プロローグ ある探偵の誕生
――未来を予知してはならない。
――この禁を犯そうとしたものは、紅の涙を浮かべ、星に懺悔するであろう。
――希望は知れず、絶望のみを知ったがゆえに。
「……くだらない」
いつから伝わっているのかも、今となっては分からないほどの古い詩。
ふと思い浮かんだその一説を口ずさむと、最後に一言、吐き捨てる。
目の前に描き出された遥か古の術式――運命占星陣は、深い青の輝きを湛えて、その発動を今か今かと待ち構えていた。
陽光を浴びた青海のように、不規則に揺らめく幾何学文様。
真円を描くその中央に立つと遥か天を仰ぐ。
グランニッジ大天文台。
その最上階に位置する観測室はいま、これから行う儀式に向けて、深い静寂で満たされていた。
もともと置かれていた望遠鏡は一時撤去され、代わりに星気を集めるための鏡が天井となっているドームの端に据え付けられている。
この国を牛耳る組織の一つである星十字教会が、資金力とコネにものを言わせて用意した最上級の『祭壇』であった。
可動式のドームが、重低音を響かせながら割れていく。
隙間から、三日月の輝きが漏れてきた。
今宵の月は、鮮血を思わせる紅。
不吉なその色は、これから行う儀式に対しての警告であるかのようだ。
しかし、止められない。
この程度でやめてしまうほど、生半可な覚悟はしていなかった。
「さあて、あとは――」
懐から懐中時計を取り出すと、時刻を確認する。
現在の時刻、午後十一時五十五分と四十秒。
天に煌めく星々の力が最も高まり、術式が臨界点に達する午前零時まで、しばし時間があった。
私は肩を上げて深呼吸をすると、体をほぐす。
これから行う大占星術は、その恐ろしさゆえに遥か古代に禁じられた術だ。
星錬術を築く礎となりながらも、その性質ゆえに歴史の彼方へと葬られた占星術の秘奥。
それを復活させようというのだから、緊張するのも無理はない。
身体全体の筋肉が、鉛でも背負ったかのように重く凝っていた。
「こ、これは……!!」
閉じられていた部屋の扉が、いきなり開かれた。
慌てて振り向けば、いつになくびっくりした様子の友人が目に飛び込んでくる。
いつもは鼻につくほど冷静で正論ばかり言っている少女が、真っ青な顔をしていた。
長く豊かな金髪が乱れ、剣にも似た凛とした顔が、驚きで情けなく崩れてしまっている。
せっかくの美人が台無しだ。
「クラリカ……。何しに来たの?」
「お前こそ……! 本気で、未来を見るつもりなのか!?」
「ええ。私に、内戦の結果を占えって命令が出たことは知ってるでしょ?」
「そんなものぐらい、できないって跳ね付ければいいだろう! お前の立場なら、断れんこともなかったはずだッ!」
「……せっかくのチャンスを、何で断らなきゃいけないのよッ!!」
自分でもびっくりしてしまうほど、激しい怒号。
その勢いに、クラリカの体が一瞬、石化したように動きを止める。
ライトブラウンの瞳が、限界まで見開かれた。
「まさか……あのことを、まだ引きずっていたのか!?」
「……そうよ。忘れられるわけないじゃない」
「おばさんのことは不幸な事故だったって、みんな納得したじゃないか! それを今さら……! 占星術を復活させて、過去を変えようというのか!?」
「別に、あの事故のことをどうにかしようとは思ってない! ただ……繰り返したくないのよ。未来さえわかれば、もう二度と大切な人を失わないで済む。そのための第一歩なのよ、この術式は」
今から八年前、母は私の目の前で死んだ。
気を付けてさえいれば、絶対に防げるはずの単純な不注意で、窓から落ちて亡くなった。
――人は、こんなにもあっけなく死んでしまうのか。
悲しみを通り越して、運命に憤りを感じた私は、未来を知る術を求めて星錬術、ひいてはその先に存在する占星術にのめりこんだ。
そうして今、ここにいる。
たとえ親友の叫びと言えども、止まるわけにはいかない。
振り返るわけにはいかない!
過去にけじめをつけて、新たな未来を掴むために。
「……時間だわ」
「お、おい! やめろッ! ……わッ!?」
術式からあふれ出した膨大な星気が、物理的な圧力となってクラリカを押した。
彼女はとっさに腰の剣を抜き、床に突き刺して堪えようとするが、あっという間に壁際まで吹き飛ばされてしまう。
これでひとまず、邪魔者は居なくなった。
私は動けなくなっている彼女から、遥か上空に輝く月へと視線を移すと、詠唱を始める。
言霊の籠った韻律が、静かに大気に波を作る。
術具と陣形が主流となった現代星錬術では見られない、古の業だった。
「――散在する光の欠片。昏き天に綾なして、森羅万象の理を示す。我、瞳を白紙と化して、秘されし時の彼方を写し取らん……」
「やめろォッ!!!!」
「大占星術ッ!!」
光が弾けた。
同時に、立ちくらみのようなふわりとした感覚が襲ってくる。
それまでの景色が失われて、一面白色の世界が姿を現した。
ここが……時の狭間だろうか。
虹色の光が、さながら大河のように奥から手前へと滔々と流れていた。
波打つ光の美しさに、自然と眼元が緩む。
やがてその奔流に乗って、いくつかの映像が現れてくる。
「これが、未来?」
写真を無造作に切り取ったような、断片的な視覚。
流れゆくそれをどうにか読み取ろうと、目を凝らした。
すると飛び込んできたのは――緋色。
直視に堪えない惨劇の現場の映像だった。
人の体が砕かれ、巨人に引きちぎられたようになっている。
飛び散る血潮、肉!
殺戮、破壊衝動!
人間が持つ悪意を、余すところなくぶちまけたようなおどろおどろしい映像だ。
「な、なに……!?」
動揺して、身を縮める。
次に流れてきた映像は――人と獣が合わさった何かが雄たけびを上げている場面だ。
こちらを射抜くような眼に、精神はたちまち震え上がる。
なんだ、何なんだ!
私は、こんなものを見たいわけじゃない!
ただ、ただ……!
ほんの少し、『覚悟』がしたいと思っただけなのに!
未来に立ち向かう勇気が、欲しかっただけなのに!
「ああッ!! 血が、死がッ!」
いつの間にか、周囲が黒と赤を混ぜたような色に染まっていた。
流される血、叫ぶ人々。
露わにされる悪意と死。
繰り返される映像の数々は、すべて残虐で非道なものだった。
精神が軋んで、悲鳴を上げる。
とても、耐えられなかった。
視線をそらしてやり過ごそうとするが、身体が硬直して動かない。
目蓋も閉じられない!
地獄の風景を、無限に見続けることしかできない……!!
「助けてッ!! うあァッ!!」
唯一達者に動いていた口は、いつしか言葉を紡ぐのをやめた。
悲鳴を叫ぶこともやめた。
情報の濁流に次第に心が犯され始めた私は、動きを止める口の端からよだれを滴らせる。
このままでは、死ぬ。
精神的な死が迫ってきていることを、未だに冷静さを保っている心のどこかが知覚する。
そう思った直後、さらなる破滅が襲い掛かってきた。
「街がッ! 燃える、燃える燃える燃える……ッ!!!! 消えるッ!!」
大好きな街が、人が。
すべて灰燼に帰していく。
消えた、何もかも。
やがて訪れる虚空に、反応することすらできない。
大いなる喪失感。
失われた心。
私はもう、人形のように漂うだけ。
この何もない世界で、永遠に――
「おい、目を開けろッ!!」
「……ん、ああッ!」
気が付けば、目の前にクラリカが居た。
私はどうやら、気を失って倒れてしまっていたようだ。
占星陣を走る光は消えて、部屋の中はすっかりと昏くなっている。
どれほどの時間が経過していたのだろう。
永遠のようで、一瞬のようで。
感覚的にはまったく定かではないが、少なくとも朝にはなっていないようだ。
「……酷かったぞ。叫びをあげて、のたうって。いったい、何を見た?」
「ああっと…………最悪の未来……かな。人間の悪意と死がいっぱいで……。最後にはみんな消えて……んッ?」
目のあたりを擦ると、何か温かいものが手についた。
涙ではない。
もっとぬめりがあり、熱いものだ。
暗闇の中で目を凝らすと、だんだんとその色彩がはっきりとしてくる。
血だ。
私はいつの間にか、目から血を流していたらしい。
「まるっきり、伝承の通りになったな。だから、私はあれほどやめろと……!」
「……いいのよ、後悔はしてない。確かに、平和な未来を見られたらいいなって思ってたけど……知ることはできたわ。だったら、変えられる!」
本当のところ、心は震えていた。
恐怖で押しつぶされそうだった。
けれど私は、無理やりに笑うとゆっくり立ち上がる。
くよくよしていたって、どうにもならない。
まだ、惨劇は起きていないのだ。
今なら、何かできる。
出来るはずだ……!
「クラリカ。私、教会をやめるわ。未来を変えなきゃいけない」
「いきなりか!? せっかく、十二宮の一人にまでなったのに!?」
声を引きつらせるクラリカ。
無理もない、これまで必死に足掻いてつかみ取った地位だ。
このまま教会にとどまっていれば、ゆくゆくはもっと出世して幹部の一人になれることだろう。
けれどそれではいけない。
今から動かなければ、ダメなんだ。
「教会に残ったら、動けない気がするの。しがらみもあるしね。だから、やめる!」
「それは確かに……そうかも知れん。教会は規律も厳しいからな。しかし、なあ……」
「決めたと言ったら決めたの! ところでクラリカ、あなたの家って騎士庁のお偉いさんでしょ? だったら私を死んだことにして、新しく戸籍を用意してくれない?」
私の言葉に、硬直するクラリカ。
彼女は目をぱちくりとさせると、やがて堰を切ったように声を上げる。
「お、おいおい! 何もそこまで……!? そりゃあ、人間一人ぐらいならどうにかならんことはないが……! やりすぎだろう! 教会をやめるだけでいいじゃないか!」
「それじゃあダメなのよ。十二宮まで上がった星錬術師なんて、下手すれば一生行動に制限がかかるじゃない。それじゃ満足に動けないわ! もしかしたら、教会に反することだってするかもしれないし……」
「それは、承知しているがな……」
「お願い、頼むわ。あなたにしか頼めないことなのよ」
クラリカの瞳を、まっすぐ覗き込む。
静寂。
お互いに沈黙して、風の音だけが聞こえる。
動きが止まった。
この場所だけ、時の流れに忘れられてしまったようだ。
最初は動揺を見せていたクラリカの顔が、次第に落ち着きを取り戻していく。
「……わかった、やろう。さすがに今すぐにとはいかんがな」
「ありがとうッ! 感謝するわ」
「それで、名前はどうする? 新しい人間になるなら、名前がいるだろう」
「ああ、そうね。名前か……」
私は顎に手を押し当てると、軽く思案を巡らせた。
するとどうしたことだろう、電撃的にとある名前が浮かび上がってくる。
ずっと昔から、その名を名乗っていたような気さえする。
「ホームズ。シャルロッテ・ホームズがいいわ!」
「シャルロッテ・ホームズ? 悪くはないが、どうしてその名前なんだ?」
「うーん……何となく! でも、しっくりくるわ!」
「まったく、重要な局面だというのに。昔から締まらないやつだ」
「いいでしょ、別に! 思いついちゃったんだから!」
やれやれとため息をつくクラリカに、思いっきり反論する私。
まったく、昔っからあいつは私に対して上から目線だ。
少しばかり顔が良くてスタイルが良くて頭が良くて家柄がいいからって、調子に乗っているとしか思えない。
……思った以上に完璧で、私の方がダメージを受けてしまった。
こりゃダメだ。
「……ま、まあいいわ! しかし、教会をやめたらどうしようかしらね。未来を変えるには、自由に動けて、それで調べ物が出来る仕事に就きたいんだけど」
「何がいいのかわからんが……自由に動ける仕事か。フリーの星錬術師なんて、良いかもしれないな。お前の腕なら、いくらでも食えるだろう」
「うーん、だけどそれじゃ犯罪の情報とか集めづらくないかしら?」
「ならば、最近街に増えている探偵とかはどうだ? どうにも、胡散臭い連中だが……」
あまりいい顔をしないクラリカ。
探偵と言えば、民間人でありながら騎士のまねごとをする何でも屋だ。
騎士の名門としては、何かしら思うところがあるのだろう。
しかし……いいかもしれない。
探偵なら自由に動けるし、いろいろな事件に首を突っ込める。
「いいじゃない! よし、決めた! 私は探偵、探偵のシャルロッテ・ホームズよ!」
こうして私の、探偵としての新たな人生が始まった。
すべては、最悪の未来を回避するために――!
第一話のインパクトが若干弱いのではないかと言うことで、プロローグの追加です。
今回だけは、語り手のシェリーではなくシャルロッテの一人称です。