第二部 大正生れの育った時代2
私の育った時代の事を色々と書くに当って、私が育つ頃生活した土地についての説明を要する事に気が付いた。
現在の日本でも未だそうであるが、土地柄というものがそれぞれの土地にあって、風俗や習慣や行事等は皆異なっているものが多い。
今でもそうであるから大正から昭和の初期には、甚だしく異なっていたのは当然である。それらの事を書くには私の住んだ土地を説明する必要が生じてくる。
私は最初に書いた通り大正九年即ち今流で申せば1920年に神戸市で生まれた。
私の父がある保険会社の新進の若い支店長として神戸支社に赴任して東京本社から移動してきて間もない時であったのだ。私の四年上の兄は大正五年に東京で生まれている。
父は明治四十年代に東京の慶応義塾の理財科(今の経済学部に相当)に入塾し大正三年に卒業した。福沢諭吉先生の弟子の旧伊勢島羽藩主の角野兄弟の一人の幾之進先生が社長をしておられた今で言う損害保険会社に入社した。将来を嘱望されて入社した新入社員であったらしい。
東京の麻布笄町で新世帯を持ち、兄と姉を儲けた後神戸へ支店長として栄転した。
神戸で私と弟が生まれたのである。したがって私の人間としての最も古い記憶は神戸に始まるわけだ。
私がこれから書く出来事は、私の年齢は総て現在の満年齢ではなくて、昔の日本の数え年で書くことにする。そうでないと私の古い頭は混乱してしまうからである。
即ち生まれた年は一歳であり、たとえ正月元旦に生まれても大晦日に生まれてもその年号に生まれた人は同年齢であるから極めて分りやすい。
満年齢では例えば兄弟姉妹や夫婦の年の差が、月によって変わる事になってしまう。夫と妻が三つ違いか二つ違いかが確定出来ない。
一年の内に自分の年が変わるなんて、大正生まれの私には出来ないのだ。
余談はさておき私は一歳から五歳の途中迄を神戸で過ごした。
私が四歳の時関東大震災が起こった。幼かった私には大地震の記憶は全く無い。
唯一の記憶は隣の部屋の柱時計(振り子時計)が止まったと母と女中が話していた事だけで、他には何もない。
家はしないの葺合の旗塚通りという所であったらしい。近くには公設市場があって、母と女中が買い物に行くときはいつも手を引かれて行ったものだ。女中は隣県の岡山県の農村から来た娘で名を直原トメといった。長く奉公してくれて神戸から仙台、仙台から九州博多と遅々の転任に伴ってずーっと一緒について来てくれた。
話は全く関係ないことになるが、先頃新聞記事の中で岡山県の人の事が書いてあり、その姓が直原さんであったので遠い昔の日の事を思い出したりしたことがある。昔は姓を聞くと大体出身地が分ったものであった。
昔は女中を「姐や(ねえや)」と呼んだ。山田籍作の童謡で有名な「赤とんぼ」の歌にも「銃後で姐やは嫁に行き」と歌われている。
わが家の女中の「トメ姐や」は大勢の兄弟姉妹が続々と生まれたので、この娘が生まれたのを最後に止めたいと念じて「留」と名を付けたという話を聞いた覚えがある。
留姐やに手を引かれて公設市場へ買い物に行くのは楽しくて面白かった。
魚屋のオッサンが大声で呼び込みの歌を唄っていた。今でもその歌が唄える。
「鰯ちゃん買いなーれ。買いなーれはどうじや、日暮れの烏何見て帰る」と音吐朗々(おんとろうろう)と高らかにうたい叫んでいたものだった。
神戸の目抜きの繁華街は元町であった。どういうわけか港町は横浜も神戸も賑やかな通りは元町である。
この元町の坂道を降りて行く途中の左側に大きな瀬戸物産があった。その店の看板に立派で大きな青い般若の面が掲げられていた。
般若であるから当然怖い顔をしている。それが幼い私には極度に恐ろしく思われて、何故か私はそれが「お獅子」であると思っていた。だから私が言う事を聞かないで駄々をこねて泣いたりすると、隣の部屋との境目の唐紙を向こう側からどんどんと叩いて「元町のオシシダゾー。泣いている子を連れに来たぞー」と怒鳴るのだ。
私はそれが「おとめさん」である事はわかっているのに、やはり怖くなって泣き止むのだった。何故か八十年経った今でもあの時の般若の面の表情の恐ろしさが忘れられない。
とにかく私が神戸にいたのは数え年で五歳までの事であるから、記憶といえる程のものは殆ど無いのであって、我が家の筋向いに福島さんという家があり、その家族はアメリカ帰りの世帯であって、私と同じ位の年齢の女の子がいて、その子はベビーちゃんと読まれていたのを覚えている。近所には遊び相手になるような子供は他にいなかったので、私はいつもベビーちゃんと遊んでいた。
ある時私の母が当時は沢山いた野良犬に噛まれて怪我をした事があったが、その時母の足の向う脛に傷をこうむり、真っ白な脛に赤い血が筋になって流れていた事を何故かはっきりと憶えている。神戸時代の記憶はそんな程度しかない。