第一部 激動の時代と大正生れの歌1
人間の営む社会はその時代によって平穏であったり、騒然たる世の中であったりと様々である。
無事太平の世があれば、激動の時代もある。
私がこれから書こうとするのは私がこの世に生を享けてから85歳の今日迄生きてきた日本の国で、私の脳裏にある種々様々の事象の中で、私がどうしても後世の人々に伝え残しておきたいと思うことをなるべく順をおって書き残す自分史に近いものである。
順を追うと書いたが、それに固執すると書きにくくなるので、必ずしも年代順の出来事を順序良く書くと言うわけではない。
私が生まれたのは大正9年である。西暦でいえば1920年だ。
すなわち、大正生まれである。言い換えれば悲劇的な大正生まれなのだ。
巷でよく言われる日本の十五年戦争とは、昭和6年から昭和20年の第二次世界大戦の終結までの15年間の戦争に明け暮れた時代のことなのだ。
その戦争の15年もの長い間、戦場では戦わされ、或いは銃後で戦争を支える力としてのあらゆる面での仕事や責任を背負わされた人々の主力が、大正生まれの男女の青壮年であった。
そして日本は明治生まれの人々の無知と驕りと自惚れにより無謀な戦争に突入し、まるで蟷螂の龍車に向かうがごとき状態で敗戦の憂き目を見たのであった。
戦いに敗れた祖国日本はまさに「国敗れて山河在り」の言葉そのままの姿であった。
戦後昭和21年に赤道の南の無人島からやっとの思いで母国へ帰還できた私は、栄養失調の身を一本の杖に托し、自分で作った背負袋を肩にして私の生還を神頼みして待ち続けていた父親の元へ戻る事が出来た。
私の兄も同じ頃、大陸の最奥地から生還した。
二人の息子を戦争に取られた親は、どんなにか待ち焦がれていたことであろう。
この点に関しては、私共兄弟は最高の親孝行息子であったと言える。
何しろ兄が7年、私が5年間と戦地へ送られ、まして私は最も死亡率が高い航空隊の戦闘機のパイロットであったので、父は殆ど生きて還る事はありえないと思っていた。
それでも親は戦中戦後にかけて、ろくに食べ物も手に入らない時代に、息子共が生きて帰ってきたら食べさせようと米を蓄えて食べずに残して待っていてくれたのであった。
帰還できた私の方も、東京大田区在住の家族が無事に生存しているかどうかは全く不明であったし、東京は丸焼けの焼け野原になっていると聞いていたので、直接東京へは行かず、父の出生地である伊勢の片田舎の実家へ上陸地の広島の大竹港から大阪を経由していったのであった。
遅々の成果で叔父に父が元気でおり、更に少し前に兄も無事生還できたと聞き安心した。
こうして私の戦後の人生はスタートした。
この稿の第一部の表題とした「激動の時代と大正生れの歌」というのは、ここまでに書いた十五年戦争なる時代に、その荒波に翻弄された我々大正生まれの日本人の真情をそのままに歌いし歌であり、大正生まれの人々の悲しく哀れな人生と人生観を余すことなく歌い上げている事で、この世代の人々に広く静かに歌われてきた歌である。
よって明治の人や昭和の人々、更に平成の人々には知られていない歌なのだ。
我々大正生まれの人間のみの心の歌である。
以下、この歌に関する事柄を書くことにする。
それは何時のことであったかは定かではないのだが、ある時私は共に復員した戦友の一人から一巻の歌のテープを貰った。
その戦友は、これはなかなか良い歌だぞ。今関西の方で大変流行っているらしいよと言うて、歌詞と共に手渡してくれたのだった。
私は早速プレイヤーに掛けてこの曲を聴いてみた。
曲の題名は「大正生れ」であった。
曲は日本人の好むマイナー調のメロディーで、雰囲気としては軍歌の「戦友」と一脈相通ずるものがある。
歌詞のプリントを目で追いながら、私はずっとこの始めて聴く歌を聴いた。
曲が終わった時私は、自分が何時の間にか泣いていたことに気が付いた。涙が頬を伝って静かに流れていたのだった。
何という歌だ。
何で俺の思っていることを全部歌っているのだ。
そうだよ。その通りだよ。
と、自分で自分の心に独り言を言った。
私は早速ダビングに取り掛かり、何本かのテープを複製した。
そしてその後催された飛行学校の同期生の戦友会に持って行き、仲間の連中に披露したのであった。戦友の中には既にこの歌を知っている者も何人かはおり、歌詞のプリントを見ながら一緒に歌った。歌いやすく覚えやすい曲であり、すぐに大勢で斉唱できるようになった。
そしてその頃既に名古屋より西の方の地方では、広く歌われていることも知った。
しかし一般の歌と違って、この歌は大正生まれの中高年者の間だけに深く広く伝わっていっており、一般の人々には殆ど知られてはいないことも同時に知った。
それから暫くたって、JRのPR誌の「ジパング倶楽部」にある投書者が「大正生れ」の歌を教えて欲しいとの要望の投稿が掲載された。
ジパング倶楽部は高年齢者の三割引きサービスを主とするJRの高齢者対象の組織であり、したがって読者は当然大正生まれが主流なのだ。
私は早速テープと譜面を送った。
私の他にも全国から沢山の人々がテープや楽譜を送ってくれたそうである。
この「大正生れ」の作詞者は「小林朗」さんという人であり、始めて書いて世に出されたのは昭和50年であるらしい。
私の手許にあるプリントのコピーを作者には無断で掲載させていただくが、同じ大正生まれの男として多分お許し下さると信じている。
以下は、作詞者小林朗さんの文章である。