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なんとかペディアの秘密

作者: ずび

 インターネットとは、月並みな言い方だが非常に便利なものだ。

 昔は調べものと言えば近所の図書館が通例だったそうだが、今や家に居ながらそれ以上の情報を簡単に、それも素早く入手する事が出来る。

 無論取捨選択の重要度はより増加したと言えど、拾い上げる人間が慧眼を持っていさえすれば、情報の『量』は『質』に勝る。

 情報の氾濫する現代日本……愚かしい大衆は劣悪な情報を見分けられずに、そんな皮肉を吐く。

 しかし。

 どれだけ『量』を積み重ねても、届かない『質』がある。大衆にとって本当に知りたい情報と言うものは、ネット上では手に入らないものなのだ。

 俺を例に取ってみよう。高野広太、今年で17になる高校二年生である。

 例えばもし隣の席の岩上さんに彼氏が居ると言う情報を手に入れていたなら、無駄に傷つく事はなかったし、席替えまで気まずい想いをする事はなかっただろう。

 もし大の親友だった戸川君が薬に手を染めたともっと早く知っていたら、今でも彼はグラウンドで白球を追いかけていただろう。

 そして、猪爪志摩。もしもあの野郎があんなクズだと知っていたら。

 友人関係に限った事では無い。

 ある日、家に帰ってきた俺を迎えた親父は……首を支点に宙に浮いていた。何故相談してくれなかった。母さんが居なくなって寂しかったと、借金のせいで生活が苦しかったと、どうして言ってくれなかった。

 俺を置いて勝手に楽になりやがって。ふざけるんじゃねぇ。

 ……様々な不幸がてんこ盛りで襲いかかってきた中で悟るのは、結局本当に知りたい「親しい人」の情報程、インターネットでは手に入らない。

 そんな当たり前の教訓だった。



 *



 親父が死に、近場の親戚の家に居候し始めて数ヶ月後の事だった。

 その頃の俺は色々な意味で終わっており、世話になっている親戚の家にはあまりより付かなかった。とは言え、拾ってもらった恩と言うものがある。最近はファミレスでバイトを始め、若干だが金を家に入れるようになっていた。

 その日の夜七時過ぎ。ダラダラとテーブル席の片付けをしていると、角の席に座っていた、大学生らしき二人組の男達の声が妙に耳についた。


「そう言えば、ウィキの裏技知ってる?」

「裏技?」


 片方はデブの眼鏡だったが、もう片方が金髪アロハだったのが妙に印象的に残っている。ドリンクバーとフライドポテトで時間を潰す彼らの会話に、フロアの片付けをしながら耳を澄ませる。

 ウィキ、と言えば世界的にも有名なあのインターネット上の百科事典だ。学校の宿題をする上でも度々世話になっている。


「検索エンジンを特定の順番に回った後にウィキに入ると、トップのより抜き記事が『家族の裏事情』になるんらしいんだ」

「『家庭の裏事情』って?」

「なんかのドラマ? 良くわかんねーけど、そうなったら成功。あとはそのページから検索かけると、マジでなんでも書いてある記事に飛べるらしいぜ?」

「なんでもって?」

「例えば、ついこの間捕まったミュージシャン居たじゃん。殺人事件起こして自殺したってやつ」

「あー……あったあった」


 デブがうんうん頷いている。そのニュースは俺も知っている。

 曲を出せば毎度オリコンに名を連ねる人気ミュージシャンが、知人女性を殺害して自殺したと見られる事件だ。クラスでもファンが多いビジュアル系バンドで、主にミーハーな女子連中が朝からガチ泣きしていたのを強烈に覚えている。動機は痴情のもつれと言われているが、現場には証拠が少なく捜査が難航しているらしい。連日放送されている程の有名なニュースだ。


「アレ、実は犯人別に居るらしいぜ」

「は? マジ?」

「ウィキに書いてあったのを読んだけど、ミュージシャンのストーカーが二人殺したらしい」

「ウソ臭ぇなー」

「で、その死んだミュージシャンの方、死後の世界に旅立って今は三途の川でクロール中だとよ」

「うわ、もうそれ完全ウソじゃん」

「ウィキにはそう書いてあんだって。ホントかどうか知らねぇけど」

「……暇潰しだし、ちっと見てみたいな。やり方教えてくれよ」

「OK。じゃぁ、検索のやり方な? まず最初に……」


 気がついたら俺はその言葉に真剣に耳を傾け、テーブル掃除そっちのけにしてナプキンに必死に殴り書きをしていた。

 人が知り得ない事を知る。情報の『質』とはその『精確性』もさることながら、『機密性』も重要である。誰も知らない事を知っている。ただそれだけでどれだけ人に優位であるか。

 もしそんなものを、こんな単純な手段で手に入れられるなら。

 もう失った過去は取り戻せないけれど。薄暗い未来に少しでも光が差してくれるんじゃないだろうか。ぐちゃぐちゃに潰れかけている、ゴミのような宝のような紙ナプキンを握り締めて、俺は一人ほくそ笑んでいた。



  *



 バイトが終わった夜八時、叔父に帰宅が遅れるメールをした俺は、空席ばかりのネットカフェに飛び込んでナプキンを広げて深呼吸を繰り返していた。

 描かれた暗号のような羅列。それは俺が輝かしい未来に辿り着く為の道筋。

 手元のキーボードが鳴る音が遠く聞こえる。久しぶりだ、こんなに集中しているのは。良く知る検索エンジンで、全く別の検索エンジンを検索する。それを何度も何度も繰り返す。

 辿り着いたウィキのより抜き記事を見る。


「……マジか」


 嘆息が漏れた。『家庭の裏事情』。見た事のないドラマの、特に有名でもない記事。日本の、ワンクールだけ放送されたようなドラマの記事がトップに出てくる筈は、本来ないのだ。

 唾を飲む。頬を冷たいものが伝う。

 まさか本当に。

 震える指でカーソルを検索のテキストボックスに持っていく。

 何を、調べよう。


「……岩上、礼子」


 半年前に告白して「ごめん、アタシ彼氏いるから」とすげなく断ったショートカットのそばかす顔を思い出す。隣の席になってからは、良く話すようになったと思う。ドラマや音楽の趣味は俺と合ってたし、結構休み時間もやかましく会話していた記憶がある。

 彼女の名前を選んだのは、別に引き摺っている訳でもなんでもない。と、思う。岩上とは席が離れて以来、しばらく話してないけれど。検索の結果はすぐに出るが、ここで思わぬ事態が起こる。

 ……いや、ある意味では予想できていた事だが。


「すげーな……何人いるんだよ」


 ページの中にずらりと並ぶ無数の『岩上礼子』の名前。

 それ程ありふれた名前ではないのにこれだけ沢山あるのには勿論理由がある。名前の脇に(1922〜1965)などと書かれていればおおよそ予想が付く物だが……これ、マジなのか? まさか史上存在した全ての『岩上礼子』に関する記事がこれだけあるって事、なのか?

 震える指は止まらない。カーソルを下に下にと押しやって画面をスクロールする。

 ……いた。多分これだ。岩上礼子(1998〜)。

 生きていれば俺と同い年。クリックすると表示されるのは、岩上礼子(1998〜)の記事。


「岩上 礼子(いわがみ れいこ、1998年10月9日-)は、日本の学生」


 恐らく誰もが一度はウィキの芸能人の記事を見た事はあるだろう。あれと全く同じ感覚で、別に芸能人でも高名な学者でもスポーツ選手でもない岩上の記事が書かれていた。


「大分県大分市出身。都立稲森高等学校在籍。一年時学級委員所属、現在は同校吹奏楽部に所属。楽器はトランペット」


 経歴、人物、事細かに書かれている。……見たくなかったけれど、俺の名前も記事にばっちり書かれていた。


「2015年5月、同級生の高野広太に告白されるも「彼氏が居る」と嘘を付き振ってしまった。彼には好意的だが、自分の容姿に自信が持てなかった事と照れとで、つい見栄を張ってしまい、後悔している」


 何と言うべきか。思わず脱力してしまった。そんな理由で振られたのか俺は。でも……そうか。好意的、なのか。これ、もしかしてもう一度言ったら……。



  *



「……俺と、付き合ってくれ」


 うちの高校には空き教室はないので、告白をするのは閉じられた屋上への階段の踊り場と相場が決まっていた。岩上とここに来るのはおよそ2ヶ月ぶりで、岩上は最初の時と同じく、居辛そうにぱたぱたつま先が動いている。


「でも、その……私、彼氏、いるし」

「そんなの関係ねぇ」


 この告白には、例のウィキの記事の信憑性を確かめる意味もある。

 仮にウィキがウソで、岩上には本当に彼氏が居たりして、俺の事も好意的じゃなかったとしても、現状元々疎遠になっているので今更だ。リスクは薄く、リターンは大きく。自己暗示の意味を込めて自分に言い聞かせていたせいだろうか。

 今日の俺は妙に強気だった。


「お前の彼氏ってのは、何処の誰だ?」

「えっと……隣の高校の……」

「隣ってどれだ? 白浜か、小橋付属か、佳淵か?」

「え、ええっと、その、し、白浜……じゃあなかった、かなー……?」


 彼氏の高校くらい把握しとけよ。そんな無粋なツッコミは喉の奥に押し込んだ。

 しきりに髪を弄り始めて、目を泳がせている。逃げ道を探す小動物のような行動だ。この仕草についても、ウィキに書かれていた。「ウソを付いたり慌てたりする時は、髪を触る癖がある」と。

 一歩脚を進める。岩上は動かない。


「……別れちまえよ」

「えっ……」

「そんな奴より、俺と付き合えって言ってんだよ」


 平時の俺だったら絶対に吐かないような言葉だ。今だって背中が粟立ってる程である。

 しかしウィキに書かれていたんだ。「小久保ノブ子著『ジャックと恋人』の登場人物、ジャック・F・フロントの大ファン」と。それでその『ジャックと恋人』と言うのが結構ドロドロした少女漫画で、しかもこのジャックと言う奴が引くぐらい独占欲の強い男で、主人公ヒロインに初対面から床ドンやらかすレベルにヤバイ奴だったりする。

 現実と漫画は別だろ、とか思いつつも実行に移してしまった以上、後には引けない。

 詰め寄る俺。岩上は徐々に後ずさるが、やがて壁に背が当たる。俺は壁に手をかけ、顔を近づけて囁く。壁ドンではなく、精々壁トンくらいだけれど。


「……好きなんだよ、お前の事」

「は、はうぅ……」


 顔を真っ赤にして変な鳴き声を上げた岩上。


「ご、ごめん、その……か、彼氏とか、ウソで……本当はそんなの居なくて……」

「なんでウソ付いたの? 岩上、俺の事、嫌いなの?」

「そんなの、好……つか、そ、その聞き方ズルいし……」


 不満そうに口を尖らせながら顔を伏せて、時折上目遣いを向ける。

 ダメだ。可愛いとか思ったらダメだ。顔が緩んだらダメだ。バレたら途端に効果が失せる。鼻がくっ付きそうな距離まで顔を近づける。


「で? 俺と付き合ってくれんの?」

「も、もう良くない? わ、分かってるんでしょ、もう……」

「全然わかんねぇよ。ちゃんと言え」

「どうしても、い、言わなきゃダメ?」

「ダメだ」


 ギュッと目を瞑った岩上が、下手すれば校舎の外で少し強めに吹く風にさえ負けかねないような声量で、「喜んで」とだけ返した。

 告白の成功。それは確かに嬉しかったのだが。それとはまた別の喜びがある。

 あのウィキ、本物だ。



  *



「戸川幸彦……と」


 例のウィキで、かつての親友の名を検索する。

 戸川君とは中学の頃からの付き合いで、部活は別だったけど三年間同じクラスであった。

 身長は高かったが、体重は俺よりも軽いようなナナフシみたいなのっぽの男で、大人しい奴だった。出席番号が近いだけで会話するようになったような間柄だった。しかも話の話題はあまり噛み合なかった。

 けれど、もっと根本的な部分……話の間だとか、テンポだとか、そんな部分の波長がとても心地よく感じたのだ。下らない話題でも馬鹿みたいに笑い合えるし、本気で殴り合える親友は多分、後にも先にも彼だけだろうと思う。

 最後に会った時、アイツはどんな表情をしていただろう。涙で前が見えなくて、あまり覚えていない。

 「ごめんな、こんな事になっちまって」。

 そんな濡れた声だけが今でも耳を離れない。だが、俺は今でも信じられないのだ。彼が薬に手を染めた、だなんて。


「さてさて、戸川君は……」


 数ある戸川幸彦の中から、親友を探す。

 こんな事をして事態が好転するとは思っていないけれど、事件の顛末を、俺は詳しく知らなかった。聞きたくなくて意図して情報をシャットしていたのもあるが、戸川君が退学してから、噂さえパタリと聞こえなくなっていたからだ。

 正直に言えば今でもこうして戸川君の真実を調べるのは、少し怖い。

 もしも本当に薬に手を染めていて、更生施設で苦しんでいたりしたら。


「戸川 幸彦(とがわ ゆきひこ、1998年7月3日-)は、日本の元学生」


 ……辿り着いてしまった。

 思わずブラウザバックに擦り寄っていくカーソルを、反対の手で押さえ込む。カリカリと、崖の上を歩くような速度と緊張感でそのページに目を走らせていく。何度唾を飲んだ事か。頬を伝う冷や汗が、ポタリと右手に垂れてくる。

 中学の頃に生徒会長だったエピソードが終わり、次はいよいよ高校生活の段落だ。


「高校二年の春に、先輩である村上雅彦にそそのかされ、覚せい剤を入手する」


 喉がぐっ、となる。一度大きく身震いをした後、画面をスクロールする。そして、目が止まった。


「入手した覚せい剤は一度も使用せず、必死に村上を説得する。しかしその後、村上に全責任を負わされ、逮捕。かつて家族ぐるみで世話になった村上への義理もあり容疑を認め、現在は更生施設に入っている」


 なんだよ、これ。

 覚醒剤は使ってない。先輩に追わされた責任を被って、逮捕?

 おい、戸川。お前って奴はどこまでお人好しなんだよ。この大馬鹿野郎。

 戸川君の記事は、それ以上見る必要はなかった。

 分かった事はたった一つ。戸川君は、無実だ。



 *



「はぁ……なんか、複雑な気分だぜ」


 土曜日の昼下がり。学校近くの河原で、俺と戸川君はぺんぺん草のクッションを背にして寝転がっていた。戸川君は先程から溜め息ばかり吐き出す。そんな顔をされると、俺も救い甲斐がなかったかな、と少し思ってしまう。

 更生施設で厳しい生活を強いられていたんだ。これから自由の身を存分に謳歌すればいいんだ。

 何度かそう言い聞かせている。戸川君はその度に皮肉めいた微笑みを浮かべるのだ。


「村上先輩を庇ったのは、家族の事があるからだ」

「……知ってるよ、全部な」


 戸川君の家は、父親がかつて事業に失敗し、恐ろしい金額の借金を抱えていたのだ。しかし知り合いであった地元代議士の村上家が戸川家の借金を全額返金した事で、歪んだ関係性が始まった。

 戸川家は、恩に報いるよう強要した村上家の手足となった。有り体に言えば、汚れ役をやらせていたのだ。

 具体的な仕事の内容を上げればきりがない。殺人……は、無かったと思うが、その記憶も怪しい。

 その歪な関係性は両家の子にも引き継がれ、その結果があの様と言う訳だ。

 ……まるで見てきたかのように語るだろう? これ全部ウィキの転載。


「これで、ウチの一家は路頭に迷う訳だ」

「……そんなに責めるなよ。一応、よかれと思って頑張ったんだぜ、俺」

「責めちゃいねぇよ。逆に感謝してもし切れねぇ。これで村上は終わりだ。家族全員、呪いが解けた。マジでお前には頭が上がらん」

「……おい、変な事言うなよ。言っとくが恩を売るつもりはねぇからな?」

「分かってるっつの。ただよぉ……こうやって皮肉の一つも言わないとよぉ」


 声が詰まる戸川君。彼の方は見ないよう、目を逸らした。


「……泣きそうに、なっちまうんだよ。馬鹿みてぇにワンワンよぉ」

「……最近、耳が遠くなったからな。俺にゃ聞こえねぇよ」

「もうちょいマシなウソつきやがれよ……涙もひっこみやがった」

「声めちゃめちゃ震えてんじゃねぇかよ」


 ははは、と軽く笑い合う。こうしていると、あぁ。本当に帰ってきたんだな、戸川君が。なんて事を思ってしまう。頑張れ俺。俺まで泣いてたら世話ねぇぞ。


「しっかし、凄かったなお前。どっからあんだけの量の証拠揃えてきたんだよ」

「さぁな」


 答えは曖昧に濁した。

 戸川君の記事で彼の無実を知った俺は、その後事件関係者について徹底的に調べ上げた。

 ……ウィキで。

 様々な物的証拠の在り処を探し当てた。

 ……ウィキで。

 そして拾い上げたそれらを持って近所の弁護士事務所に駆け込んだ。覚せい剤使用の疑いが晴れた戸川君が出てきた所を迎えに来て、今に至る。今の懸念は精々、高額の弁護士費用をどうするか、だけだ。

 弁護士が結構なロマンチストで、親友を助ける為に奮闘した高校生である俺をいたく気に入ってくれたので料金は出世払いで良いと言われては居るけれど。


「それより戸川君。高校には戻らないのか?」


 俺の問いに戸川君は首を振った。


「覚せい剤所持には変わりないからな。……保護処分か執行猶予か、いずれにせよ前科は消えねぇ」

「……復学は難しそうか」

「仮に戻れても、居心地悪いだろ。村上先輩の事思い出しそうだし」

「……そっか。少し寂しいな」


 折角頑張ったのに、結局彼と過ごす学校生活は取り戻せないのか。しかし、暗い俺の表情に、戸川君は満面の笑みを零した。


「そんなんで寂しくなるような仲でもねぇだろ?」


 あぁ、畜生。その通りだな。声に出さずとも俺に皮肉はきっと、伝わっていただろう。



  *



 ウィキを使うようになってから、俺の人生は様変わりした。まず、朝。前述した通り、現在は叔父の家に住まわせてもらっているのだが……。


「おーい、広太兄。早く起きろー、朝飯だよー」


 そう言いながらぽかぽかと俺の布団を叩くのは、イトコの高野陽介だ。中学野球部らしい五分刈りが眩しい。つい半年くらい前までは同じ屋根の下に居ながら碌に会話もしなかったのに、今では俺を広太兄と慕う、まるで本物の弟みたいな存在となった。

 元々人見知りだっただけらしく、趣味を突ついたらすぐに打ち解け、今に至る。


「おはよう……」

「おはよ。……何か疲れてる?」

「昨日彼女が……あー、なんでもねぇ」

「……まさか、ヤッたのか!? 流石だぜ広太兄!」


 一人浮かれる陽介の頭をジョリジョリと適当に撫でながら起床。

 ヤッたかと聞かれれば、ヤッてない。ただ岩上と長電話していただけだ。

 必死で否定しても聞かない性格なのは分かっているので、そのまま尊敬できる兄貴として振る舞おう。リビングでは叔父夫婦が朝食を準備して待っていてくれていた。叔母さんの浮かべている笑顔は半年前のぎこちなさが見られない優しいものになっていた。


「おはよう、広ちゃん」

「おはよ、おばさん、おじさんも」


 叔父はソファで新聞を眺めながら、背中越しに軽く手を挙げて挨拶を返すだけだ。

 気難しい性格なのだから、この程度の挨拶を返されただけでも心を開いてくれていると分かる。しかしいくら気心知れたとはいえ、休日の晩酌に俺を誘うのは止めて欲しい。まだ未成年なんだから。

 朝食を終えて、いそいそと登校の準備を済ます。狭い玄関先で俺と叔父と陽介の三人がわちゃわちゃ靴を履く。それを微笑ましそうに見つめる叔母。ここ数ヶ月はずっとこんな感じだ。


「今日、広ちゃんお弁当要らないって言ってたわよね?」

「あぁ、はい。岩上が持ってきてくれる日なんで」

「すげーなぁ広太兄。彼女が弁当作ってくれるなんて」


 確かにそうだと思う。弁当を作ってくれるのは勿論だが……。

 玄関を開けると、ショートカットの元気良さそうな女子が満面の笑みで出迎えてくれた。

 岩上礼子。付き合い始めて半年程になる。少し家が遠い岩上が朝、高野家に寄るようになったのは三ヶ月程前だ。


「おはよ、広太」

「おはよ……待ってなくても良いんだぜ? 最近寒くなってきたし」

「良いよ別に。広太待つの、結構好きだし」


 照れ笑いをする岩上。可愛いとは思うのだけど、俺の後ろの方で叔父と陽介がガン見しているから、あまりこんな所でイチャつきたくない。


「手ぇ繋ぐのは放課後な」


 小さく耳元でそれだけ囁くと、岩上は小さく頷いた。叔父と陽介と別れて、岩上と登校する。

 岩上は、俺の言う事は割となんでも素直に聞いてくれる。本当になんでも受け入れてくれそうで、ちょっと怖い。俺がしっかり自制しないと。


「昨日電話長かったけど、部活大変だった?」

「えーっと……な、何で分かったの?」

「まぁ、何となく」


 これもウィキで得た知識である。岩上はストレスが溜まると極端に話が長くなる。しかし遮られるのが嫌いなので、黙って聞くしかない。不機嫌の境界はもうウィキに頼らずとも分かるようになってきた。お陰で岩上の友人連中からは『構って欲しい時は構ってくれて、放っておいて欲しい時は放っといてくれる包容力のある男』とされており、知らない所の評判は結構良いらしい。

 他愛ない話をしながらの登校中。いつも通る喫茶店の前で、いつも通りの時間に開店準備のためにテラス席を拭く男とすれ違う。


「よぉ、戸川君」

「おっと、出たなクソリア充共」


 皮肉めいた冗談を返しながらニヒルに笑うのは戸川幸彦。元クラスメイトで、俺の親友だ。覚せい剤使用の疑いが晴れた後も高校には戻らず、今は近所のカフェでバイトをしながら通信制の高校に通っている。

 朝から晩まで大忙しらしいが、本人は楽しそうだ。


「相変わらずエプロン似合わねぇな、戸川君」

「お前こそ、隣の彼女似合ってねぇぞ。美女とブ男」

「失礼な。ほら礼子、反論したれ」

「えっと……顔は確かに戸川君の方が格好良いかな、と思うけど」


 なにその衝撃の真実。岩上、戸川に一目惚れす。全紙一面間違いない。主に俺の脳内で。


「でも私は広太のが好きだ」

「あちゃー。惚気られただけだったか」


 なんだこれ恥ずかしい。なんで岩上は全く照れずに真顔でそんな事言えんの? 俺よりよっぽど男前じゃないの?


「まぁ、あれだ。俺も顔は負けてないと思うが、広太は中身が格好良いからな」

「だよねー。でも広太は私んだから上げなーい」

「えー? たまには貸してくれよ。コイツ基本彼女優先で付き合い悪ぃんだもんよー」


 戸川までもがそんな事を言い始める。本当に何なんだコイツらは。これがアレか、褒め殺しと言う奴か。確かにあまりにも照れ臭くて死にそうだ。真っ赤になった俺を二人して笑いながら見ている。あぁ、もう。


「……行くぞ、もう」

「あはは、顔真っ赤。いい加減慣れたら?」

「帰り暇なら寄ってけよ? 値段は据え置きだけどなー」


 手を振る戸川を置き去りに、岩上の手を引いてその場を後にした。



 *



 好きな女の子が彼女になってくれて、大切な親友を助ける事が出来た。

 この上ない満足感と共に、親父の死の悲しみも払拭した俺は……油断していた、と言われればその通りなのかも知れない。

 そいつが現れたのは必然だった。奴は幸せの臭いに敏感なのだから。



 *



 岩上は部活仲間と遊びに行っていて、戸川も喫茶店以外のバイトのシフトが入ってしまい、俺が暇を持て余していた休日の事だ。する事もなく家を出てフラフラしながら辿り着いた公園で、ベンチに腰掛けた、目深にフードを被った男を見かけた。何となくそれを眺めると、男はニヤリと微笑みながら立ち上がり俺を見る。

 俺はその視線の鋭さに見覚えがあった。

 回れ右をして逃げようとした。あと二秒、男の存在に気がつくのが早かったら。


「久しぶりですねぇ、先輩」


 梅雨の時期の空気みたいにねちっこく纏わり付くような声で、男は俺を先輩と呼んだ。


「……ホント、久しぶりだな猪爪。それじゃ」

「待てよぉ先輩。どうせ暇なら飲み物ぐらい奢ってくれてもいいんじゃないすか?」


 フードは外さずに、猪爪志摩は俺をねめつける。

 無理矢理振り払う事はもう出来ない。コイツには俺の今の住まいを知られている。叔父夫婦にも陽介にも、コイツは会わせるべきじゃない。

 俺は諦めて猪爪の隣に腰掛けた。面倒臭いので財布から取り出した五百円玉を放り投げる。


「飲み物代くらいくれてやる。だから、それでオシマイだ」

「オシマイなんて寂しいじゃないですか。……あ、でも俺もアンタも終わってるんだっけ」


 猪爪の言葉尻がいちいち癇に障る。だがここで怒れば、コイツの思うつぼなのだろう。

 だから出来るだけ平静を装って溜め息で心を整える。どれだけ誤魔化せている事やら。人間の負の部分ばかり見てきたようなコイツに。


「しっかし先輩、毎日楽しそうっすねェ」

「……何の事だ」

「可愛い彼女、気の良い親友。学校でもクラスメイトから大人気で、近所の皆とも顔見知りで評判が良い、と。いやぁ、ほんと、尊敬しまさぁ」


 ぱちぱちと乾いた音のする拍手。……見られていた? いつからだ? どの辺りまで?


「……礼子や戸川君に何かしてみろ。マジで殺すからな」

「そんなつもりはありませんよォ。だって俺、先輩にしか興味ねぇし。いやぁホント、アンタ程面白い人間は居ないかもしれないなァ」


 言いながら、猪爪は卑下た笑いをしている。


「アップダウン激しいよねぇ、先輩の人生。俺と居た時ゃどん底で、今はさながら富士山頂ってとこかなァ?」

「……」

「……一人だけ光の中に戻れると思うなよ?」


 急にドスを利かせた声で迫る猪爪。いつまで中二病患ってやがんだこのクソ野郎。背中に冷たい感触が触れている。物が何かは分かっている。実用するつもりでバタフライナイフを持ち歩く馬鹿な癖は治っていないらしい。


「なぁ、『志摩』」

「……ん? なんすか?」

「俺はちゃんと、お前の事も調べておいたんだぜ」


 俺は自分のポケットから取り出したスタンガンを、猪爪がナイフを振りかざす前に突き出してスイッチを押した。電流の強度は中の上程度に設定している。下手すれば人間が昏倒する程の威力だ。猪爪志摩は小柄な男だ。まともにスタンガンをクビに喰らった猪爪は、苦しそうに顔を歪めながら俺を睨みつけてもがいている。


「なん……で、んなもん……!」

「猪爪志摩(いのつめ しま、1999年5月24日-)は、日本の学生……か」


 スマートフォンのブラウザアプリで猪爪の情報を見る。


「中学時代に当時の先輩であった高野広太と共に様々な犯罪に手を染める。その快楽が忘れられず、現在も恐喝や恫喝などの犯罪を繰り返している。また、現在平穏な生活を送る高野広太の事が許せず、彼への復讐の機会を窺っていた……ね」


 書いてある通りだ。猪爪と会った頃は親父が死んだばかりで、俺は自暴自棄になっており、周囲に散々迷惑をかけた。

 俺が道を踏み外したのは猪爪のせいだし、逆にコイツが道を踏み外したのも俺のせいなのだろう。俺達は二人共、崖っぷちに並んで立っていた。一人が崖の下を興味本位で覗き込む。もう一人がそれに寄りかかって足元が崩れて二人共落っこちた。俺と猪爪は互いにとって出会うべきでない最悪の友人同士だったのだ。

 しかし時の経過と共に徐々に落ち着き始めた俺と違って、猪爪はもう壊れてしまっていた。


「猪爪、悪かったとは思ってるよ。でも、もう俺は立ち直ったんだ。だからもう、関わらないでくれ」

「へ、へへへ……んだよ先輩。そのサイト知ってんのかよ」


不気味に笑う猪爪。久しぶりに恐怖を覚えた。

このウィキを見るようになってから、俺は何かを怖がった事はない。

恐怖とは未知。調べれば何もかもがすぐ、手に取るように分かるのだから、何も怖がる必要がなかった。

しかし今、俺は猪爪の言動に恐怖した。そのサイト知ってんのかよ? それはこちらのセリフだ。


「……猪爪、お前、まさか」

「ま、伝手がありましてね……。最近見てなかったっけか、そう言えば。すっかり忘れてたわ……そのクソつまんねぇサイト」


そう言って、猪爪はまた笑う。


「でも、そっか。それを使えば、誰でも、いくらでも仲良くなれるし脅せますし、先輩みてぇな卑怯者にゃピッタリかもなぁ」

「テメェ……」

「……あ、もしかして先輩、今の人間関係って全部ソレ頼ってる感じっすか? やっぺ、超良いじゃんソレ。先輩がそんなチート使って友達付き合いしてたって知ったら、みんなどうなりますかねェ!?」

「猪爪……!」


ひたすら笑う猪爪。昼下がりの公園で、俺達は一体何をしているのだろう。……何って、全くもって、笑えない事だ。



 *



「マズい事になったな……」


 いつも常用しているネットカフェで、例のウィキを開く。

 そう言えば今の今まで、自分の名前を検索した事はなかったなと思い出す。そして高野広太の記事を開いて、俺は頭を抱えていた。


「高野 広太(たかの こうた、1998年12月2日-)は、日本の学生」


 ここからしばらく、中学時代までのエピソードに問題はない。しかしスクロールバー終盤はかなり大問題である。


「中学時代、父である高野平三の死によって一時自暴自棄に陥る。その際、後輩である猪爪志摩と共に、強姦二件、強盗三件、暴行五件を起こしているが、いずれも立件されていない。

 高校時代、当ウィキを利用し、人心を把握する術を確立。その頃、同級生である岩上礼子と交際を開始する。

 また、自身の友人である戸川幸彦を無実の罪から解放し、現在も親交を続けている。過去の罪の意識は薄いが、現在の生活を脅かす者に対しては中学時代さながらの狂暴さを取り戻す」


 大きなお世話だと思いつつ、恐らくついさっき追加されたであろう記事に目をやって思わず溜め息をこぼしてしまった。


「2015年11月10日、猪爪志摩と再会するが、仲違いの末に猪爪を殺害。猪爪の遺体は松島川中流から流しており、現在まだ発見されていない」


 終わってる。猪爪の言葉が耳に木霊する。

 そうだな。俺はとっくに終わっていたのだ。

 今だって猪爪への罪悪感など微塵も感じていないのだから。

 猪爪の遺体を運ぶ際、夜まで待ってから行動に移したし、周囲に気を配りながら移動したため、目撃はされていない筈だ。会う約束をしていなかったので、その線からバレる事はないだろう。

 猪爪の所有品は全て剥ぎ取って公園に埋めた。猪爪の遺体が上がる前にバラバラの場所に改めて隠すつもりだ。遺体から身元が割れるのが遅れるように、猪爪の遺体の顔は流す直前に石で潰しておいたし、指は奴のバタフライナイフで切断し、別の川の河原に埋めた。これで、作戦を練る時間は稼げる筈だ。

 ……こんな事を冷静に考えられるし、実行も出来る。本当に俺は終わっている。


「現在は中陰の道を抜け、鬼に追い回されながら死出の山を駆け上っている」


 猪爪の記事の最後の一文を見て、何だか少し気が抜けた。

 このウィキの情報を最初に聞き及んだ日も、そう言えば死んだ人のその後まで書かれてる、なんて事言ってたっけ。あの怖れ知らずの狂った野郎でも、流石に鬼には勝てない訳か。

 ……さて、閑話休題。現実逃避している場合じゃない。


「問題は、このウィキだな」


 このウィキは都市伝説的な存在であると思っていた。

 しかし俺が伝え聞いた時、このウィキを話題にしていた大学生達はこのウィキを実際に見ていた。そして猪爪。コイツもこのウィキの存在を知っていた。奴の興味は惹かなかったようだが。

 俺が思っている以上に、このウィキは『知ってる人は知っている』もののようだ。

 と、なれば当然俺の犯罪歴が克明に残っているこのページに辿り着いてしまう人がいずれ現れてしまう恐れがある。それだけはどうしても食い止めなければならない。

 例え何と替えても、今の生活だけは守り抜きたいのだから。


「……ページの削除って出来るのか?」


 本来のウィキであれば、登録利用者であれば削除依頼が出せる。アカウント登録こそ要るが、金がかかるとか、そう言った面倒事はない。

 ならばこっちのウィキでも、出来るのではないか? そう思ってアカウント登録を済ませると、案外アッサリと登録が完了した。審査も何もないようだ。ならば、迷う事はない。早速俺の記事の削除を依頼しよう。


「ふぅ……」


 これで一心地つけた、だろうか。やらなければならない事は山積みだが、どっと押し寄せた疲れに思わず身体が弛緩する。

 思えばこのウィキには随分助けられたが……猪爪の言わんとしている意味も、全く分からない訳ではない。このウィキで人のデリケートな部分の情報を得て、それを利用する。端から見れば俺は……そう、ズルい奴、なのだろう。

 それに俺自身も。このウィキを使うようになってから、不安や恐れに苛まれる事はなかったが、代わりに困難な事を成し遂げたと言う、成功の達成感を得る事もできなくなっていた。

 岩上との交際は本当に胸躍る毎日だっただろうか。戸川君とのやりとりに、真の友情を見出していたのだろうか。

 情報は『質』が重要だと思っていた。だが……事人間関係に関して言えば、質よりももっと重要なものがあったんじゃないかと思う。

 情報を手に入れる『経緯』。人間関係の構築においては、そんな細かい部分までもが、結構重要だったりするのかもしれないな、なんて、今更になってそんな事を考えてしまう。

 ……もう、このウィキを見るのは止めよう。この削除依頼が通って、俺の記事が消えたら、岩上とも戸川とも、ちゃんとありのままぶつかっていこう。


「……ん?」


 携帯電話が鳴っている。番号は、見た事のない番号だった。不審に思いつつも、俺は電話に出る。


『削除依頼を受理いたしました』



  *



 高野 広太(たかの こうた、1998年12月2日-)は、日本のsa×hりu◇のa▲。


(記事中略)


 中学時代、父である高野末次の死によって一時自暴自棄に陥る。

 その際、後輩である猪爪志摩と共に、強姦二件、強盗三件、暴行五件を起こしているが、いずれも立件されていない。

 高校時代、当ウィキを利用し、同級生である岩上礼子と交際。

 また、自身の友人である戸川幸彦を無実の罪から解放し、現在も親交を続けている。

 過去の罪の意識は薄いが、現在の生活を脅かす者に対しては中学時代さながらの狂暴さを取り戻す。

 2015年11月10日、猪爪志摩と再会するが、仲違いの末に猪爪を殺害。猪爪の遺体は松島川中流から流されており、三日後に発見された。

 また猪爪殺害の翌日、午前十時過ぎに当ウィキに自身の記事の削除依頼を申請。

 当ウィキはこれを受理。高野広太は現在a〜suh●ko朴q◇enoあご×s棚●□ahuZhu簾jdeきuh▲



カテゴリ:消息不明となった人物

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。そして怖かったです。 ネットというワケのわからない存在は霊より不可解で理不尽だとわかりました。怖ろしいのは人間、そして人間が創り出したもの。 私も利用するサイトでしたので、…
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