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第三部 昭和初期の九州福岡2

 私の一家は両親と私と一人の妹と、それに神戸時代に岡山県から方向に来ていた女中の直原トメとの五名で博多の春吉ハルヨシ四十川シジュウカワというところに借りた家に転居した。

 家の左側は田圃タンボで蛙がないており、その田圃道を更に左の方へと進むと赤煉瓦塀に囲まれたキリスト教会が建っていた。教会は道の右側で協会より先は十字路になっていて家屋が沢山あって田圃は終わっていた。

 転居間もなく九月の二学期が始まり私は春吉小学校に入学した。

 私が入学して最初に奇妙に感じた事は、この学校の評価についてであった。

 先生を始めとして総ての人が我が春吉校は立派で良い学校であって福岡市で第二番目の優秀小学校であるという自慢であった。

 私の考えでは第二位というのは決して自慢できる事ではないのだ。一番なら自慢できる。しかしこの事はすぐにその理由が分った。

 福岡市には第一位の小学校が厳存していてその地位は絶対に動かない事になっていたのである。その第一位の小学校は「大名町ダイミョウマチ」にある大名小学校なのだ。

 大名町の名の通り大名町は旧黒田藩の福岡上の近くに位置し、お城のすぐ近くは警固ケゴマチといいその町には警固小学校があった。

 それは私見で別に根拠はある訳ではないが私が思うには警固町には警固の衆の住居地区であったのではないかと考えた場合身分の高くない武士の町だったのではないかと想像する訳である。そして大名町の方が身分の高い武家屋敷町だったような気がするのである。

 福岡市は中を隔てる那珂川を挟んで東側が博多で町人の町、西側が武士の町で福岡に分れており大名町の大名小学校は当然武家の子弟が主力の学校であった。

 当時は未だ昔の身分制度が色濃く残っており、小学校などで学校へ提出する書類にも一々氏名の右肩に士族、平民、新平民の別を書いたものだった。

 私は父の生家が名字帯刀の家であったが農家であったので、平民と書くのがいつも口惜しく、肩身の狭い思いをした事を憶えている。

 右の事情に依り大名小学校は当然士族の子供で同じその中でも高位の者の比率が高かった事は当然考えられるのである。

 それに対して春吉小学校は町人の子弟が主であったので、当時の感覚としてどうしても身分的に下位に在る事を認めざるを得なかったのだろう。

 そんな訳で私は福岡市第二の良い学校であった春吉小学校の生徒になった。

 学校に通うようになってすぐに分った事は、仙台の「フゾク小学校」と比較して著しく教育内容の進度が遅れている事だった。

 春吉小学校で習う教課内容は殆ど総てが既に私にとって既習のものであった。

 だから私には学校がつまらなく授業は唯々退屈な時間であった。その結果私には学校は極めて興味の無いつまらない場所となった。

 それに仙台の「フゾク小学校」は当時の日本の中流以上の家庭の子供が殆どで、友達の家へ遊びに行っても生活程度や家族の教養の程度が高い環境であったのに対し、春吉小学校は昭和初頭の日本の地方都市の極く平均的な経済的、社会的身分の人々の極く普通の生活環境であったので、何か溶け込み難い感じがして仲の良い友人も出来なかった。

 この春吉では小学校二年生の二学期から四年生の一学期迄の丸二年間を過ごした。

 四年生の一学期が終わって夏休みの間に我が一家は転居をした。転居先は先に書いた福岡と博多を隔てる那珂川河口の須崎の大橋の福岡川の須崎裏町という所で、海岸のすぐ傍であった。

 当時は須崎の海岸は未だ砂浜であった時代で、市内の中心部にある唯一の海水浴場になっていた。

 西公園近くの百々モモチの海水浴場は当時の感覚では街から離れた所の海水浴場であり、小学校の臨海学校の場所であった。

 須崎に移転したので当然学区は変わり、私は大名小学校へ転校した。

 その大名小学校に私は四年生の二学期から六年生の一学期迄在学した。

 そして六年生の二学期と三学期は父の東京転任に伴って東京へ移り、当時の四谷第二尋常小学校へ転校した。

 この四谷第二小学校は昭和二十年の東京大空襲で焼失した事で廃校になり、現存していない。同窓会も数年以前に後継者ゼロの事となって解散したのである。

 須崎へ引っ越して転校した大名小学校は矢張り一番のランク付けがされているだけあって総ての点で春吉校より優れており、所謂進学校であったので卒業生の多くが中学校へ進学した。その頃は中学校へ入る事は高等教育を受ける事であり、裕福な家の子とか家系や身分が上に位置する家の子しか進学する事はなかった。軍隊でも中学卒業者は幹部候補生の受験資格が与えられて受験合格者は将校に任官できたのである。高学歴というのは中学卒業者以上の学歴を有する者を指していた時代である。

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