龍の青年(1)
青年――シンは獣と化した行商を見据えて、距離を詰めた。少年に気を取られていて、向こうはこちらに気付いていないらしい。後ろからバクが声を張る。
「シンさん! あれは」
「ああ、『獣堕』だ。あの行商に獣が憑いたか。祓えば戻るだろう」
シンは駆けだす。見れば、少年はもう広場の隅、近くの家の壁際まで追いやられている。獣堕は、人の体を元にしているとはいえ、襲われれば怪我どころの騒ぎではない。獣堕がその鋭い爪を振りかざした時、シンは少年と獣堕の間に割って入った。
「怪我は無いか、小僧!」
訊ねて、僅かに視線を後ろにやる。少年は真っ赤になった腕を押さえて応えるが、その目は別のものに奪われていた。
「ある、あるけど……お兄さん、その腕って」
袖の先から出ている、獣堕の攻撃を防ぐシンの腕は、人のものの格好をしていなかった。形こそ人に似てはいるが、鷹のような爪、腕を覆う魚や蛇のような鱗。鱗は、額の布と同じく、日に照らされて孔雀藍に輝く。
「龍……?」
後ろの声をあとにして、シンはその腕で獣堕の体を掴み、投げた。石畳の上を滑るその身体を追い、体勢を立て直す前に懐まで詰める。
「元あるべき姿に戻れ」
短い呪を呟いて、竜でない方の手を当てて、押し込むように獣堕の体を突く。確かな手ごたえを感じて、シンは腕を引いた。辺りには断末魔のような獣の咆哮が響き、獣堕だった行商の体から、暗い霧が抜けて行く。次第に、その姿は元の行商のものに戻り、遠巻きに見ていた群衆から、歓声と安堵の混じった声が漏れる。
バクが少年のもとに駆け寄り、上着を裂いてその腕の傷をきつく締めた。血はいずれ止まろうが、ここでの手当はそれくらいだろう。それを手早く済ませると、バクは少年をそこに留め、こちらへ駆け寄る。
「シンさん、彼は」
「酷く打ったつもりはないから、気絶しているだけだと思うが……」
行商の横にしゃがみ込んだバクはその身体に触れる。その手は微かに光輝を発したが、見えたのはシンだけだろう。苦悶に満ちた行商の表情が和らぎ、寝起きのように呻く。
「これで大丈夫。心を病むことはないでしょう」
バクはそう言って、柔らかく笑んだ。やはり、この男は昔のままだ、変わりない。それを見て、シンはまだ遠巻きに見ている人々に向かって声を張る。
「誰か手伝ってくれないか! この御仁をどこかで休ませてやってくれ」
駆け寄って来たのは、行商仲間だろうか。引き受ける、と申し出たから、シンは彼らに行商を預け、バクと共に少年のところに戻った。少年はこちらが歩み寄るのをまたずに、駆け寄って来る。見やると視線が合う。その目にあるのは、憧れか。
「お兄さん!」
歓喜そのものの顔で少年はこちらを見あげた。その目は先ほどの恐怖も痛みもすっかり忘れたようで、忙しくこちらの全身を眺めまわして言う。
「ありがとう、助けてくれて。それより、お兄さん、獣人だよね! 話が聞きたい!」
矢のように問いが飛び出しそうだったが、それを先にバクが制する。
「いいえ、ファン。それは家に戻ってからにしましょう。手当と……お説教が先です」
血のにじむ腕に構わず、飛び跳ねんばかりだった少年を、バクはたしなめた。思い出して苦い顔をした少年に凄味のある笑みで応えて、バクはこちらを向いた。
「シンさん、宿はどこへ?」
「いや、まだ決めていない。探している途中でな」
「なら、私のところに泊まって行ってください。部屋もありますし、色々話もありましょう」
是非、と言うバクにシンは頷く。それを聞いて、横の少年も目を輝かせる。断る理由もないし、話があるのはおそらく向こうの方だろう。
「頼もう」
少年が喜ぶのに苦笑し、シンは案内を始めたバクについて行く。
広場から小路へ入ると、町の雰囲気は一変する。旅客向けの店が並ぶ大通りとは違い、小路は住居や、そこにすむ人間に向けた日用品店、小さな医院が建ち並んでいる。医者が多いのは、国柄ゆえだ。
東王が統治する東の、青の国は春を司る国だ。穏やかな気候に、広がる山林は薬種に富んでいるから、それらを使う術が進んで、医者や薬屋が多い。命の始まりと終わりを司る東の国は、青い風が吹く木行の国だ。
すぐに着いたバクの家も、医者の証である蛇の看板が立っていた。戸の上のそれを見あげていると、それに気付いたバクが面映ゆげに微笑む。
「大したものではありません。相談役のようなものです」
その言葉は、それの主がシンの記憶の通りであるのなら、謙遜が過ぎるというものだ。