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#7

 帰り道にいつも通り抜ける公園で、ぼくは、同じ学校の制服を着たとある女子生徒に出会った。彼女は膝の上に、黒い小さなバッグと、スケッチブックを置いて、ブランコの上に座っていた。

 吹奏楽部員だと、すぐにわかった。バッグは、クラリネットの奏者がいつも持ち歩いているものに似ていたから。またスケッチブックは、譜面を貼り付けるために用いられているものだ。

 吹奏楽部員はクリアファイルなんて使わない。教室やホールの照明で光が反射し、見えなくなってしまうと困るからである。

 彼女を見て、ぼくは最初なんだかムッとしてしまった。吹奏楽部は、まだ合奏を続けていた筈だった。ということは、サボリだろうか。カホちゃんが命を削って頑張っているのに、フザけた生徒もいたもんだ、ぼくは勝手にそう思った。

「あなたは、吹奏楽部じゃないんですか。合奏、まだ続いてますけど」

 そう声をかけると、彼女はびっくりした顔でぼくのことを見て、慌ててこう言った。

「……え、私、まだ一年生なんで……コンクールのメンバーじゃないんです。それで、先輩たちより早く、部活終わったんですよ」

 早合点してしまった自分が、何だか恥ずかしかった。「あ……そうなの。失礼」右の頬を指でかきながら、ぼくはそう言った。年下だとわかったので、敬語も外して。

「あの……ひょっとして、イチノセ先輩じゃないですか? コウモリ先生の、従弟さんの……」

 と、次に声を発したのは、彼女の方だった。コウモリ先生の従弟、そう言われて少しだけ照れた。なんだ、一年生にも広まっちゃってたのか。そういうのって、少し恥ずかしい。

「あぁ。そうだけど……何?」

 言うと、彼女は目から涙をいっぱい溢れさせながら、ぼくのことを見てきた。悪い予感がした。そしてそんな予感は、大概当たるものだ。

「先生……死んじゃうんですよねぇ!? もうすぐ、死んじゃうんですよねぇ!?」

 癌であることは、生徒たちには知らせないでおこうというのが、カホちゃんの意向だった。「生徒たちには、コンクールのことに集中してもらわなきゃ。あたしは全然元気だからって、そう言って安心させてあげなきゃ、支部大会にも進めないから」カホちゃんはそう言っていた。けれど、勘の鋭い生徒もいたものである。

「……馬鹿なこと言うなよ。先生が死ぬわけないだろ」

 取り乱しながらぼくは、嘘をついた。自分でも、出来れば本当であってほしいと思う嘘だった。心が、少しだけきりきり傷んだ。けれど一年生の吹奏楽部員はというと、まだ悲しい表情のままだった。完全に、ぼくの話なんて聞いていない様子だ。

 わぁぁん、えぐっ、えぐっ。何だか幼い子のように泣きじゃくる彼女を見て、ぼくはうろたえるばかりだった。女の子って、どうしてこんな簡単に、感情を表に出せるのだろう。

 暫く経って、ようやく少し落ち着いたころ。しゃっくりをしながら彼女は、楽器の入ったバックから、黒くて薄っぺらなものを取り出した。何かと思ったら、折り紙だった。その折り紙は、横に大きく翼を広げ、真ん中に小さな頭をちょこんと持つ、蝙蝠のような形をしていた。なかなか、巧いものだ。

「私……千羽コウモリ作ろうと思ってるんですっ……先生が、少しでも長く、元気にいられるようにって……千羽コウモリっ」

 なるほど……コウモリ先生だから、千羽鶴ならぬ千羽蝙蝠というわけか。しかし、ぼくはこの折り紙が千羽も連なっている様子を思い浮かべて、何とも気味が悪くなった。

「いや……わざわざ蝙蝠にしなくてもいいよ。鶴にしなよ、鶴に」

「えっ」と、一瞬彼女は、困惑した表情になった。マズい、また余計なことで泣かせるんじゃないか、そう思ったが、彼女は再びぱっと顔を輝かせると、またこう言った。

「じゃ、じゃあっ、千枚の黒い折り紙で、鶴作りますね!色が黒かったら、コウモリとも近くなるし……」

 僕は、ひたすら黒い鶴だけが連なった千羽鶴を想像してみた。何だか、喪中みたいだ。

「いや、別に、蝙蝠に拘らなくても……普通の鶴でいいよ、普通の鶴で」

「じゃあ、金とか銀とかラメ入りとか、色んな折り紙使って、とっても綺麗な千羽鶴作ってみせますね!」

 ぼくは、金とか銀とかラメ入りとか、色んな色の鶴が連なった千羽鶴を想像した。まぁ、普通にありそうな千羽鶴だ。

「それだったらいいよ。先生も、きっと喜ぶと思うし」

「本当ですかぁ!?」と、先ほどまでの涙はどこへやら、彼女は、満開の向日葵ひまわりみたいな笑顔になった。

 と、蝙蝠の折り紙をポイっと捨て、楽器のバックと譜面のスケッチブックをそれぞれの手に持って立ち上がった彼女は、いきなりぼくに抱きついてきた。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。まるでカホちゃんみたいに、ぎゅっとぼくに抱きついてきたのだ。もちろん、カホちゃんに比べて胸は全然大きくなかったけれど。

 そしてすぐにパッと離れると、ぼくの両の手を握って、彼女は言った。

「私、もう泣きません! 泣いたりなんかしません! だから、センパイも元気出してください。元気で、先生のこと、しっかり支えてあげてください! 私も、頑張って千羽鶴作りますから!」

 手を離すと彼女は、「じゃあね、イチノセセンパイ!」と言い、駆けていってしまった。ぼくはそのとき、ぽかんとして、その場に暫く立ち尽くしていたような気がする。





「ナツキちゃんね、それは」

 夜、カホちゃんの家に寄って、ぼくはその日の公園でのことを話した。少し特徴を説明するだけで、大勢いる部員の中から直ぐに名前が出てくるなんて、流石だ。

「あの子、本当にやさしい子よ。太陽みたいに明るいの。この折り紙も、とっても上手ね」

 蝙蝠の折り紙を触りながら、カホちゃんは感心して言う。それは、その太陽みたいな子が、公園に捨てていったものだという情報は伏せておこう。他人のマナーの悪さを一々チクるようなことはしなくていい

 他にできる話があるとすれば……まぁ、精々これぐらいだろうか。

「でもあの子、それで千羽蝙蝠なんか作ろうとしてたんだよ。ちょっと、変わってるよね」

 言うと、カホちゃんはクスクスと笑った。「千羽コウモリ、ちょっと見てみたい気もするわね」そんなことを言って。

「……それにしても、カホちゃん。コウモリ先生だなんて呼ばれて、少し嫌じゃない?」

 今更だけど、ぼくは尋ねてみた。するとカホちゃんは、ぶんぶんと首を横に振って、それを否定した。

「あたし、コウモリ好きよ。ネズミみたいで、可愛いじゃない」

「……鼠みたいだから、嫌いって人もいるけどね」

 やっぱりカホちゃんも、少し変わっているのかなぁ。そう思った。

「でも、コウモリって、不思議じゃない。哺乳類の中で飛べるのは、コウモリとムササビぐらいのものだけど、特に翼を持って羽ばたけるのは、コウモリだけなのよ。私たちと同じ哺乳類なのに羽ばたく翼をもってるなんて、ちょっと羨ましいとは思わない?」

「そうだね」

 ぼくは相槌あいづちを打ったが、何で人は空を飛ぶ動物をうらやましがるのだろう、ふと、そんなことを思ったりもした。「あたしね、コーちゃん」と、カホちゃんは続けた。

「あたし本当は、学校の音楽の先生じゃなくて、プロの指揮者になりたかったの。それも、オーケストラの。小澤征爾おざわせいじ西本智実にしもとともみみたいに、世界の楽団を指揮できたら、どんなに素晴らしいだろうって。とってもとっても、憧れたものよ」

 そのときカホちゃんの目は、どこか遠くを見つめていた。天井、いや、それより上かもしれない。

「でも、現実は甘くはなかったし、何とか高い学費を出してもらって、音楽大学も卒業できたけれど、プロを目指して海外留学だとか、とてもそんな機会には恵まれなかったわ。なんだか、あたしずっと、手の届かない高いところばっかり眺めてたような気がする。あたしに翼が生えたら、どんなにいいだろうって。もっと高い所に羽ばたけるような、そんな翼があったら、そんなに素敵だろうって……」

 どきっとした。カホちゃんの口からそんな未練の言葉が飛び出してきたのは、それが初めてだった気がする。いつも子どもみたいに元気なカホちゃんが、初めて弱い部分を見せたのだと、そう感じた。その表情もなんだか、ぐっと老けてみえたような気がした。

「カホちゃん」ぼくは思わず、カホちゃんの肩を抱いた。カホちゃんは泣いていた。ぼくの前で、初めて泣いていた。そんな弱いカホちゃんを、ぼくは見たくはなかった。いつまでも明るい、そんなカホちゃんが見ていたかった。

「ふふっ、ごめんね、コーちゃん。なんだか、らしくないね」

 けれど直ぐに、カホちゃんは涙を拭いた。そして見せてくれた笑顔は、いつものカホちゃんだった。よかった、いつものカホちゃんだ。

「別にいいんだよね、今はそんなことどうだって。だってあたしには今、もっと身近で大切な夢があるんだから。今教えているコたちを、支部大会に出場させてやるんだって、そしてその舞台でも、金賞を取らせてあげるんだっていう、大切な夢が」

 まったく、この間倒れたことが嘘のような、元気な表情だった。もうぼくは半分、カホちゃんが癌だっていうことを、忘れていたぐらいだ。

「カホちゃん、頑張ってね。県大会、おれ応援しに行くからね」

 ぼくはそう言って、またカホちゃんを励ました。

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