#5
珍しく夢を見た。
否、この表現は正しくない。人は寝ているとき、必ず深い眠りと浅い眠りを繰り返す。深い眠りの中で脳を休め、浅い眠りの中で記憶を整理する。そしてこの浅い眠りの最中に飛び交っている断片的な記憶と記憶とが、折り重なり、不可思議な映像として脳内に現れる現象が、夢の正体だと言われている。
つまり人は誰しも夢を見るし、毎日睡眠をとる限り、夢を見ない日は無いと言っていい。夢を見なかったと思うのは、単に夢を見たという記憶を無くしているだけに過ぎない。
だから、珍しく夢を見たという表現は誤りだ。正確には、見た夢を珍しく覚えていた、である。
ただ、覚えていたからと言って、それが重要なこととは思わない。単に覚えているから覚えているのであって、それが何かを示唆しているとか、自分の心理が占えるとか、そういった類のことは、ぼくは信じていない。
しかし目覚めた直後に感じた、心が、毛糸の玉になって少しずつほどけていくような感覚を――ほろほろと崩れていく感覚を、忘れるわけにはいかないと思う。
その夢は、母方の祖母が亡くなる夢だった。
「おばあちゃん、どうしちゃったの?」
そう尋ねた少女は、妹のキヨミだ。四、五才ぐらいまで幼くなっている。まだ人の死というものが何なのか、よくわかっていない様子だった。
「おばあちゃんは、死んだんだ。命が消えて、ただの肉と骨の塊になった。だからこれは、もうおばあちゃんじゃない」
冷たい声で答えたのは、ぼくだった。ぼくとキヨミは、横に並んで、足下にある筋張った死体を眺めていた。白い患者衣に身を包み、胸の前で手を合わせた老婆の死体を。髪は真っ白で、顔の肉は酷く痩せて、骸骨の形をくっきりと浮き上がらせている。とても醜い死体だ。
実際、ぼくがそんなものを見た記憶は無い。確かに祖母は、ぼくが小六のころ亡くなった。が、丁度そのとき修学旅行に行っていたため、ぼくが祖母の死の瞬間に立ち会うことはなかった。旅行から帰ってきたときには、既に火葬も終え、墓に入れられていた。
それについて、別段、哀しいとも、残念だとも思わなかった。人は年をとれば、やがて死ぬのは当たり前だと思っていたし。
また、祖母ともそれほど親しくしていたわけではない。会うといつも、「お絵かきばっかりしないで、ちゃんと勉強しなさい」と説教されていた。特にキヨミが生まれてからは、「キヨミちゃんキヨミちゃん」と妹だけを可愛がり、ぼくのことは完全にないがしろにされてしまった。
だから、ぼく自身もなんとなく、祖母のことをあまり好きではなかったのだと思う。実際に対立するようなことは一度もなかったけれど、祖母が死ぬ夢の中で、ぼくは自分でも驚いてしまうくらい冷血になっていた。「消えた命は、どうなっちゃうの?」というキヨミの台詞に対し、こんな言葉を返したのだ。
「どうにもならない。ただ消えるだけ。永遠に、失われるだけさ。あとはただこうして、死体という汚物が残るだけだ」
輪廻転生なんて言葉を、ぼくは信じていない。人は死んだら、そこで終わり。虫が死ぬのと一緒だ。
けれど、そのぼくの理論を人に伝えると、みんな哀しい顔をする。夢の中のキヨミもそうだった。大きな声で、わあああんと泣き始める。この場に親がいれば、ぼくは叱られてしまうに違いない。ただこの夢の中には、ぼくと、幼いキヨミと、死体しかいない。誰もぼくを叱りはしない。
「女の子を泣かすんじゃない」
ぎょっとする。叱られてしまった。誰に――祖母の死体に?そう思って足下を見ると、死体の様子が、さっきとまるで変わってしまっていることに気づく。
それは、真っ黒なシルエットになり変わっていた。もはや、人の形もしていなかった。それが、ぬっと立ち上がる。
いや、この表現はおかしい。人の形をしていないのだから、二本の足も無いし、立っているのかどうかすらわからない。ただ、横に長かったものが、縦に伸びた。それは、まるで立ち上がったような印象をぼくに与えた。
そしてそれは、ぼくの額に攻撃を喰らわせた。シルエットの一部がにゅっと伸び、強い衝撃を与えた。
「イテッ!」
夢の中では痛みを感じない、なんて大嘘だ。それが夢だと気づいていないうちは、痛みだってもろに受ける。例えるなら、柱の角でぶつけたような、鋭い痛みを。
「人は死んだらそこで終わりだなんて、どうして言える?もしかしたら、何か他のものに生まれ変われるかもしれない」
シルエットは言う。口もないのに、どこから声を発しているのかわからないけれど。ぼくはおでこの痛みに泣きそうになりながらも、こう反論した。
「そんなの、確かめようがないだろ」
「確かめる必要なんて、無い」けれどすぐに、シルエットはそう返した。「だってあたし、自覚してるもの。あたしが、おばあちゃんの生まれ変わりだって」
キョトンとしてしまう。今、「あたし」と言った?
ふと、シルエットが徐々に人間の形を取り戻し始める。それも、ミイラのような祖母の死体ではない。美しい黒髪、張りのある白肌。幼い顔立ちながらも、大人の女性の体付き。
「……カホちゃん!?」
カホちゃんが、祖母の生まれ変わり?……いや、確かに、さっきまで祖母の死体だったものが、今こうしてカホちゃんに変わってはいるけれど……。
「おかしいよ」そう、おかしい。夢の中の出来事にいちいちツッコミを入れるのも変な話だが、そうせずにはいられない。「だって、カホちゃんが生まれてたのって、婆ちゃんが死ぬ何年前だよ?生まれ変わりなら、死んだ後に生まれてなきゃおかしいじゃないか」
「別に、死んだ直後に新しく誕生することだけが、生まれ変わりとは限らないよ」直ぐにそう返すカホちゃん。「あたしだって、お婆ちゃんにすごく可愛がって貰ったから。お婆ちゃんのこと、よく覚えてるの。つまり、ね――」
と、カホちゃんの手が伸び、ぼくの頭を撫でる。教え子に諭す、優しい教師の表情で、こう続ける。
「お婆ちゃんは、あたしの心の中で、今も生き続けているの。そういうのも、生まれ変わりなんだよ」
その台詞に、キヨミが嬉嬉として叫ぶ。「じゃあじゃあ、キヨミも、おばあちゃんの生まれ変わりー!」カホちゃんも答える。「そうね、キヨミちゃんもお婆ちゃんの生まれ変わりね。……ということは、コーちゃんだけ仲間外れだ」「なかまはずれー」二人して、言いたい放題だ。
「なんだよ、それ……」ぼくはムッとし、不満の言葉を口にする。勿論、仲間外れにされたからという理由では――いや、少しはそれもあるかもしれないけれど、兎も角。「やっぱり、おかしいよ。ただのヘリクツじゃないか。そんなの、生まれ変わりでもなんでも……」
ぼくの言葉は、途切れた。カホちゃんが人差し指を立て、ぼくの唇に押さえつけたから。
「否定しないで。コーちゃんも、その方が嬉しい筈よ」カホちゃんの顔が、近づく。ぼくの顔から、五センチ先くらいまで。「だって、今生きている人に生まれ変われるってことは、あたしが死んだら、コーちゃんになれるってことだよ。あたしとコーちゃんが、一つになれるってことだよ」
次の瞬間、頭が真っ白になる。カホちゃんの顔が、さらにぼくに近づいて。その唇が、ぼくの唇と重なって。
いや、唇だけじゃない。全部重なっていく。カホちゃんの体が透明になって、ぼくの体の中に吸い込まれていく。やめて、カホちゃん。声にならない声で、僕は叫ぶ。それでも、カホちゃんは止まらない。どんどん、どんどん、ぼくの中に吸い込まれていく。
やがて、カホちゃんが消える。完全にいなくなってしまう。
「カホちゃん、おにいちゃんになったんだね」
無邪気な笑みを浮かべ、キヨミが言う。なぜ、笑っていられるのか。ぼくにはわからない。カホちゃんがいなくなったのに、どうして。
「哀しまないで、コーちゃん。あたしは、ここにいるのよ。コーちゃんの心の中で、ずっと生き続けるのよ」
カホちゃんの声が聞こえる。ぼくの中から、ぼく自身の胸の奥から。でも、カホちゃんの姿は、もう見えない。いやだ。こんなの、ぼくは嬉しくなんかない。こんな結末、ぼくは望んでなんかない。
そこで、目が覚める。
目の前には、ベッドの足が見える。ぼくは、床に転がっている。寝ている間に落ちたのか。そして、未だに痛む額。触ると、少しコブになっていた。恐らく、ベッドの足でぶつけたのだろう。それでも目を覚まさなかったのは不思議だ。そこで目覚めていれば、まだ良かったのかもしれないのに。
「いやな夢だな……」
ぼくは呟く。ただただ、呟く。わけがわからない夢だったけれど、いやな夢であることは確かだ。消えてしまったあとの命がどうなるのか、その結末も最悪だったけれど。それにも増して問題だったのは、夢の中でぼく自身が、カホちゃんの死を受け入れてしまっていたということだ。
カホちゃんは、まだ死んでないのに。それに、今日は日曜日。カホちゃんが退院する日だ。余命僅かでも、ちゃんと生きている。そんな人に対し、失礼極まりない。
「サイテーだ……」
本当に、最低だ。額に手を当てながら、苦しみを振り払うように、首を振りながら。心が、ほろほろと崩れていくのを感じている。カホちゃんの命を、まだ諦めたくないのに。そのつもりだったのに。
けれど、ぼくには何もできない。諦めるより致し方ない。そのことを、心の奥底で認めてしまっている自分自身に、腹が立って。どうしようもなく、許せなくて。
ぼくはもう一度、ベッドの足の角に額を打ち付ける。今度は、自分の意志で。