第一話 都会の片隅で
新作の投稿です。
これまでの反省を踏まえて、第一章完結まではすべて予約投稿です!
世の中、どうしてこうも上手くいかないのか――。
弱冠十八歳にして、無職歴が半年を超えてしまった私は、深く深くため息をついた。
就職先を求めて、街中の病院を駆けまわったが、どこもまったくの門前払い。
担当者に取り次いですらもらえない。
酷いところになると、罵声とバケツの水が飛んでくる始末だった。
自分の選択が招いた結果とはいえ、これが嘆かずに居られるだろうか。
夜風に吹かれて彷徨いながら、大きく肩をすくめる。
白く乾いた息が、口の端から漏れた。
つい半年前まで、私は医師としてエリートコースをひた走っていた。
名門リンデン大学を飛び級で卒業し、軍医特例を利用してわずか十六歳で医師免許を取得。
その年の暮れには、栄えあるブリタニカ帝国軍医補として砂漠の戦場へ赴いた。
もし何事もなく帰国できていれば、今頃は医務局の主任か大学の助教にでもなっていたことだろう。
胸元に女王勲章を燦然と輝かせ、誇らしげに人々から尊敬されるような仕事していたに違いない。
だが、そうは問屋が卸してくれなかった……。
「……残り二ギニーと三シリングか」
人通りの少ない小道の端で、朧に輝くガス灯。
物寂しい光の下で、残された硬貨の枚数を数えた。
ギニー金貨が二枚に、シリング銀貨が三枚。
何度数えても、増えもしなければ減りもしない。
軍から手切れとして渡された退職金も、いよいよ残り少なくなってきている。
物価の高いこのリンデンでは、安宿に一泊するだけでも十五シリングは必要だ。
最大限に節約しても、二ギニーと三シリングでは三日間が限度。
特に節約を意識せず散漫と過ごせば、二日も持たないぐらいだろう。
来週まで、無事に過ごせるのか。
いよいよ路上生活が現実のものとして近づきつつあった。
うらぶれた通りで物乞いをする自身の姿が、いやにはっきりと想像できる。
「今さら田舎にも帰れないし……」
医学を志すにあたって、私は両親と大喧嘩をして田舎を飛び出してきていた。
リンデンへと向かう旅立ちの朝。
父に打たれた頬の痛みと、母の泣き腫らして充血した目を、今でもはっきりと覚えている。
それが十年もたたないうちに、どの面を下げて戻れというのか。
よりにもよって、こんな何もかもをなくした敗残兵のような状態で。
そんな自己の尊厳を踏みつけにして壊すようなことを、私ができるはずもなかった。
しかし、この街に残ることも不可能に近い。
開業しようにも資金がないし、就職しようにもどこの病院だって雇ってはくれない。
いっそ、医師をやめて他の仕事をしようかとも考えてみたが、それはそれでまた難しい相談だった。
ここ帝都リンデンは、帝国中の労働力が流入して慢性的な人口過多となっている。
ついこの間まで百万人規模だった街が、今や五百万を超える人口を抱えていた。
若くていくらでも働ける人材が、そこらじゅうに溢れて限られた仕事を奪い合っている。
医師としての知識と腕ならば自信があるが、他の仕事は全くの未経験の小娘が、就職できる先なんてそうそう簡単には見つからないだろう。
「これは、終わったかもしれない……」
自分の人生が、にっちもさっちもいかなくなっていることを強く自覚した。
チェックメイトされた状態から、どうにか勝利しようと悪あがきをしているような気分になる。
この状態を、はたしてどう切り抜ければいいのか。
苦しすぎる無理難題に、私の脳細胞はかつてないほど活性化するが、何の答えも導き出せない。
かつて他の医者から悪魔的と称された頭脳も、今はまったく役に立たないようだ。
本当はもう少し前に、しっかりと悩んでおくべきだった。
一か月ぐらい時間があれば、どこかいい働き口もあったかもしれない。
しかし、医師として働きたいあまりに、他の可能性は考えても来なかった。
他のことを考える暇があったら、その分の時間で面接の練習をすべき――本気でそんなふうに考えていた。
融通の利かない自分の愚かさに、今さらながら情けなくなる。
どうしてここまで、何もできなかったのだろうか。
行動を先延ばしにしてきてしまったのだろうか。
「これが星の定めだとしたら、恨まずにはいられないわね……ん?」
星への愚痴をこぼしながら歩いていると、煤けた壁に、真新しい張り紙が貼られているのが目についた。
一枚は、最近巷を騒がせている凶悪犯八つ裂きジャックに対する注意喚起をするチラシ。
騎士庁が作成したもののようで、「女性の一人歩きはやめよう!」と書かれていた。
一人で歩く女の子を、建物の陰から伺う怪しい男のイラストが、疲れた目にも鮮やかだ。
「へえ……」
随分と物騒な内容のチラシだったが、それを見ても心は不思議と平静だった。
戦場帰りの兵士は、まれに精神に異常をきたすというが、私もそうかもしれない。
連続殺人鬼なんて、いきなり爆弾特攻してくる民兵に比べれば、はるかにマシに感じられた。
危険に対する敏感さが、完全に麻痺してしまっている。
自身の心の荒み具合にうんざりしながら、隣のチラシへと目を移す。
それには大見出しで「星錬術師 急募!」と記されていた。
その下を読めば、週五日勤務で月給四十ギニーとある。
一般の条件をはるかに上回る、破格と言って良いほどの数字だ。
しかし、それでもなお応募者が居ないのか「追記 月給四十五ギニーに修正!」とある。
走り書きでなされた追記の一文が、話の緊急性を物語っていた。
「あるところには、あるものなのね……」
何とも景気の良い求人話に、ただでさえ憂鬱な気分がさらに落ち込む。
星の力を操り、万物を自在に形質変化させる星錬術。
それを医学へと応用し、星の力であらゆる臓器を治療できるようにしたのが、私の学んできた占星医学だ。
両者の関係性を例えるならば、親と子のようなものである。
それがどうして、こうも需要という点において違ってきてしまっているのか。
やりきれない悲しさと切なさで、胸が弾けてしまいそうだ。
「大学で、もっと星錬術を学んでおけばよかったかしら」
大学の講義で、星錬術にかかわるものは多かった。
あれらをすべて取得していれば、今頃、星錬術師としてどこかで働けていたかもしれない。
どうにもならないこととはいえ、今となっては過去の行動の一つ一つに悔いが残る。
考えれば考えただけ、思考はマイナスへと振り切れていった。
「冷えて来たわね……」
気が付けば、すっかり夜も更けていた。
吹き抜ける風の冷たさが、薄っぺらなコートを貫いて身に染みる。
私は襟を立てて顔を埋めると、暖を求めて歩を速めた。
道なりにもう少し行ったところに、行きつけだったコーヒーショップがある。
いささか金がかかるが、もうこの際だ。
そこで暖まらせてもらうことにしよう。
こうしてビルを十ばかり過ぎた先に、湯気を立てるコーヒーカップを模した看板が現れた。
すでに外のカフェスペースは座席が片づけられていたが、中はしっかりと営業しているようだ。
窓からランプの光が漏れ出て、香ばしい豆の薫りが風に流れてやってくる。
ツタを模した外枠の大きな窓からは、バリスタの少女が豆を挽いている姿が見えた。
私は手垢で金色になっている取っ手を握ると、ゆっくり扉を開く。
カラリと鈴が鳴り、少女の視線がたちまちこちらへと向けられた。
「いらっしゃいませ! こんばんは!」
「こんばんは。ブレンドを一杯、頼むわ」
「はい! ミルクと砂糖は入れますか?」
「もちろん、たっぷりと」
オーダーを入れると、すぐにカウンター席に腰を落ち着ける。
先ほどからずっと歩いていたので、足が結構疲れていた。
腰を曲げると、ふくらはぎのあたりを軽く揉んでやる。
筋肉が張って、ゴムのように凝り固まってしまっていた。
そうしたところで、不意に私の肩が叩かれた。
慌てて振り向けば、そこには見知った顔があった。
大学時代、同じ研究室に属していたスタンフォードと言う男だ。
特に仲が良かったというわけではないが、懐かしい再会に思わず心が揺り動かされる。
「びっくりした……! 久しぶりね!」
「こちらこそ、お久しぶりです! 驚きましたよ、こんなところでワトソン先生と会えるなんて」
「えっと、かれこれ二年ぶりぐらいになるかしら? 教授はお元気?」
「もちろん、今も元気に怒鳴ってますよ。私なんて、もうしょっちゅう」
「それは何より。みんな変わらないわね」
「ワトソン先生も、相変わらずお綺麗ですよ。大人っぽくなって、ますます……」
スタンフォードは鼻の下を伸ばすと、私の胸元に何とも下品な視線をぶつけてきた。
目が、シャツの隙間から覗く谷間に吸い込まれてしまっている。
やれやれ、この男は――まったく成長していない。
私は大きく振りかぶると、彼の頬に全力で平手打ちを決めてやる。
ペシャンッと、思いがけないほど渇いた良い音がした。
たちまち、スタンフォードの口から情けない叫びが漏れる。
「タタタッ……! なにしよるんですか!?」
「会って早々、変なところを見るからよ」
「ははは……ばれてましたか」
「女の子はそういうところ、敏感なの」
「以後、気を付けます!」
両足を揃えると、軍人風の馬鹿にかしこまった雰囲気で謝るスタンフォード。
彼一流のジョークに、私は思わず苦笑してしまった。
彼は軽く頭を下げると、そんな私の隣に腰を下ろす。
そして先ほどまでとは打って変わって、酷く真剣な表情をすると、顔を寄せてくる。
「しかし先生……大変なことになりましたね」
「例の記事のこと?」
「はい。本当なんですか? 僕は、先生がそんなことをするとは思えないのですが……」
「そうねえ……否定も肯定もしないわ。強いて言うなら、私は正しいと思ったからやった。それだけよ」
久しぶりに戦地でのことを思い出しながら、しみじみとした口調でいう。
灼熱の砂と岩に彩られ、年中のように砂塵が舞い狂う砂漠の戦場。
その最前線にあった野戦病院での仕事は、最初のうちは過酷としか思えなかった。
重傷患者が次々と運び込まれ、丸太のように床へ転がされている有様だったのだから。
ベッドも医師も看護師も機材も――ありとあらゆるものが欠乏していた。
唯一足りていたのは、近くの岩場で取れる質の悪い岩塩くらいだ。
けれどそんな環境での仕事も、今では人生の一番充実した時間として輝いている。
思えば、来る日も来る日も患者のことだけを心配していたあの頃は、医者としての本分を最も忠実に果たしていた。
自身の将来に思い悩むことなどなく、ただがむしゃらに――。
もっとも、最後の最後でそのすべてを帳消しにしても有り余る、恐ろしいことをやってしまったのだけれど。
「そうですか……」
私の返答にスタンフォードは苦い表情をした。
悔しげな面持ちで唇を噛みしめ、テーブルの上に置いた拳を、固く握る。
近くに置かれていたコーヒーの水面が、手から伝わる震えによってかすかに波を立てた。
しかし彼は、声を荒立てて私を責めるようなことはしなかった。
代わって、静かな沈黙が場に漂う。
その穏やかさに、逆に心が締め付けられるように痛んだ。
「……ごめんなさいね。期待したような返事を出来なくて」
「いえ。先生が患者のためだと思ったなら……仕方のないことです。僕は、何も言えません」
「ありがとう、優しいのね。世の中がみんな、あなたみたいな人だったら――こんな苦労はしないのに」
「もしかして、再就職先がまだ?」
「ええ、どこの病院へ行ってもダメ。医者として働くのは、もうあきらめたわ」
「もったいない!」
スタンフォードはいきなり立ち上がると、力強く叫んだ。
声が反響して、耳に残ってしまうほどだ。
突然の出来事に、私はコーヒーを手にしたまま固まってしまう。
カウンターの向こうにいるバリスタも、豆を挽く手が止まっていた。
「何を……」
「もったいないです! 先生ほどの腕を眠らせるなんて、人類の損失ですッ!」
「いくらなんでも、ちょっと大げさよ」
「いいえ、そんなことありませんッ!! 先生の腕はまさに神業ですよ! 絶対に、医療の役に立てていただきたい!」
「そうは言われても、使ってもらえないことにはね……」
私だって、医師を続けられるなら続けたい。
けれど、先立つものもないのにどうしろと言うのか。
事態をよく理解していないように見えるスタンフォードに、思わず非難めいた眼差しを向けてしまう。
すると彼は、胸ポケットから一枚のメモを取り出した。
受け取ってみれば、走り書きでどこかの住所が書かれていた。
レーカー通り221A……なかなかの一等地だ、金持ちがこぞって屋敷を構えるような場所である。
「この住所を尋ねてみてください。医者を捜している人間が、そこに居ます」
「あなたの知り合いか誰か?」
「ええ。大学の研究室に出入りしている人間です。最近、自身の助手をしてくれる医者を捜しているとかで。腕の立つ知り合いはいないか、さんざん聞かれましたよ」
「そうなの。それで、その人は何をやっている人?」
私の問いかけに、スタンフォードは困ったように首を傾げた。
そのまま、彼は実に歯切れの悪い口調で話し出す。
「それが……イマイチわからないんですよ。ただ、ひどく不規則な生活をしているってのは確かですね。研究室に何日も閉じこもったと思ったら、何週間もずーっと来なかったり……。最近は、忙しいのかほとんど顔を出してないです」
「……まともな人?」
「そこは大丈夫です。ワトソン先生と同年代ぐらいの女の子で、すごく明るくていい子ですよ。……たまに、ちょっと変なことしますけど。たぶん、お金にも困ってないかと。研究室の古い機材を、まとめて引き取ったりしてますから」
大学の研究室の機材ともなれば、古くてもそれなりに値段が張る。
まして、名門リンデン大学の揃えた品々ともなれば、なおさらだろう。
それらを自費で買い取るなんて、いったい金貨を何枚重ねればいいのか。
私なんて、明日の宿の心配をしなければならないというのに、まったくいいご身分だ。
年からして、どこかの資本家か貴族の放蕩娘だろうか。
いずれにせよ、私とは住む世界が少し異なるような人種だろう。
「何となく想像がついたわ。それで、条件は? さすがにそれぐらいは聞いたでしょう?」
「月に六十ギニーも払うそうです。家も、彼女と一緒に住むのであればただで貸してくれると」
「六十! 随分と太っ腹ね!」
「そのかわり、並大抵の医者じゃダメだって言っていましたけどね。リンデンで一番腕の立つ医者がほしくて、それ以外はいらないのだとか」
「なるほど、結構な自身かね」
随分と、傲岸不遜な要求だ。
いよいよ、私はその人物のことが気になってくる。
最近ずっと心の奥へ押し込められていた闘争心が、ふつふつと煮えたぎってくるのを感じた。
リンデン一の医者がほしい?
実に良いじゃないか!
「それで、そんなとんでもない要求を出す人の名前は? なんて言うの?」
「ホームズ! シャルロッテ・ホームズです!」
「シャルロッテ・ホームズ、ね。わかったわ」
ペンを取り出すと、筆先を滑らかに走らせる。
こうして記した人名が、私の将来や人間そのものに深く関わってくることなど、この時は思いもしなかった――。
※補足説明
作中の貨幣体系では、
一ギニー=二十シリング
一シリング=十二ペンス
一ギニー=二百四十ペンス
となっています。
実際のギニーは一ギニーで二十一シリングなのですが、分かりやすくするため端数をなくしています。