会の中へと進んで行ったのだ。
私が少年時代に子供たちに人気があった科学的未来空想小説の海野十三さんの書く物語をその頃の少年は近い将来の現実として捉えて胸を膨らませたものであった。