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#3

【二〇〇三年六月】


 カホちゃんが初めての失神を起こしたのは、六月のある木曜日のことだった。

 吹奏楽コンクールの県大会直前で、練習も凄く忙しい時期。合奏中、指揮棒を振っている最中に、カホちゃんは倒れたのだ。

 そのときぼくは、美術部室で油絵を描いている途中だった。上の階での合奏が突然鳴り止み、騒がしくなったので、パレットをその場に置き、手も油まみれのまま慌てて音楽室まで駆け付けたのを覚えている。

 今思えば、どうしてそれでカホちゃんの身に何かあったんだと悟ることができたのか、不思議でならない。きっと第六感的な何かが働いていたのだろう。

「コウモリ先生、しっかりしてください!」

 教室に入るや否や、そう誰かが叫ぶのが聞こえ、一番前の席のフルートパートや、クラリネットパートの子たちが、必死になってカホちゃんを起こそうとしているのが見えた。

「すぐに救急車を呼んで」

 そのときぼくは、先に予感があったお陰か、凄く冷静に振舞うことができた。合奏の席の後ろの方で何をしていいかわからずにおろおろしているトロンボーン奏者の男子生徒にそう指示し、部員の群れをかきわけて、カホちゃんのもとへ辿り着いた。

「先生、大丈夫ですからね。直ぐに救急車が来ますからね」

 周りの生徒たちを意識しながら、そんな丁寧口調でカホちゃんに声をかけることもできた。しかしカホちゃんの方は、全然余裕なんか無くて、僅かに残っている意識で、生徒たちの前なのに恥ずかしがらず、

「コーちゃん」

 ぼくのことをそう呼んだ。

 カホちゃんと一緒に救急車へ乗り、病院まで向かった。診察室にカホちゃんが運ばれていくのを見送った後、廊下の長い椅子に座って、随分長いこと待ったような気がする。

 一体何が起こったのか、そのときには全くわからなかったのだけれど、また何かの予感がしていたのか、そのときぼくは、アーネスト・ヘミングウェイの『武器よさらば』の終盤シーンを思い浮かべていた。ぼくもフレデリック・ヘンリーのように、カホちゃんが回復するのを待っている間、どこかへ食事でも出かけるべきか、そう思った。

 ただ、お金なんか持っていなくて、未成年であるぼくには、二皿のハム・エッグはコンビニの100円おにぎり二つに変わり、半リットル入り白ビールは200ミリリットル紙パック入りのお茶に変わってしまったのだけれど。

 その場には、ぼくひとりがいたわけではない。コウモリ先生を心配した吹奏楽部員の女子生徒の何名かも、自転車で病院まで駆けつけ、ぼくと同じ長椅子に座り、黙って待っていたのだった。

 そのとき、ぼくと彼女たちは一切会話をしなかった。そういう雰囲気ではなかった。彼女らは、カホちゃんの安否だけでなく、目の前に迫ったコンクールのことも考えなければならなかった。一方ぼくは、カホちゃんのことだけを考えればよかった。

 でも待ってる横で、おにぎりなんかをはぐはぐ食べながら、不謹慎だという風な目で見られていたのは、ぼくの方だった。そんな不謹慎なぼくが、

「カホコさんの身内の方ですか」

 お医者さんからそういう風に一人だけで呼ばれ、慌てて口の中のおにぎりをお茶で流し込みながら「はい」と答えて立ち上がったとき。吹奏楽部の彼女たちは、きっとぼくのことを、敵意ある目で見ただろう。

 勿論こちらにはそんな筋合いはないけれど、そういうのは人間にとって、不可解だけれど、よくある心理の一つである。

 私たちはこうして先生が心配で駆けつけたのに、何で親戚のあんたがそんなに冷静なの。許せない。別にそういう風に思ってくれても、ぼくは構わなかった。ぼくという存在を敵と見なすことで、彼女たちの気が紛れるなら。

「取り敢えず今、お姉さまはある程度まで落ち着かれました」

 安らかな表情で眠っているカホちゃんの前でお医者さんからそう言われ、ぼくは一度ほっとした。カホちゃんは姉ではありません、ぼくの従姉です、そんな訂正をすることも忘れるくらいに。しかし、「取り敢えず今」や、「ある程度まで」という言葉に含まれる微妙なニュアンスが、多少気になりもした。

 そしてその不信感は、あとから医者が、「今晩は絶対安静です」とか、「まだ検査してみないことには」などといった説明をする度に、段々と膨らんでいった。

 お医者さんはそのとき、明らかに何かを隠していた。それが何なのか、無知なぼくには想像できなかったし、また、したいとも思わなかった。「取り敢えず」、今は無事だと言うお医者さんの言葉を信じるしかなかった。

 時刻は夜中の九時ぐらいを回っていた。ぼくは吹奏楽部の生徒たちを、先に帰らせることにした。

「きみたち、今晩は大丈夫だって」

 その言葉は少なくとも嘘ではなかった。ぼくが感じた不安も、診察室から出た直後、一度洗面所へ行って顔からサッパリ洗い流してきた筈だった。

 けれど、彼女たちは皆、戸惑ったような表情のまま帰っていった。ぼくに対する不信感もあったのかもしれないけれど、何よりも、やはり明日以降の練習がどうなるかが不安だったのだろう。

 また或いは、カホちゃんの顔が見れないまま帰らされることについての不満もあったのかもしれない。一応ぼくだけはカホちゃんの穏やかな顔を確認したけれど、意識はまだ戻っていないようだったし、それで本当に無事だと言えるのか。ひょっとしたらもう既に、カホちゃんは虫の息なのかもしれない。

 一〇時ごろ、温泉旅行の途中に知らせを受けて、慌てて帰ってきた伯父さんと伯母さんが病院に着いた。

「コウヘイ君、ありがとう。ほら、もう帰りなさい、明日も学校でしょう」

 ぼくは、カホちゃんと共に病院に一泊し、翌日は学校を休むつもりだったけれど、その直後にぼくの両親もやって来たので、半ばムリヤリ連れて帰らされた。

 帰り際、ナースステーション付近にある談話室のソファに腰掛け、ひとり新聞を読んでいる老患者を見かけた。一度立ち止まって覗き見ると、ページは国際欄で、バグダッドでまた何か事件があったらしいことが書かれていた。

 その日バグダッド国際空港近くで米軍の車両に爆弾攻撃があり、米兵一人が重傷を負っていたらしい。また、郊外でもCPA(イラク暫定統治機構)の車両が攻撃を受け、イラク人一人が死亡していた。三月に始まり、五月の初頭に終結宣言が出された筈のイラク戦争は、現実にはまだ続いていたのだ。

 しかし、それらを憂いている余裕はぼくにはなかった。日本から遠く離れた世界で起きている戦争なんて、ぼくの気を紛らわすための敵にはなってくれなかった。

 父親が「コウヘイ」とぼく呼んだとき、老患者もぼくに気付いたようだった。彼はぼくと一度目を合わせてから新聞を畳むと、立ち上がって軽く会釈し、病室へと帰っていった。

 いつ出られるかわからない、あちら側の世界へ消えていったのだ。直にぼくも、それとは反対側の、外の世界に帰らねばならなかった。大切な人を、あちら側に残したままで。

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