第二部 大正生れの育った時代4
仙台在住当時に何らかの博覧会が催された。
その博覧会を見に伊勢の祖父母がはるばる仙台までやってきた。
戦後日本の大阪万博の目玉は月の石であり宇宙船であり、またその後の平成十七年の名古屋万博ではマンモスであったりしたが、当時の仙台の博覧会では私の記憶では「エスカレーター」であり「テレビジョン」であった。また子供の時には何と言っても「ウォーターシュート」が最大の魅力であった。
ラジオは当時TOAK(東京)とJOBK(大阪)は始まっていたような気がするが、仙台のJDHKはまだ無かった様に憶えているが確かではない。
エスカレーターは自動的に動く階段であり、人は自分で歩かなくても段々の方が自動的に動いてくれる文明の利器であるとの事で、乗る人々の長い列が出来て、確か若干の料金を支払って乗ったような気がする。
会場内の小さな丘に設置されたエスカレーターは、丘の麓から丘の頂上まで階段にただ立っていて景色を見ているといつの間にか丘の上に到着できるので大層人気があった。
テレビジョンなる物は受像機の画面に何か分らないが曖昧模糊とした画像の如きものが映っているだけで、それが一体何の映像なのかは全く識別できない程度のものであった。しかしこれを見る人々は将来人類が、現在あるような機械で、遠くの物が活動写真の様に見る事が出来る時代が必ず来ると思って、脅威の目で見たのであった。
その頃テレビジョンは研究者や組織によって異なる方式で開発されていたようで、巷の人々は「早稲田式」「高柳式」「浜松式」等と子供の我々まで名称を覚えていたものである。
更に子供たちには何と言ってもウォーターシュートが最大の憧れであり魅力であった。
何しろ舟が小さな山の上から地面の池に向かって突進して降りて来て、轟音と共に池の水面に激突し、大きな水しぶきを上げて無事に着水するというのだから、特に男の子にはたまらない魅力があった。
その頃は今でいうビルディングなる名称は使われてはおらず、西洋館と言っていた。
仙台の街の中心部に何階建てであったかは憶えては居ないのが、多分五〜六階ほどの今の眼で見れば極く小さなビルがあった。
その西洋館にはこれまた小さなエレベーターが設置されていた。
そのビルの上のほうの階には食堂があって、西洋風の料理を食べさせていた。
時たま我が家は一家総出でそのビルの食堂に西洋料理を食べに行った様な気がする。
ハイカラな食堂で西洋料理を食べるのは勿論極めて嬉しい事であったが、それにも増してエレベーターに乗れる事は子供たちにとって最大の喜びであった。
エレベーターが上下に動いたり止まったりする度におへその下がスーッとすると言って大はしゃぎした事を覚えている。