第5話(11)
「──純くん」
騒動から、約一時間程が経った。
「額の怪我を……」
憮然とした表情でベッドに腰掛ける純に、琴乃がそう言った。
しかし、純は彼女に目を向けることなく、首を左右に振る。
「いいよ、別に。 大したことねぇから」
投げやりな彼の言葉に、琴乃は困ったように微笑んで、小さく溜息をついた。
そして、彼の前にしゃがみ込むと、自分の目線の高さを合わせ、まるで小さな子供を諭すかのように、
「お願い。わたしに診させて?」
優しく、そう懇願するように言った。
「……」
不満げな顔をしつつも、ようやく、純は“好きにしろ”と大人しく瞼を伏せた。
あの後──……
程なくして到着した医師に、応急処置を受け、鳳佳は医務室へ運ばれていった。
源道に殴られる直前、ショックで気絶したのが逆に幸いし、目立った怪我もなく、しばらく安静にしていれば目を覚ますそうだ。
「ひどい『打撲傷』だから、ちゃんと冷やさないと」
琴乃が怪我を診て言った。
源道の拳が当たった純の額は、今や痛々しい紫色に変色している。
同じように、右腕にも防御した際にできた痣が見て取れた。
加えて、反対の左腕には、計10個の爪痕──鳳佳が強く握っていた為にできた傷だ。
一時はうっすらと血が滲んでいたが、現在は出血も止まっている。
「大丈夫だってば」
鬱陶しそうに、純は琴乃から腕を振りほどく。
琴乃は再び苦笑した。
桜井学園長の口利きで、メイドは全て出払っているため、純は既に男口調に戻っている。
「そういえば、さっきメイドさんから救急箱を受け取った時にね、“当主様に啖呵を切るなんて、すごく勇敢なお嬢様ですね”って、感心してたわよ」
琴乃が微笑みながら、そう言うと、純は呆れたように溜息をついた。
「あれだけやっても、まだオレは女に見えるってのか」
「なんにしても、秘密がバレなくて良かったじゃない──」
救急箱から、メイドに用意してもらった氷嚢を取り出し、琴乃が微笑んだ。
「ほら、じっとしてて」
「……いッ」
患部に触れた瞬間、純が小さく呻く。
「……本気で殴ったんだな。アイツ」
顔をしかめて、純はポツリとそう呟いた。
それを聞いて、救急箱を片づけ始めた琴乃の手が止まる。
「……ええ、そうね」
「何とかならねぇのかよ」
純が尋ねる。
悲しそうに、琴乃は答えた。
「難しい問題なの。 これが一般家庭の話なら、もっと解決策もあったでしょうけど。 彼は王城家の現当主で、絶大な『権力』を持ってる──そう上手くはいかないのよ」
「……」
眉間にシワを寄せ、純が黙る。
「お願いだから、そんな顔しないで。 いろいろと複雑なの……オトナの世界はね」
言いながら、琴乃が人差し指で彼の眉間を擦る。
まだ不服そうな表情の純に彼女は微笑みかけ、救急箱の蓋を閉じた。
純は辺りを見回す。
「学園長は?」
「今回の事で、お話してるわ」
「話ってなんの?」
「オトナの話」
茶化して答えない琴乃。
純がまた不機嫌な表情を浮かべたので、琴乃は話を切り替える。
「それより、あそこにいるのは、新しくできたお友達?」
言われて、部屋の入り口を振り返ってみると、そこには、腕組みして立っている、瑠璃子がいた。
「違ぇよ」
純がそう言ったのが聞こえたらしい。
瑠璃子がこちらに近づいてきた。
「冷たい事いうんだね。 秘密を分け合った仲なのに」
来て早々、ポロリと零す瑠璃子。
「秘密?」
琴乃がそれに反応し、純の顔を見る。
思いっきり眉間にシワを作る純。
「なに、このコにバラしちゃったの?」
琴乃が口元に手を添え、純に耳打ちする。
「しゃーねぇだろ。いろいろあったんだから」
「大丈夫なんでしょうね?」
「──オホン!」
わざとらしい咳払いをして、瑠璃子が会話に割り込む。
「安心しなさい。 他の人たちには、絶対に言わないと誓うわ」
彼女の言葉に、純と琴乃は顔を見合わせた。
瑠璃子は、純が氷嚢を押しあてている部分を見る。
「……それ、大丈夫なの?」
そう尋ねられて、彼は怪訝な顔で言った。
「お前にも、人に気を使う心があったんだな。 人間なんて観察対象でしか見てないやつかと思ったよ」
「失礼ね! 人がせっかく素直に心配してあげてるのに!」
ぷくっと膨れる瑠璃子。
「大したことねーよ、バーカ」
軽い口調で言う純。
「あんた、男になるとハンパなく口が悪いね……」
初めて目の当たりにする素の彼に、少し呆れ気味でいう瑠璃子。
しかし、すぐに真剣な表情で言った。
「でも、これでわかったでしょ? 鳳佳があんな風になった原因が──」
「……」
「──生半可な思いじゃ、どうにもならないのよ、この『家』の問題は……」
「……」
「……だから、素直に手を引いた方が、あんたの身のためにもいいと思う」
彼女の言葉を、純は黙って聞いていた。
「……手を引く?──」
不意にぽつりと、独り言のように零す。
「──ふざけんな」
強い口調で、純は答えた。
「え……?」
思っても見なかった反応に、瑠璃子は瞳を丸くした。
「ふ、ふざけんなって、あんた──」
面食らいながらも、瑠璃子は続ける。
「こんなこと言いたくないけど、あんたといる以上、鳳佳はまた同じような目に会うかも知れないんだよ?」
「だからって、一生、鳳佳は、あのクソジジイに怯えて生きていく方が良いって言うのか?」
純が聞き返す。
「……それは……」
言い返せない瑠璃子。
純は続ける。
「いつかは、鳳佳もあのジジイを超えていかなきゃならない。 それを手伝うために、オレはいるんだ。 なのに、オレが先に逃げてどうすんだよ」
「じゃあ、なにか良い手立てがあるわけ?」
瑠璃子が尋ねる。
「今は無い」
両手を広げて、さらりと純は答えた。
「あ、あんたねぇ!」
瑠璃子が怒ると、
「手立てなんて後でいくらでも考えられる。 そんなことより、今はもっと重要なことがあるんだよ──」
強い口調で、純はそう言った。
その表情は、どこか一抹の不安を抱えているようにも見える。
「もっと重要なこと?」
すると、今まで黙っていた琴乃が、ふと呟いた。
「……」
純は口を噤む。
琴乃は彼のその様子を見て、はっと気が付いた。
「……なーるほど。 純くんは今、それを一番、恐れてるわけね?」
琴乃に聞かれて、純は瞼を伏せると、
「……ああ」
と短く答えた。
「?? どういうこと?」
二人の会話について行けない瑠璃子が、眉根を寄せてそう尋ねると、純では無く琴乃がそれに答えた。
「今回、こういう結末になるのことを、純くんは事前に予期していたのよ。 たぶん『式典』そのものには、出られないだろうって──」
琴乃の言う通り、純はそう思っていた。
もちろん、無事出られるならそれに越したことはないが、例え傍に純が付いていたとしても、おそらく、難しかっただろう。
どっちにしても、今回のように途中で断念して、誰の目にも触れずに終わった可能性が高い。
「──でも、それはそれでよかった。 その程度の失敗なら、鳳佳ちゃんだって、すぐに立ち直ることができる。 “出ようと思っただけ、進歩だ”って、彼女に言ってあげられる。 何らかの形で、次のチャンスもあるだろうしね」
「なるほど……。 それで?」
琴乃の説明を促す瑠璃子。
「ところが、彼女の『恐怖の元凶』である、当主本人がこの場に登場してしまった事で、純くんの予測に大幅なズレが生じた」
「??」
まだよくわかっていない瑠璃子に、琴乃は続ける。
「いきなりそんな恐怖に立ち向かえば、許容範囲を超えた大ダメージは避けられない。 ただ『式典に出れなかった』と言う事実程度じゃ済まなくなる。 つまり──」
「──鳳佳の心が根本から折れちまうかもしれない」
琴乃に代わって、純が最後の部分を締めくくる。
「本人が“やっぱり自分には無理だ”と思い込んじまったら、オレにはもう、どうしようもないんだよ」
氷嚢を手の中で弄びながら、純が言った。
「流石にビビったよ。 オレがここに来た時、既に予想を超えて、鳳佳は衰弱してたからな。 加えて、あんな事が起きたら……」
純は小さく溜息をついて、途中で言うのをやめた。
琴乃も瑠璃子も、彼の言葉につられて、一連の出来事が脳内にフラッシュバックする。
「鳳佳……」
泣きそうな顔で呟く瑠璃子。
コンコン……
その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
すぐに琴乃が反応し、ドアを開けに向かいながら、彼女は純にアイコンタクトを送った。
“『女の子』に戻りなさい”──その目はそう言っている。
純は一度、深呼吸をして、意識を入れ換えた。
開けたドアの向こうに立っていたのは、白衣を着た若い女性だった。
「お嬢様の担当医です。 こちらに姫宮様はおられますか?」
医師にそう尋ねられ、
「アタシです」
と片手をあげて、純が応える。
「お嬢様がすぐに会いたいと申しております。 ただ、まだ目を覚まされたばかりで、正直、体調も思わしくありません。 申し訳ありませんが、姫宮様お一人での面会となります」
それを聞いて、まず純は琴乃を見る。
瞼を伏せて、“行きなさい”と言う琴乃。
次に瑠璃子を見ると、彼女もコクリと頷いた。
純は氷嚢をベッドの淵に置き、ゆっくりと立ち上がった。