黒緑の石
屋敷を出ようとファンの方を向くと、ファンは眉根を寄せて、主人の腕を凝視していた。シンもあらためて主人の腕に目をやると、指の周りだけ、まだうっすらと紫がかった斑が残っていた。
「師匠」
ファンが小さく呟く。本当に、よく見ていると思う。シンは頷き、口を開いた。
「ならば、我々はこれでおいとまする」
「おお、もう行かれるのか。ならば、こちらをお納めいただこう」
従者の男が盆の上の布を払うと、そこには金の一枚板がつややかに収まっている。礼金としては相場を外れた金額だ。どうぞ、とすすめて来る従者を止め、シンはそれを辞する。
「南王陛下の命に従っているまで。受け取れないのだ」
困ったように笑んで見せた横から、ファンが唐突に口を挟む。
「もし差し支えなければ、旦那様! あなた様のその黒緑色の指輪、それを頂戴したく思います」
「こら、ファン!」
口で叱ってはみても、元よりシンも言おうと思っていたところ、よくやったと頬が緩みそうになる。
「何、この指輪か」
怪訝そうな顔をした主人にファンは愛想よく笑む。
「不思議な色をした石だと思いまして、国の父に持ち帰りたくなったのです。旦那様によくお似合いなので、心苦しく思うのですが……」
「大変申し訳ない。弟子が過ぎたことを」
しおらしげに肩を落とすファンを見た主人は、しばらく考えこんだ後、にっこりとほほ笑んだ。こういう時に、ファンの少年らしさは大人の好意を寄せるに向いている、と思う。主人は指輪をはずし、ファンの手に握らせた。
「正直で孝行の子だ、やはり子供は無垢なのがいい」
ありがとうございます、とファンは頭を下げる。持っていた白布にそれをしっかりと包むと、ファンは再び、シンの後ろに下がった。下がる時の顔に冷や汗が浮かんでいたのをみて、シンは頷いた。後でちゃんと褒めてやらなくては。何より、握らされた手を診てやらねばなるまい。
「礼金を要らぬと言っておきながら申し訳ない。体には重々気をつけられるよう」
「南王陛下によろしくお伝えいただこう」
主人の声を後に、シンは頭を下げると、ファンを連れてすぐ屋敷を出た。屋敷が見えなくなる辺りで、シンはファンの方を振り返る。
「よくやった! ファン。手を見せてみろ、あの指輪に触れただろう」
ファンは石の触れた手をこちらに差し出す。僅かに赤斑が浮かんでいたのを見て、シンは急いで腕を龍化させ、かざす。
「触れていた時間が短い、おそらくこれで大丈夫なはずだ」
ファンは大きく息をつく。かなり気を張っていたようで、膝の力まで抜けそうになっているのがわかる。ファンは懐に収めていた包みを解いて、石を取りだす。石はどこまでも黒く艶のある石で、光の加減で緑色に光る。
「やっぱりこの石なんでしょうか」
「たぶんな」
ファンから石を預かり、シンは荷物の中にそれを治めた。
「宝飾品か。道理でこの街で広がる」
南王より預かった地図を広げ、今の家の位置に印をつける。数は多いが、日が暮れる頃には回れるだろうか。シンは顔をあげ、街の空気に意識をやる。宝飾品だけ、と仮定するならば、地図上の印が富裕層に集中しているのはわかる。が、先ほどの石の瘴気と街に漂う空気をみれば、どうもそれだけには思えないのだ。
「ファン。この地図にある患者は俺がひとりで回ろう。お前には、この街の全体を見て回ってきてほしい」
「患者と、あの黒い石を探せばいいんですね」
ファンは動き回れるようにと、僅かばかりの荷物をすべて背負い込んだ。髪に挿した赤い羽根が揺れる。楽しそうにすら見える。
「あぁ、肌に触れるようなものをよく見て回って欲しい。日没までに城に戻って、そこで話を聞かせてくれ。あと、それと――」
「無理はするな、ですよね。師匠!」
わかってます、とファンは続けて、確かに頷いて見せた。
「なら、また城でだ。お前が持ってる路銀は使っていい」
既に駆けだしているファンに届くよう、そう声を張る。その姿が小さくなってから、シンも再び地図を開いた。さて、調子よく回らねば、日没までには終わるまい。少し急ぐとしよう。