第四話 八つ裂きジャック
レーカー通り221Aを訪れて、半日が過ぎた頃。
昼食を食べ終えた私は、まだしつこく痛みの残るたんこぶをさすりながらも、ゆっくりとしていた。
カーテンを全開にして居間のソファに腰を埋め、日差しの心地よい暖かさを最大限に堪能している。
当面の暮らしの目途が立った安心感からか、それとも満腹感からか。
心地よい睡魔に身を任せ、目蓋を軽く閉じて夢と現実の合間を彷徨う。
ちょっと前までは想像もできない、贅沢な時間の過ごし方だった。
最初の説教こそ厳しかったが、エリカはとても人情味のある良い人だった。
さらに家事が万能にできる人で、この家にいる間、洗濯などは一切彼女に任せればよいとのこと。
特に料理の腕は抜群で、彼女の作ってくれた昼食は、少し前まで泊まっていたホテルのルームサービスよりもよっぽど美味いと思ったほどだ。
焼きたてのミートパイの味が、まだ口の中にはっきりと残っている。
トマトの酸味と濃厚な肉の旨みのバランスが、絶妙なハーモニーを響かせる一品だった。
これから毎日、あんな料理が食べられるなんて……幸せすぎて、人生の絶頂を感じる。
「……そろそろ二時ね。ちょっと休憩し過ぎたわ、仕事しなきゃ!」
私が幸福を体いっぱいで堪能していると、同じく隣でのほほんとしていたシャルロッテが、いきなりガバッと起き上った。
彼女はまだウトウトしていた私の肩を揺さぶると、頬を両手で軽く引っ張る。
早く早くと急かす彼女の動きは、眠り込んだ酔っ払いでも扱っているかのように、やけにせっかちで乱暴だった。
頬を伝わる痛みに、たちまち抗議の声が出る。
「にゃ、にゃにしゅるのよ!」
「仕事するわよ、しっかり起きて!!」
「はきゃった、はきゃったから!!」
シャルロッテの手から逃れた私は、自らの頬をパンパンッと叩くと、手早くモードを切り替えた。
これからの日々をここで幸せに過ごすためにも、仕事だけはキッチリとしておかなければならない。
首と手を回して身体全体をほぐすと、さあ来いとばかりに身構える。
今ならば、どんな仕事が襲って来ようと乗り越えられる気がした。
そんな私を見たシャルロッテは、至極満足げな顔をすると、部屋の端から車輪の付いた黒板を引っ張り出してくる。
そして白いチョークで、「八つ裂きジャック事件」と大きく書き出した。
筆圧の乗った勢いのある文字に、たちまち場の空気が引き締まる。
まさか、いきなりこんな大きな事件をやるとは――覚悟はしていたが、思わず唾をのむ。
シャルロッテは怖気づいたような素振りを見せた私に詰め寄ると、余裕ありげに笑った。
こちらを試しているかのようだ。
「とりあえず……八つ裂きジャックについては、もちろん知っているわね?」
「ええ。女ばかりを狙った連続殺人鬼でしょう? 正体不明で、犯行後に被害者をバラバラにしてしまうことから八つ裂きジャックって言われてる」
最近、リンデンの街で暗躍している凶悪犯である。
被害者を文字通り八つ裂きにするという、およそ人間とは思えない非道な手口から、街中の人間が彼を恐怖の対象としていた。
この男を恐れて人が出歩かないせいで、街中のバーの売り上げが半分になったなどという話まである。
それがウソかホントかは分からないが、とにかくリンデン市民は恐怖に震え上がっていた。
私も昨日、この男への注意を促すチラシを見かけたことをよく覚えている。
「それでだいたい合ってるわ。私はね、奴をどうにか捕まえようと追っているの! この事件を解決すれば、街のヒーローだからね! だけど、一人だとどうにもいろいろと手が回らなくて。特に、事件に関連した解剖資料の分析とかがいかんせん……。そこで、医者のあなたを助手として雇ったってわけよ」
「なるほど。ジャックを捕まえるなら、確かに医学の知識は大きな武器になるでしょうね」
「そういうわけよ。出来そう?」
「専門ではないけど、ある程度なら。任せて」
「良かった! 助かるわ」
捜査によほど行き詰っていたのだろう。
シャルロッテは興奮した口調でそういうと、私の手を握ってきた。
私はその手を握り返すと、余裕ありげに笑う。
占星医学を扱う医師として、医学的な知識のことであれば十分助けになれると結構な自信があった。
「それで、どのくらいの情報が集まっているの?」
「えっとそうね。まずは事件の概要から簡単に説明させてもらうわ。事件の被害者は、現在までに五人。いずれも女性で、遺体がバラバラにされているわ。彼女たちの生前の写真が、これ」
そういうと、シャルロッテは近くの棚に置かれていたファイルから、数枚の写真を取り出した。
彼女は磁石でそれらをまとめて黒板へと貼り付ける。
女性の写真が五枚、横一列に並んだ。
いずれの女性も若く、容姿もかなり整っている。
「右から順に、第一の被害者ジェシカ・アルバート、第二の被害者キャサリン・フェロー、第三の被害者ルーシー・ロットハール、第四の被害者ハンナ・ノーリッシュ、第五の被害者ナターシャ・クラコーよ」
「年は全員二十代のようだけど、人種とかはバラバラみたいね。何か、共通点は見つかっているの?」
「そうね、居住地とかも全員バラバラよ。家庭環境などにも特に共通点はない。ただし、彼女たちの職業はいずれも同じだったわ」
「何かしら?」
「社交クラブって知ってる? この五人は全員、有名な社交クラブに所属していたようなの」
社交クラブというのは、上流階層の紳士たちが集い、酒などを酌み交わしながら親交を深める場である。
だがそれはあくまで表向きの話で、実際にはコンパニオンの美女を買うための場だ。
直接的に娼館と号してしまうと世間体が悪いため、少々特殊なシステムを用意して、社交クラブともっともらしい組織を名乗っている。
病院ではこの手の場所に勤める女性の診察や検診なども良く行っていたので、私も大体の仕組みは知っていた。
「知ってるわ。どおりで、美女ばかりなわけね」
「五人ともかなり人気のある女の子だったみたいよ。特に第一の被害者ジェシカは、政府の大物とも関係していたみたい。だから最初は、騎士庁もクラブ関係を中心に捜査を進めたわ。でも、結果はさっぱりだったようだけどね」
シャルロッテは、お手上げとばかりに軽く両手を上げた。
情報源は不明だが、彼女は騎士庁の行った捜査の内容を大体知っているようだ。
「うーん、客の関係でないとすると……よくわからないわねえ。いっそ、ただの狂人とかが犯人じゃないかしら? 身体を売る女が絶対に許せない、潔癖症の男とか。それなら八つ裂きにした理由もだいたい見当がつくわ」
「破壊が目的ってこと?」
「ええ、憎さのあまり八つ裂きにしてしまったってところかしら」
私の言葉を聞いたシャルロッテは、うんうんと唸り始めた。
彼女は近くの椅子に座面をまたぐようにして腰を下ろすと、背もたれの部分に顎を載せる。
小さな額の中央に、一本、深いしわが寄った。
つま先がコツコツコツと、不機嫌そうなリズムを刻む。
「それは考えたんだけど……ちょっと不自然なのよね」
「どういうところが?」
「犯行時間の短さからして、ジャックは星錬術を使って人間をバラバラにしているみたいなの。けど、単純に破壊を目的として星錬術を使うなら――」
言葉を中断すると、シャルロッテは懐からアストロラーベを取り出した。
上蓋を開き、竜頭をパチパチと弾いて、たちまちのうちに術式の構成を完了させる。
発光――先ほどのものに比べればはるかに弱いが、青い光が溢れた。
彼女はそのまま、完成した術式を近くの置物へとぶつける。
アフリカ土産と思しき、槍を掲げた原住民の木像が、乾いた音とともに弾けた。
まさに木っ端微塵。
三十センチほどの像は跡形もなく消えて、細かな破片がそこら中に散らばった。
五センチ角にも満たない欠片が、ソファやカーペットに浅く刺さる。
掃除が大変だと、あとでエリカに怒られることは必須だった。
「あ、ああ……」
いきなり近くのものをぶっ壊すなんていかれている。
癇癪を起して八つ当たりをする子供じゃあるまいし。
あまりに突拍子のない出来事に、私は思考停止した。
やがて再起動を果たすと、思わず声を荒げる。
「ちょ、ちょっと! なんでこんなこと!!」
「まあまあ、落ち着いて。ね?」
「ね、じゃないわ! これが落ち着いて――」
「見てよ、欠片が細かいでしょ? 普通に星錬術で物を砕いたなら、八つ裂きどころか粉々になるのよ!」
シャルロッテは私の肩に右手を載せると、左手で顔についていた木片をとった。
彼女はそれを手に、実に無邪気な表情で解説をする。
さながら、新しいおもちゃを与えられた子どものようだった。
そのあまりに無垢な瞳と顔つきに、完全に毒気を抜かれてしまった私は、すっかり怒る気が無くなってしまう。
言われてみれば、シャルロッテの言うとおりだった。
星錬術は星が放出する極めて大きなエネルギーを扱うので、細かな制御は不得手。
八つ裂きにするくらいならば、いっそ粉々にしてしまう方がよほど簡単である。
憎くて破壊したいというだけなら、今頃八つ裂きジャックではなく粉々ジャックになっているはずだ。
「…………確かに、そうね」
「でしょう? そこがこの事件の謎なのよ! 犯人はおそらく、単なる破壊以外にも何らかの意図をもって遺体をバラバラにしている!」
「宗教的な何か……とかかしら。儀式とか」
「そこはまだ。ここさえ分かれば、だいぶ犯人に近づけると思うんだけどね」
「遺体の写真とかはある? 見れば何かわかるかも」
「あるにはあるけど…………酷いわよ?」
喉の奥から絞り出すような声。
やっとのことで言い切ったシャルロッテの顔は、完全に血の気が失せていた。
瞳の光も仄暗く、先ほどまで見られたほとばしるような生気がまったくない。
絶望の淵をのぞいて、命からがら帰って来た直後のように、全身から気が抜けてしまっている。
写真に写された光景がどれほどおぞましいものか、シャルロッテの様子を見ただけで、気分が悪くなってしまうほど伝わってくる。
「……平気よ、これでもハバリアの戦場帰りだから。ひどい状態のも見慣れているわ」
「そう? もし気分が悪くなったら、無理しないでよ?」
「大丈夫」
シャルロッテは一番奥の棚から、薄い黒のファイルを取り出してきた。
恐る恐る開いてみれば、目を覆いたくなるような惨状が広がる。
背筋が寒くなるのを通り越して、一瞬、意識が遠のいたような気がした。
血に慣れていない人間が見れば、瞬く間に失神してしまったことであろう。
この世の悪を一点に凝縮して、ぶちまけたような光景だ。
ファイルを持っている手が自然と震え、額からとめどなく汗が溢れてきてしまう。
「……さすがに、凄いわね」
「現役の騎士でも、何人か吐いたらしいわ」
「……そうでしょうね。医者でも吐くかもしれない」
心を無にすることを意識しながら、写真の一枚一枚をチェックしていく。
自然と口数が減り、無口になった。
シャルロッテもまた私に同調し、言葉を忘れたように押し黙ってしまう。
昼下がりの心地よい時間にもかかわらず、闇に押し込められたかのような重い沈黙が、周囲を覆った。
やがて最後のページまで確認し終えた私は、ファイルを勢いよく閉じる。
「傷口はいずれも滑らかね。かなり鋭利な刃物か何かで切断されていると思うわ。これを星錬術でやったとなると……相当の腕が必要でしょうね」
「単純に、力を入れただけならこうはならない?」
「ええ。意識的にやらない限りは絶対にならない」
「やっぱり、私が睨んだとおりちょっと不可解ね! ただ憎くて惨たらしく殺したいだけなら、わざわざそんなことする必要性を感じないわ。他には、何かわかった?」
「ごめんなさい、この写真だけだとこれが限度だわ。より詳しい資料があれば、いろいろ言えるんだけど……」
どこから入手してきたのかは知らないが、シャルロッテの持っていた写真は不鮮明なものも多かった。
おまけに点数も限られていたので、詳細なことは私でもほとんどわからない状態だ。
ごめんなさい頭を下げられたシャルロッテは、困ったように唸りはじめる。
「これでも、あちこち手を尽くして集めたんだけどね。うーん、騎士でもないとこれ以上は難しいか。他の方面から当たってみるしかないかしらね……」
「どこか良い当てはある?」
「そうね。この際だし――」
シャルロッテの瞳がにわかに蠱惑的な輝きを帯びた。
桜色をした唇の端が、ほんのり小悪魔のような微笑みを浮かべる。
彼女はそのまま私の方を見ると、値踏みするような眼で、身体の上から下までを入念に確認した。
心なしか頬が緩んだその表情からは、なぜか、うだつの上がらない中年男のような雰囲気がする。
なにがなんだかわからない私は、思わずその場で立ち尽くした。
やがて彼女は、私の体をペタペタと触り始める。
「な、なに!?」
「おお、意外とナイスバディね! 89・56・83ってとこかしら。よし、これなら行けそう!」
「どうして私のスリーサイズを!?」
「碌に資料もないし、いっそ被害者のことをよく知るために、二人で社交クラブへ潜り込もうかと思って。そのボディなら、問題なく合格できそうだわ」
「え、ええ!? ま、まってッ!!」
一人で納得したシャルロッテを、真っ赤になりながら止める。
例え捜査のためとはいえ、そんないかがわしい店に入るなんて、さすがに御免こうむりたい。
第一、私は――この年に至るまで、その、まったく経験がない。
医学一筋に生きてきたインテリ女にとっては、ありふれた男女交際ですらほとんど未知の領域だ。
そういうあれやこれやをすべてすっ飛ばして、いきなりその手のサービスを行う店に入店だなんて、ハードルが高いにもほどがある!
魚類が両生類にもならず、いきなり地上に飛び出そうとするようなものだ!
「平気よ、面接を受けるだけだから。客を取るまでには引き上げるわ」
「で、でも! 無理なものは無理よ!」
「大丈夫大丈夫、私だってまあ経験はないし。意外と何とかなるはずよ」
「どうしてそう、楽天的でいられるのかしら……!?」
シャルロッテのいっそ驚異的なまでの楽天主義に、噛みつかずにはいられない。
ガトリングガンよろしく、次々と抗議の言葉が浮かび、口をついて飛び出していく。
だがシャルロッテはそんな私の批判もどこ吹く風、馬耳東風で相手にしない。
良くも悪くも、超越的な精神性を持っている少女だった。
「いや、だから……!」
「なんや、さっきから。エライ騒がしいけど、何かあったん?」
「あッ! エリカ!」
ドアの隙間を、するりと潜り抜けるようにして姿を現したエリカ。
差し入れの紅茶とクッキーを載せたトレーを、バランスをとりながら器用に片手で運んでいた。
私は彼女の方へと体をずらすと、大急ぎで事情を説明する。
「シャルロッテが、事件の捜査のために二人で社交クラブへ潜り込もうって言い出し始めて……。困っているの! あなたからも何か、シャルロッテに言ってやって!」
「へえ、社交クラブなあ……」
エリカは急に悪戯っぽい表情をすると、シャルロッテの体を一瞥した。
そして口元を押えながら、プッと軽く吹き出してしまう。
「ははは! シャルロッテ、自分、それで社交クラブへ潜り込むつもりなん?」
「ええ、どこかおかしい?」
「そんなチンチクリンななりじゃ、どこも雇ってくれへんよ? ま、せいぜいカフェの給仕ぐらいやね」
「なッ!? い、言ってはならないことを言ったわね……!!」
シャルロッテの顔色が変わった。
年の割に背が小さいことを、相当に気にしていたようだ。
目に炎を滾らせた彼女は、ソファから飛び降りると、獣のような速さでエリカに襲い掛かった。
一閃。
白い手が、弾丸さながらの勢いでエリカの胸元へと伸びる。
瞬く間にドレスの裏へと入り込み、指先がふくらみをわしづかみにした。
「ふん! エリカだって、こっちはまるっきり子どもじゃない!」
「な、なんやて!? 失礼な! これでも80……いや、83以上は余裕であるわ! 大きい方やで!」
「私なんて90以上は余裕であるわよ!」
「ま、またデカくなったんかいな! そんなの、無駄にデカすぎるだけや! チンチクリン!」
「嫉妬しないでよ! 大平原!」
互いに額を突き合わせ、意地の張り合いへと突入した二人。
激しい火花を散らせる彼女たちの戦いは、当分、決着がつきそうになかった。
付き合っていてもしょうがない。
早々に安全圏へと離脱した私は、エリカが持ってきたクッキーをつまみ、紅茶を啜る。
「……もう、ほうっておくしかないわね。あら、凄くおいしい」
生地に混ぜ込まれたチョコレートの甘みと、紅茶の豊かな風味。
午後のお茶は、周囲の喧騒をよそに、至福のひと時を誘ったのであった――。




