異変
その少し前。少年――ファンは転がって行った果物を、上着の前を袋の代わりに集めて回っていた。かなり隅にまで転がっていて、雑踏の中を探すのはなかなか大変だ。それでも、自分が掛けた迷惑に比べれば、これは随分とやさしい。もし、もう誰かに拾われていたら、買ったかどうか判断がつかない。急ごう。
怪我は、と問うた先生の顔。悲しげで切なそうで、それは怒鳴られるよりずっと堪えた。もちろん怒ってはいるだろう。でも、自分がこうやって騒ぎを起こす理由を先生は知っている。知っているから、思い切り叱ったりしないのだ。
これが初めてでないし、もう何度も反省した。自分でも嫌気がさしているけれども、それでも、繰り返してしまう。確かめずにはいられなくなるが、確かめたところでどうにもならない。有か無かわかったところで、その先には何もない。
――自分には素養が無い。でも、それを認めてしまったら、やはりその先には何も残っていないのだろう。抵抗してみせなければ。笑われてでもいい、抵抗していなければ憐れまれるだけだ。憐れみほど、辛いことはないのだから。
世の中には獣人と呼ばれる人達がいる。解りやすいのが、四方の王だ。王は四獣と心を通わし、その力を得て尊い治を行う。また、王のように何かの動物と心を通わし、その獣性を得ればやはり大きな力となる。獣人の多くが国の重職についているのは、善き人でなければ、獣人になれないからだ。獣人たることが善なる魂を持つことの証明であって、だからこそ、獣人は尊敬を集め、彼らは人々の為に良い世を作る。
ファンもそうなりたかった。バクから教わった通りなら、人には誰しも獣人となる素養があるはずだ。御柱の天社の、その分祀はこの町にもあって、人々はそこで自らの素養を知る。けれども、普通ならとうにその素養が定まる歳になっても、自分の素養は知れなかった。天社にならぶ自分より幼い子の目、町の人の噂。それが辛くて、聞いた方法ならどれも試した。素養の欠片でも見つかれば、と危ないことから何もかも。結果はこの通りだ。獣人にならない人は多いが、素養のない人など聞いたためしがない。どこか暗いところに閉じ込められたようで、悔しくて、苦しくてたまらなかった。
全ての果物を拾い上げ、ファンは顔を上げた。見ると、先生は広場の隅の方で誰かと話していた。背の高い若い男の人だ、帯刀している。先生は驚いた顔をしていた、知り合いなのだろうか。
ともあれ、果物を上着の裾にくるんで、行商のもとに戻る。入口の籠に果物をうつし、そちらに向かって声をかける。行商は天幕の奥で、しゃがみ込んでいた。
「おじさん、全部拾ってきたよ。散らかしてしまって、ごめんなさい」
が、行商は振り向きもせず、店の隅に向かってしゃがみ込んでいた。聞こえなかったのだろうか。いや、本当は怒っているのかもしれない。申し訳なくなって、もう一度謝る。それでも、行商は返事もなかった。もしかしたら、具合が悪いのか。奇妙に思ったファンは、行商に近寄り、肩を叩こうと手を伸ばした。
「痛っ!」
突然の鋭い痛みに、ファンは出した手を引っ込めた。腕には赤い線が数本、獣の爪痕のように奔っている。昔、外で獣に襲われたときのような傷だ。見ているうちに線はじんわりと滲んで、血が流れ出した。痛みと同時に、心臓が早鐘のように鳴りだした。反対の腕で傷を押さえながら、行商を見やる。獣のような低い唸りと共に、振り返ったその目は既に正気のものではない。行商は獣のように四足で地を掴み、その身体はだんだんと、より動物じみて変化し始めた。ファンはじりじりと数歩下がる。本当はすぐにでも逃げ出したかったが、目を離せば跳びかかられそうで、逸らせなかったのだ。
唸り声はまさに獣になり、剥き出しになった歯は鋭さを増す。少しずつ下がる足元に何かぶつかる。籠だ。躓いた拍子に、その上を行商の腕が通り過ぎていった。もう、躊躇っている場合ではない。
ファンは声の限りに叫びながら、果物籠を押し倒して、外に飛び出した。あれは、獣人なのだろうか。ふとそう思ったが、それもすぐに恐怖と焦りの中に消えて行った。