#6
「体、大丈夫なの?」
退院のとき、付き添っていたぼくがそう尋ねると、
「コーちゃんこそ……おでこ、大丈夫?怪我したの?」
逆に、カホちゃんから心配されてしまった。
「あ、いや……これは、ちょっと今朝ベッドから落ちちゃって、角っこにぶつけちゃってさ……」
誤魔化すように笑いながら返す。少なくとも、嘘は言っていない。「えぇ~、もう、コーちゃんってば、ドジっ子なんだから」カホちゃんも、笑って言う。
「あたしは、もうすっかり元気だよ。県大会までもう時間無いんだし、一日も無駄にしちゃダメだから。ちゃんと頑張んなきゃね」
続けて、そう答えるカホちゃん。当然だけど、もう患者衣ではない。普段通りの、教師の服装だ。それだけで、健康体に思えてしまう。
病院から出て、伯父さんが運転する車で学校まで向かう。校門の前で停めてもらい、車から降りるときも、
「心配しないで、コーちゃん。あたし、いつものカホちゃんよ」
カホちゃんはそう言い、まるで不二家のペコちゃんみたいに舌を出す表情をしてみせた。つい可笑しくなって、ぼくは笑ってしまった。
けれど、ぼくの心はやっぱり、未だほろほろとほどけ続けているような気がした。カホちゃんが、死ぬだなんて。今朝の夢を思い出す。あんな風なことが、現実になってしまうのが怖かった。
いつも、ぼくと遊んでくれたカホちゃん。小さいころから、一緒に絵を描いたり、ピアノを弾いて歌ったり。そして、あったかい胸で、ぎゅっと抱きしめてくれたり。そんなカホちゃんが、死ぬだなんて。
「じゃあコウヘイ君は、家まで送ろうか」
カホちゃんが行ってしまったあと、伯父さんはそう言ったが、「すいません、部活なんで」と返し、ぼくも車から降ろしてもらった。
カホちゃんが倒れてから、ぼくも自分の部活に出ていなかったのだ。その日も、出るか出ないか悩んで、結局朝は制服だけ着て家から出てきたのだけれど、さっきのカホちゃんの姿を見たら、自分もサボっているわけにはいかないと思い直したのだった。
美術室へ向かうと、もじゃもじゃの灰色の髪の毛をたくわえた美術部の先生が、待ちかねていたように一人教室に立っていた。
「コウヘイ、やっときたか」
先生の顔には、厳しい表情が浮かべられていた。
「三日前、画材も片付けずに飛び出して以来だな。唯一の部員が、そんなことじゃ困るぞ」
そう言って先生は、ぼくの描きかけのキャンバスと、恐らくは先生がやってくれたのであろう、綺麗に手入れされたぼくの画材を出してくれた。
「先生、すみません」
深々とそう謝ったあとで、ぼくは三日振りの作品制作へとりかかった。ぼくの油絵のキャンバスには、蝙蝠の絵が描かれていた。大きく、翼を広げた蝙蝠。それは、先生がぼくに出した課題の絵だった。
課題を言い渡されたとき、「何で蝙蝠なんですか?」と訊くと、先生はこう答えた。
「蝙蝠、よく見たことないだろう」
確かにぼくは、蝙蝠について無知だった。知っていることと言えば、哺乳類なのに翼を持っていて空が飛べるとか、人の血を吸うと言われているなど、一般的な知識(または偏見)だけだった。だからぼくは、図書館などから色んな資料を集めて、蝙蝠のことを研究した。
生態とか、名前の由来とか、絵を描く上ではあまり関係の無いことまで、色々と細かく調べてみた。血を吸うと言われるのも極限られた種類だけで、多くは虫や花の蜜を主食としていることも、そのときに知った。
けれど実際に絵を描き始めて、どのように仕上げればいいのか、全くよくわからなかった。不気味な感じで、黒を濃く塗り重ねるのは、ただの既成概念をそのまま取り入れているだけで、ぼくが描くべきものとは何となく違うような気がしたのである。
それは、気持ちの問題でもあるかと思う。実際にどう描いたらいいのか、答えのようなものは無い。しかしぼくの心の中には明確な答えが存在していて、それを導き出さない限り、作品を完成させられないのである。
だから、それが導き出せないうちはどんなに頑張ろうとしても、途中何度も筆が止まった。描けない、どうして。描けない。
「もう止めにしなさい。続きは、明日の放課後でいい」
今日もまた、ほんの二時間程度の作業で、先生にそう言われてしまった。ぼくも素直にそれに従って、画材の片付けに入った。キャンバスの蝙蝠は、どことなく不安げな表情をしていた。
上の階では、まだ合奏が続いていた。カホちゃん、大丈夫だろうか。そんな気持ちも湧いたが、何だか心配しているのはぼくだけのような気もして、その日は先に一人で帰ることにしたのだった。