#4
「あらコーちゃん。学校お疲れ様!」
翌日、授業が終わって病院へ直行したぼくに、カホちゃんはいつも通りの元気そうな笑顔を見せてくれた。来るまでに、いったいカホちゃんはどんな様子なんだろう、もしも酷くやつれて、太陽の光を浴びせられたヴァンパイアみたいにミイラのような顔になっていたらどうしようか、と心配していたのが馬鹿みたいに思えるほどに。
そのときベッドの手前側には、伯父さんが折りたたみ椅子に座っていた。ぼくが来ると、「やぁコウヘイ君」と言って、自分の隣にぼくが座る用の折りたたみ椅子を出してくれた。カホちゃんの顔に近い位置だ。
またベッドの向こう側に座っていた伯母さんは、その時ちょうど林檎を剥いていて、ぼくにも三欠片ほど「どうぞ食べて」と言って出してくれた。蜜入りの、甘く新鮮でシャキシャキした林檎だった。
「カホちゃん、体大丈夫なの?」
椅子に腰掛け、林檎を一欠片だけ食べて尋ねると、枕を二段重ねにして上体を少し起こすような姿勢になっていたカホちゃんは、笑って、
「うん、明後日、日曜日には退院できるって」
と元気良く答えた。それに対してぼくは、嬉しいというよりも、可笑しい、という気持ちを強く感じてしまった。やっぱりカホちゃんは、病気なんかしない、たとえ一度倒れても直ぐに回復する、ヴァンパイアなのかもしれないと思った。そしてやはり、ぼくが昨晩感じた心配は、杞憂だったのだと。
しかしその日の帰り、伯父さんが「送っていくよ」と言って、車を出してくれたとき。助手席に座って見た伯父さんの表情は、カホちゃんが元気になったにしては、硬く、険しいものだった。いつもは陽気でお喋り好きの伯父さんが、どうしたんだろう。車の中、長い沈黙が続いていた。
天気はどんよりとした曇り空だった。遠くの方の空では、ゴロゴロという雷鳴が響いていた。そんな空の下では、国道を行く車の列も、何やら冷たい表情を投げかけながら走っているように見えるから不思議だった。
「コウヘイ君、ちょっとよく聞いて欲しいんだけれど」
信号が待ちで止まった交差点で、伯父さんはようやく決心が着いたように、ぼくにこう告げた。
「……カホコのやつ、今日あんなに元気そうに振舞っていたけど……実はその、今あいつ、癌に侵されているようなんだ」
耳を疑う、とはこのことだった。「癌……ですか」一度確認してみて、伯父さんが頷くのを見たが、それは改めてぼく自身をただ愕然とさせるだけの、余計な行為でしかなかった。
テレビのドキュメンタリー番組の再現映像や、医療系のドラマなんかで今まで飽きるほど見せられてきたお決まりのシチュエーション。
そこに実際立たされてみて、表面上ぼくは、ほんとにそれらと同じような反応しかできなかったわけだけれど、内面では、とてつもない衝撃を受けていた。
それは鉛の玉が上からストンと落ちてきて、下にあったぼくの心臓を押しつぶしてしまったように、初めはガツンと響き、そしてその後は、じわじわと広がっていったのだった。
「そのこと……カホちゃんは?」
訊くと、伯父さんは苦い顔をしながら、
「カホコ本人から聞いたんだよ。ほら……最近じゃ癌の告知は、家族よりも先に、本人にするもんなんだって」
じゃあ、明後日退院できるって話は……?ぼくが疑問を口にする前に、伯父さんは答えてくれた。カホちゃんは、癌の、それも末期症状に侵されているということだった。残念ながら回復する見込みは無く、余命あと僅か二ヶ月しかないのだという。
そこで、延命治療か、それとも放置か、という話に進んだのだが、カホちゃんは迷いなく、後者を選んでしまったというのだった。
「だって、延命治療やったって、どうせ治るわけじゃないんでしょ?だったらあたし、何もせず、いつも通りの自然なままで命を全うしたいわ」
あんたねぇ、何を言ってるのよ。そうだ、最後まで頑張ってみないと、わからないじゃないか。今日の昼頃、伯父さんと伯母さんはカホちゃんの台詞に対してそう反対したが、カホちゃんは全くもって、聞く耳を持たなかったらしい。
ぼくも延命治療の辛さというのは、テレビのドキュメンタリー等で色々見たことがある。カホちゃんだったら、それを嫌がるに違いないとはぼくも思ったけれど、やはり伯父さんとしては、まだ何とかカホちゃんを説得して欲しいようであった。
「コウヘイ君からも、何とか言ってやってくれよ」
そう言われて、しかしぼくはただ戸惑うような表情しかできなかった。いったい、ぼくに何が言えるというのだろうか。カホちゃんが癌であるという事実を聞いただけでも、何も考えられなくなっているようなこのぼくが。
翌日の土曜日は、朝からお見舞いに行った。昨日伯父さんから告白されたことを、一晩悩んでみたけれど、結局何も思いつかないまま。兎に角、カホちゃんの顔が見たかった。余命あと二ヶ月というなら尚更、少しでも長くカホちゃんの傍に付いていてあげたかった。
「おぉ、来た来た。コウヘイ君、暫くカホコと二人でいてくれないか。伯父さんたち、ちょっと用事があるから」
病室に入ったとき、伯父さんと伯母さんは、ぼくが来るのを待ちわびていたようだった。ぼくがカホちゃんのベッドまで寄ると、伯父さんたちは立ち上がって、「じゃあ宜しく」と言ってそそくさと病室から出て行ってしまった。
「ごめんね、コーちゃん。お父さんたち慌しくって」
カホちゃんはそう言ったが、伯父さんたちが出て行ったのは、明らかにぼくを気遣ってのことだとわかった。そういうのを、世間一般には「大きなお世話」と言うのだけれど。
ぼくはカホちゃんと二人きりになって、余計何も言えなくなった。ただカホちゃんの傍に腰掛けて、じっと下を見ているしかなかった。
「どうしたの? コーちゃん」
カホちゃんが尋ねる。どうしよう、不自然な態度を取ってしまっている。そう思って無理矢理顔を上げると、不安そうなカホちゃんの表情が目に入った。
「コーちゃん、ひょっとして……今日一緒に映画観に行けなくなったこと、怒ってる?」
「へっ?映画?」
多分そのとき、ぼくは変な表情になってしまったのだと思う。
「なんだ、違うの? ほら……マトリックス観に行こうっていってたじゃない。マトリックス……なんだっけ、リローデット?」
思い出した。ほんの数週間前、確かにカホちゃん、一度チラリと言っていたのだった。「キアヌ・リーヴス主演なんでしょ! 見たい!」と。
でもそのときぼくは、「マトリックスは続きものの映画だから、多分、前作見ないとわからないよ。それに、まだその後も続編あるって聞くし」と言って、断ったのではなかったか。しかしながらカホちゃんの中では、勝手に約束は締結されていたようだ。ハリウッド・スターに目が無い、カホちゃんのことである。
「あぁ……見たかったな。ほんと、大会前、今日しか休み取れなかったのに」
そう言って溜め息を吐く様子を見て、それが本当に癌に侵されている患者の姿なのか、ぼくにはあまり信じられなかった。ぼくにとってそれは、患者衣を着ている以外は、普段どおりのカホちゃんの姿に見えた。
「練習……大変なんだ?」
と、ようやくぼくは、口を開くことができた。苦笑しながらカホちゃんは、「まぁ、楽な練習だったら、練習にならないもんね」と言った。
「でもね、ほんと今年は、みんな頑張ってるのよ。勿論、去年も、一昨年の生徒も一生懸命だったけど……今年はまた、一段とみんな燃えてくれているような、そんな気がするのね。今度こそ、支部大会の出場権が取れるんじゃないかって、そんな気がするの」
去年の演奏では、ウチの高校は県大会で金賞を取ったものの、残念ながら支部大会への出場権は獲得出来なかった。三年前までは、連続して出場している強豪校として名が通っていたのだが、一昨年と去年の間僅か二年のうちに、名はすっかり廃れてしまったように言われていたのだ。
吹奏楽は、そうした意味ではサッカーや野球などの体育系の部活よりも厳しいところがある。県内ベストエイトよりも、ベストツー内の「支部大会出場」という権利が獲得できないと、名声は維持できないのだ。三度目の正直という意味でも、今年の大会では負けるわけにはいかなかったのだ。
「けど、カホちゃん……そんな体で、指揮なんてできるの?」
カホちゃんは、不思議そうにぼくを見る。
「何言ってるの? あたしはもう元気よ、コーちゃん。明日には、退院できるし」
しかしそれでも良い表情が返せないぼくに対して、カホちゃんは気付いてしまったようだった。
「コーちゃん……知ってるのね、あたしが癌だってこと」
しまった、と思って自分を責めるしかなかったが、先に気付いてもらえなければ、結局ぼくは最後まで言い出せなかったに違いない。
「ごめん……カホちゃん。昨日、伯父さんに言われて……」
カホちゃんは、フウ、と溜め息を吐いて一瞬渋い顔になったけれど、すぐに笑みを作って、ぼくにキッパリと言った。「延命治療なら、受けるつもりないから」と。
「治療なんかしてたら、部活の練習、出来ないじゃない。折角一生懸命になってる生徒たちを裏切るようなこと、あたし、したくないの」
「そ、そんなこと言ったって……あと、二ヶ月なんでしょ?あと、たった二ヶ月の命なんだよ、カホちゃん!?」
「……あと二カ月なら、支部大会までは出れるじゃない」
いや、そういうことじゃなくて……そう言いかけたけれど、カホちゃんはまた一瞬ぼくに笑いかけて、こう続けた。
「それにね、コーちゃん。あと二ヶ月だからこそ、あたしは指揮することを選ぶの。あと二ヶ月だからこそ、あたしは自分の残りの人生を、あたしの大切な生徒たちのために捧げたいのよ」
そのときのカホちゃんの目は今まで見たこと無いくらい真剣で、本当に大人の目をしていた。そんな真剣なカホちゃんに対して、ぼくがかけられる言葉は何もある筈が無かった。
ぼくは高校に上がる前からも、何度もカホちゃんの指揮を見てきた。小学生、中学生のころの夏休みから、ホールを借りての練習があるときは、一日中カホちゃんと、その楽団とともに過ごした。
だからぼくは、カホちゃんがいつもどんな風に指揮をするのか、またそこにどんな思いが込められているのか、実際に演奏している吹奏楽部員よりも、強く理解できている自信があった。
カホちゃんは、演奏者一人一人のことを理解し、愛した。時には勿論、厳しい言葉を投げかけることもあったが、決して見放すことはなかった。付いてこれない生徒が一人でもいれば、その生徒が付いてこれるようになるまで、何度も指導してあげる優しさを示した。
カホちゃんは、音楽とはそういうものであることを知っていたのだ。一人も欠けてはならない。最初に集まった全ての生徒で作り上げ、一人一人が喜びや、楽しみ、そして感動を分かち合えるものこそが音楽であると。
いつもカホちゃんのことを外から見ていたから、ぼくは知っていたのだ。「コーちゃんも吹奏楽部に入らない?」カホちゃんから一度そう誘われたこともあったけれど、ぼくはお客さんとして、見守る側に居続けた。
だって、先生としてカホちゃんを見るよりも、指揮者として見る方が、ぼくは好きだったから。指揮をしているカホちゃんが一番楽しそうで、それを見ていると、ぼくも沢山の元気を貰えたのだった。
カホちゃんの気持ちや、今までのぼくの思い出からは、やはりぼくは延命治療を勧めることはできなかった。勿論、伯父さんと伯母さんの思いも、考えられないわけではない。ひとり娘を、孫の姿や花嫁姿も見ぬまま失ってしまうことになるのだ。そこには哀しさも、悔しさも、様々な思いが入り乱れているだろう。
カホちゃんは手を伸ばすと、「心配しないで」と言い、ぼくの膝を軽くポンポンと叩く。
ぼくはただ、うつむきながら、「うん」と答える。
心配しないでなんて言われても、正直、無理な話だったけれど。その無理な話を、ぼくは押さえつけるように、胸の奥に仕舞い込んだのだった。ぼくもカホちゃんのことを、これからも応援したかった。治療を受けず、最後まで指揮者をやり通すというカホちゃんのことを。
しかしその晩も、家に帰ってぼくは、前の晩と同じく、体から何かが抜けたような状態で過ごすことになるのだ。
夕食を、普段の倍以上の時間をかけてダラダラ食べ終える。自室にこもり、何を観るというつもりもなく、十四インチのブラウン管テレビを点ける。リモコンを持ち、ベッドの上でゴロゴロと寝っころがりながら、ザッピングを始める。
殆どのチャンネルはCMを流し、残る僅かなチャンネルでは、天気予報やニュースを流していた。ニュースは相変わらずイラクの荒んだ光景を写していて、とても見る気にはなれない。もう少し待てば九時からの番組が始まるというところだったが、いったい土曜の夜九時にどんな番組があったのか、思い出せはしなかった。
諦めてテレビを消し、リモコンも投げ捨て、仰向けになる。天井が、いつもよりなんとなく高く感じた。結局、親から風呂に呼ばれるまで、ぼくは目的ある行動を一切何もしないまま過ごしたのだった。
風呂に向かう直前、ふと時計の針が一〇時五分ほどを指しているのを見てようやく、毎週楽しみに見ていたコメディドラマを見逃していることに気付いた。だが、それに気付いても悔しいという思いはあまり湧かなかった。
テレビなんて、所詮は刹那的な娯楽でしかない。それは、ぼくの心を何も癒してはくれない。番組が終われば、また最初のような絶望に逆戻りするだけだ。
カホちゃんの思いを理解しつつも、ぼくの心の中では、まだカホちゃんの選択を否定しているような部分が残っていた。それはまるで、ぼく自身が二つに分離されてしまったような、奇妙な心境だった。片方ではカホちゃんに賛成し、もう片方ではカホちゃんに反対していた。
しかしその、反対する部分がある理由というのが、ぼくにはいまひとつ理解できなかったのだ。それはただの、ワガママとも言うべきものだったろうか。いったい、何に対する? 理屈で考えても、さっぱり答えは出なかった。