第7話(1)『逃走少女』
「──はっ!」
気絶していた男が目を覚ますと、眼前には薄暗い夕空が広がっていた。
「イテテ……」
小さく呻いて上体を起こす。
その時、自分の額に載せられていた、冷たく濡れたハンカチがポトリと膝に落ちた。
どうやら公園のベンチに寝かされていたらしい。
「気がつきました?」
優しい女の子の声がした。
振り返ってみると、微笑みながらこちらを見つめる少女──夏子だ。
「商店街の近くにある公園です。 とりあえず、ここまで運びました」
「あ、ありがとう……」
男が返すと、
「“ありがとう”じゃねぇ」
急にドスの効いた声が聞こえ、夏子とは反対の方を見ると、相変わらず眉間にシワを寄せ、こちらを睨む純がいた。
その後ろに、誠也も立っている。
「オッサン、いったい誰?」
誠也の直球の疑問に、
「オ、オッサンて……」
自分はまだ、そんな年齢ではない!と、表情で否定しつつ、男が語り始める。
「僕、とある『アイドル声優』のマネージャーなんだよ」
上着のポケットから名刺を取り出し、純に渡す。
渡された名刺を覗き込む三人。
そこには、『キングス・プロモーション』という社名と男の名前。
その横には、確かにマネージャーという肩書が付いている。
「なんで声優のマネージャーが、こんな地方の町に?」
誠也が再び尋ねる。
「ウチの会社は大きいからね。 仕事の種類も様々なのさ。 内容によっちゃ、こういう所にも来るんだよ」
少し自慢げに、マネージャーの男が答える。
「実は、いま絶賛売り出し中の女の子がいて、今日は撮影でこの近くに来てるんだけど──」
急に男の顔が歪む。
「──なぜか彼女、仕事の途中で突然逃げだしちゃったんだよ!」
「……はぁ??」
純が疑問の声を上げる。
マネージャーの男は、困ったように頭を抱え、話を続けた。
「行方が分からなくなってから、必死で近くを探し回ったんだけど、携帯も繋がらないし、そもそもどこを探せばいいのか見当もつかなくって……」
「なるほど。 それで、さっき“見つけた!”って叫んだのか」
納得したように呟く誠也。
「逃げちゃったアイドルの子って、どんな子なんですか?」
今度は夏子がそう尋ねると、男は内ポケットから一枚の写真を取りだした。
写真の裏に、サラサラと書かれたサインが見える。
おそらく、そのアイドルのものだろう。
「これ、ついこの前撮ったやつなんだけど」
差し出された写真には、白い砂浜で、にこりと微笑んだ、上目づかいの女の子が写っている。
グラビアの撮影だったらしく、黄色いビキニ姿で、胸を強調するためか、手を後ろに組み、小首をかしげるその人物は──
「!!」
「えっ……!」
パッと夏子が、両手で口を押さえた。
「うそ…だろ……?」
流石の誠也も、今回ばかりは、冗談の一つも言えないようだ。
しかし、誰より驚いているのは──
「……」
石化したかのように動かない、純だった。
そこに写っていた人物は────『姫宮 純』だった。
「おまえ……グラビアアイドルになったのか?」
「なってないッ!!」
誠也の問いに、声を張り上げて否定する純。
そんな様子をみて、マネージャーの男は、うんうんと頷く。
「やっぱり、外見は双子のように瓜二つだけど、凶暴なその性格は、全くの別物だね」
「あんだとッ!?」
不躾な彼の発言に、純が噛みつく。
「じゃあ、やっぱりこの写真は別人……。 そうよね、いくらなんでも、姫ちゃんにこんな大きな胸は無いもの」
じっと写真を観察して、夏子が言う。
コクリとマネージャーの男は頷いた。
「彼女の名前は雛咲 綾ちゃん。 今年の春にオーディションで選ばれた、新人のアイドル声優だよ」
「はぇ~……。 こりゃー、確かに見間違えてもしかたないな」
写真の女の子と純を交互に見比べて、誠也が呟いた。
「どこが似てんだよ!? まるっきり別人だろ!」
しかめっ面で、そう主張する純。
誠也は呆れたように首を振った。
「おまえ、笑って上目遣いで鏡を見てみろ。 この写真見つめるのと、なんら変わらない行為になるぞ」
「誰がするか!そんな顔!」
誠也の言葉に、純は声を張り上げる。
そんな彼に、夏子が微笑んだ。
「じゃあ、今度、検証してみましょ。 どれだけ似てるか──」
「やらんッ! つーか、人違いだったんだろ? じゃあ、この話はこれで終わり!!」
イライラと瞼を伏せて、そう言い切ると、純はその場で踵を返した。
しかし、歩き出そうとした彼の体が、すぐに停止する。
……誰かが彼のジャージの裾を掴んでいる。
「なんだよ?!」
キッと、その主を睨みつける純。
掴んでいたのは、マネージャーの男だった。
「彼女を捜すの、手伝ってくれよぉ〜」
泣きそうな声で男が言ったが、
「断るッ!! 放せ! 服が伸びる!」
『間髪入れない』……その『髪』どころか、『希望の光』が差し込む隙間すら無さそうな純の口調。
そんな彼から、一向に手を離さない男の耳に、夏子がそっと口元を近づけた。
彼女がコソコソと何か伝えると、突然、マネージャーの男はパッと純のジャージから手を離した。
そして、自分の顔面を抑え、
「あ~~!イタイ! 蹴られた所が痛いよぅ~!」
と、ベンチの上を転げ回り始める。
「それは、お前がいきなりオレの身体に触ったからだろ!!」
反論する純に向かって、さらに反論したのは、男ではなく夏子だった。
「世の中、『過剰防衛』という言葉もあるのよ? 気絶までさせちゃって、この人の時間を奪っちゃったんだし、少しくらい手伝ってあげましょうよ」
宥めるように微笑む夏子。
「また、お前は……」
うぐっ…と言葉を詰まらせて、純が押し黙る。
こうなった時の夏子を、覆せた試しがない。
しかし、無駄だとわかりつつ、一応、純は目線で誠也の方を向いて、助けを求めてみた。
「見つけたら、そのアイドルのサインもらえっかな?」
目が合った瞬間、彼が零した言葉によって、やはり無駄だと言う事を純は確信した。
結局、三人は人捜しに手を貸すことになった。
マネージャーは、地理に詳しくない上、先方に連絡を入れなければならないので、しばらくこの公園で待機してもらうことにした。
「ったく、こっちは練習後で疲れてるってのに……」
首の骨をゴキゴキと鳴らしながら、商店街を歩く純。
「まぁまぁ、そう言わないで。 さっき、マネージャーさんが、雛咲 綾さんの『手がかり』を書いてくれたから、とりあえず、それを見てみましょう」
そういって、夏子がメモを開く。
中を覗き込むと、紙には、とてつもなく大きな字で、たった一行だけ書かれていた。
“とにかくドジ!”
「……」
「これ、オレ達に力貸す気あんのか?」
いつものように眉間にシワを作った純が、二人に言った。
丁度、そのとき──……
「あら、あなた。 大丈夫だったの?」
「??」
メモを覗き込む純達に、またも見知らぬ人物が声をかけてきた。
今度は中年の主婦だ。
またがった自転車の籠の袋には、食材や缶詰が大量に入っているのが見える。
「大丈夫って……──まさか?」
純は夏子と誠也を見返す。
「失礼ですが、この子とそっくりな女の子、どこかで見ませんでしたか?」
代表して、夏子がそう尋ねた。
主婦は驚いた顔をして、
「あらヤダ。 この子、さっきの子と違う子なの? 双子か何か?」
ジロジロと純を眺める。
「まぁ、そんなもんかな」
適当に話を合わせる誠也。
「それがね。 今さっきスーパーで買い物していたら、お店の中で、その子とぶつかりそうになったのよ。 急に飛び出してくるものだから……」
「……急に飛び出す?」
怪訝な顔で純が聞き返すと、手をヒョイと動かして、主婦は続けた。
「そうなのよー。 出会い頭に、わたしを避けようとして、勢い余った彼女が棚にぶつかってね。 山積みのトイレットペーパーが崩れてきて、生き埋め状態になって──」
「ソイツだ。 間違いない」
呆れたように、純が眉間にシワを寄せる。
主婦はまだ喋り続けた。
「──わたし、“大丈夫?”って聞いたんだけど、“ハイ”とだけ答えて、崩れたトイレットペーパーもそのままに、また駆け出していっちゃったの」
「そんな必死にマネージャーさんから逃げてたのかしら?」
ポツリと呟く夏子。
純と誠也は首を傾げる。
すると、主婦はさらりと告げた。
「ええ、逃げてたわよ。 数人の男たちから」
「……え?」
聞いた三人は顔を見合わせる。
「数人……?」
純がオウム返しすると、コクリと頷いて、主婦は言った。
「仕方がないから、わたしが崩れたトイレットペーパーを直したのよ。 そしたら、出口に向かって走っていく彼女の後ろを──四人くらいだったかしら?──男が追いかけて行くのが見えたわ。 わたしの勘なんだけど、あれは恋愛関係のもつれね」
主婦の状況説明と、間違った個人的推察が終わったあとも、純達は押し黙っていた。
「……ねぇ、姫ちゃん──」
夏子が沈黙を破る。
「──私、あまり良い予感がしないんだけど」
「奇偶だな、夏子。 おれもだ」
誠也も、横目で純を見つめながら呟いた。
煩わしそうに、ガシガシと長髪を掻き上げる純。
「それ、目撃したのいつ?」
純が主婦に聞く。
「そうねぇ。 お会計をする直前だったから……五分とちょっと前くらいかしら?」
と言う事は、まだそれほど時間は経っていない。
「あの子に会ったら、“男遊びもほどほどにしなさい”って伝えておいて」
自分の冗談にオホホと笑いながら、主婦は颯爽と自転車に乗って、去って行った。
すぐに、純達は走り出す。
「逃げてるってことは、人ゴミに紛れられる商店街からは出てないだろうし、女の足の速さと体力じゃ、そう遠くまでは逃げられない。 まだ近くにいるハズだ」
「おれはスーパーを越えたところまで見てくる」
誠也が言った。
「じゃあ、私は駅の方を」
夏子も続く。
「オレは最悪の事を考えて、『裏』を捜す。 いいか? 見つけたら、すぐに連絡しろ」
「「了解」」
言い終わると同時、それぞれの方向へ、パッと散開する三人。
純は眉間にシワを作りながら、通り過ぎる人を巧みにかわし、稲妻のような俊足で、街を駆け抜けていく。
(頼むから、こっちには逃げ込んでくれるなよ……)
純が選んだ捜索範囲――商店街の裏には、雑居ビルが無秩序に立ち並ぶ区画がある。
そこは、一部の従業員が住んでいる所であり、それ以外にも、倉庫や潰れた店舗、夜に大人達が集う店など、商店街の『影』の部分が集まったところだ。
正直、治安が良いとは言い難い。
地元の者でさえ、あまり近づきたがらず、ましてや他所者からすれば、入り組んだ裏道は、まるで迷路だ。
(あんな所で捕まったら、人目につかないのをいい事に、好き放題されちまうぞ……!)
さらに移動速度を上げる。
周りはだんだんと人も灯りも少なくなり、コンクリートの灰色と暗闇の黒色が渦巻く空間へ、純は身を投じた。