#8
【二〇〇三年七月】
吹奏楽コンクール県大会。ぼくらN高校の楽団は、少しのミスも無い、完璧な演奏をやってのけた。皆、カホちゃん、いや、コウモリ先生のために、一丸となって練習を続けてきた成果だった。
結果発表のとき、先に金賞の受賞が発表され、何人かの生徒は、ホッとした溜め息を吐いていた。
けれど大半の生徒が、まだそのあとの支部大会出場校の発表に向けて、緊張感を高めていた。一方で、演奏に出ていない低学年の生徒の中には、ナツキのように既に泣いているものもいたけれど。
そして、全ての出場校の賞の発表が終わり、支部大会出場校の発表へ移る。そのときぼくとカホちゃんは、ホールの、部員たちの後ろの方の席に、二人並んで座っていた。隣の方でカホちゃんは、緊張のため、ぎゅっと拳を膝の上で握り締めていた。
顔を見ると、口も真一文字に結ばれていて何だか可笑しな表情だった。けれど、ぼくの方こそ同じように緊張し、恐らくそれと大差ない表情を作ってしまっていたことだろう。
発表は、一瞬の出来事だった。
「N高校!」
ぼくらにとってそれは、東京ドーム大のくす玉が割れたみたいな衝撃だった。カホちゃんたちが、県の代表入りを果たしたことが知らされたのだ。そのときはもう、吹奏楽部の生徒皆、わぁわぁ、と涙を出して喜んでいた。
何名かの女子部員が、カホちゃんを振り返って、嬉しそうに拳を作った両手を挙げた。それに対し、カホちゃんもようやく安心したような顔を作り、そして優しく微笑んで、両手でVサインを送っていた。
「カホちゃん、おめでとう」
ぼくも横でそう、小さく耳打ちしてやると、
「ありがとう、コーちゃん」
カホちゃんもそう言って、ぼくの手を握ってくれた。
そのときのカホちゃんは、肩の露出した真っ黒いドレスを着ていた。大きな胸も強調され、普段の可愛らしい様子とは異なる、大人の女性の雰囲気を醸し出している。とても三七歳には見えない、いや、癌だということも信じられないような美しさだ。
今が、カホちゃんにとっての人生の絶頂期であると言ってもいいくらい、とても輝いて見えた。
と、その直後のこと。カホちゃんは握っていた手を解くと、ぼくに向って、上体を倒してきた。ぼくの膝の上に、カホちゃんの頭がある。膝枕をするような体勢だ。
「ちょ……カホちゃん、何やってんの。安心して、眠くなっちゃったの? だめだよ、起きて。ここ、家じゃないんだから……」
緊張の糸が切れたのだろうか。全く、だらしないなぁ。
呆れながら上体を揺すり、起こそうとしたが、全然反応が無い。直後、自分の膝の上に何か温かいものがこぼれるのを感じる。
「え、カホちゃん……?」
つん、と酸っぱい臭いが漂う。気づくのが、遅かった。それが審査発表の前に、「ああ、緊張して喉乾いちゃった」と言ってガブ飲みしていたポカリスエットを、カホちゃんが嘔吐したものだと。これが、カホちゃんの二度目の失神だったと。
「カホちゃん!? カホちゃん、しっかり!!」
僕の叫びに、直に何名かの生徒が振り返った。そしてことの重大さに気づき、悲鳴を上げた。それに反応して、他の部員たちも次々にこちらを振り返り、わぁぁあ! と慌てふためき始めた。彼らの喜びが、一転して恐怖に変わった瞬間だった。
ステージの上では、丁度彼らの部長が、金賞の賞状と、支部大会出場への推薦状をもらおうとしていた。部長は、審査員の前に両手を差し出したまま、こっちを見てポカンとしていた。
ホール中が大きな騒ぎになりかけていたが、直にぼくは、何名か周りの男子生徒達の手も借りながら、なんとかカホちゃんをホールの外に運び出そうとしていた。女子生徒たちも集まってきて、タオルやティッシュで、カホちゃんが嘔吐したものを拭いていた。
「救急車呼んでっ、救急車!」
どうでもいいことかもしれないけれど、そのときぼくが指示を出したその相手は、初めてカホちゃんが倒れた六月の合奏のとき、トロンボーンを構えたままおろおろしていた男子学生だった。人には、それぞれ役割というものがあるのだろうか。何となく、そんなことを考えた気がする。
ひょっとすれば、カホちゃんが倒れたのだって、運命なのかもしれない。最初から、神様がカホちゃんの命の期限を決めていて、それに従って、カホちゃんは今死のうとしているのかもしれない。そう思った。
けれどぼくは、すぐにその考えを打ち消した。だったら、カホちゃんの運命って一体何なんだ。何もこんな幸せの絶頂のときに、倒れなくてもいいじゃないか。
もしもこの世界に神様というものが実在するとしたら、きっと彼は、とんでもなくヒネクレている、どうしようもないろくでなしに間違いないのだ。そんな神様なんて、ぼくは絶対、信仰したりするもんか。そう、心に誓ったのだった。