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#1

【二〇〇三年九月】


 何もない空を見ていた。雲ひとつなく、カラリと晴れた、九月の始まりの空をながめていた。

 せみの鳴き声はまだ聞こえていたけれど、夏はもう立ち去る支度したくを終え、よっこいしょと、まるで年老いた旅人のように、重い腰を持ち上げていた。そして、ここではないどこか遠い世界へと続く道に、一歩、また一歩と足を進め始めていたのだ。

 やがて彼が去った道の上に、蝉のむくろがぽとり、ぽとりと落ちてゆくだろう。それは一見、悲劇の幕開けのような印象だが、実際は木の葉が落ちるのとなんら変わることのない、素朴ではかなき自然の営みである。

「なにしてんですか、そんなとこで」

 地上から声が聞こえた。ぼくが仰向あおむけに寝転んでいる滑り台のてっぺんから、首を動かして下を見ると、ナツキが立っていた。右手にクラリネットのバッグを持ち、左の腋に譜面を貼った大きなスケッチブックを抱えて。

「よぉ」

 ぼくは、頭の下に組んでいた手の片方を挙げて、彼女に挨拶した。

「ブカツ、もう終わったのか」

「はい、今日は個人練習だけだったから」

 そう言って、ナツキは笑う。旅立つ夏が唯一置き忘れてしまったもの、遅咲きの向日葵ひまわりのような笑顔だった。

「ねぇ、なにしてるんですか、そこで」

 ナツキは、最初の質問を繰り返した。あぁ、再び両手を頭の後ろに手を組みながら、ぼくは少し考え、こう答えた。

「夏に、お別れしてた」

 ぷっ、なんですかそれ。ナツキは笑う。釣られてぼくも、笑うところだった。いや、笑ったらよかったのだ。もしも今のぼくに、何もかもを忘れ、素直に笑える力が残っていたのなら。

 ふと、そのときぼくの視界を、黒くて小さい何かが横切った。

「あ、蝙蝠こうもり

 直感的に、ぼくはそれと気づいた。それを聞いたナツキは、急に驚いたような声をあげた。

「えっ、うそ。コウモリ!?」

 蝙蝠は、パタパタとぼくの周りを飛んでいた。別に、慌てるほどのことではない。街中でもごく普通に飛来しているイエコウモリというやつだ。若干、起きる時間が早い気はするけど。

「センパイ、逃げてっ! 血ぃ吸われますよっ」

 何も知らないナツキが言う。西洋文化から勝手に刷り込まれた、偏見というやつだ。

「この蝙蝠は血なんか吸わないよ。虫を食べるだけさ」

 蝙蝠はパタパタと何度かぼくの上を旋廻したあと、公園の外を流れる川をわたった。そして夕暮れが始まろうとする空へと、遠く、遠く飛び立っていった。蝙蝠は飛んでゆく。ぼくの元から離れ、蝙蝠は飛んでゆく。

 その小さな影を目で追いながら、ぼくはふと、先日図書館で読んだ与謝野晶子の歌集『佐保姫』にある句の一つを思い出した。



夕風や すすのやうなる 生きものの かはほり飛べる 東大寺かな



「かはほり」とは蝙蝠を指すが、与謝野晶子がこの句を詠んだのと同じように、今ぼくの目にも、この黒く小さい生き物はススのように見えていた。何かが燃えたあとの、残りかすのようなものに……それは、空へと溶けて無くなってしまったのだ。

 と、そう思うと、また激しい波がぼくの心に打ち寄せてくるような気がした。夏の終わりの海が、ひどく時化しけるときと同じように。そして急にこぼれそうになる涙を、ぼくはぎゅっと目を閉じることで、なんとか堪えようとした。

 もう、忘れるべきなのだ。何もかも忘れてしまえば、心は乱されることもないというのに。しかし、ぽっかりと晴れ渡った空を見るだけで、思い出されるこの哀しみよ。おまえはいつまでぼくを苦しめ続けるんだ。

 あいた穴を塞ぐ力は、もうぼくの心には残されていなかった。蝙蝠が飛び去ってしまった何も無い空と同じように、深く穿たれたぼくの心の空洞ホールには、ただただ隙間風が通り抜けるほか、何もなかった。

 そして風が通るたびに、かさぶたもできない心の傷口が、未だにびりびりと激しい痛みを起こすのだった。

「センパイ、どうしたんですか。センパイ?」

 下の方からナツキが、また声をかけてきた。ぼくはそれに「なんでもねぇよ」と答えて、彼女がいるのとは逆のほうに寝返りを打った。それは、おれに構うな、という意思表示でもあった。

 今は、そっとしておいてほしかった。失ってしまったものの残像と共に、誰にも構われること無く、ぼくだけひとりにしておいてほしかったのだ。

 現実にも、冷たい風が目を閉じたぼくの頬を打った。それは、これから後に控える季節が、これまでより一層厳しくなることを伝えているように、ぼくには思えてならなかった。





 これは、ぼくが失ったものについての話である。物語は二〇〇三年六月から始まり、同じ年の九月で終わる。

 否、正確には、物語はぼくが生まれたときから始まり、まだ終わっていないのかもしれない。なぜならその失ったものは、ぼくが生まれたころから当たり前に存在していたもので、この物語を書いている二〇〇五年、そろそろ実家を離れようとする前の現時点で、その失ったものの代わりとなるものを、見つけ出せていないから。

 そもそも、代わりとなるものなんて、もうこの世には存在していないとすら思えるけれど。それなら、物語はずっと終わらない。ぼくが死ぬまで終わらない。

 どちらにしても、ぼくはこの物語をそれ以上長く語るつもりはない。少なくとも、今のところはまだ。

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