火托
話が決まると、南王は王宮内に部屋を用意してくれた。宿屋に連絡してくれたらしく、荷物はすでに部屋に運び込まれていた。シンは病人のいる場所と状態について、南王と朱明にさらに話を聞いているようだった。ファンは部屋について、ぐっと伸びをした。師と王の話はまだ時間がかかるように思えた。一人で獣化できるだろうか。一人でできるようになりたい。そうすれば、旅においても獣に追われて師の手を煩わせることもないし、また戻ってきた悪夢の残滓に怯えずに済むと思うのだ。誰のともわからぬ悲鳴で目を覚まさずに済むだろう。
本来、獣化は練習してできるようになるものではないそうだ。獣堕なら、気がつけば獣化しているし、化生の者は息をするのと同じように獣化できる。昇化の者も、四方の王に会い、再び自分の生国の王に見えた時、自ずと獣化できるようになるのだそうだ。だから、シンは獣化の仕方は教えにくいのだと言った。ファン自身なるほどそうだと思ったし、何よりわが師は龍になるのを戻ると言わねばならぬひとなのだから。
息を整えて、その場で楽な姿勢を取る。目を閉じ、なるべく心を清閑に保つ。そして、シンに言われたことを頭の中で復唱した。体に残った青龍の気。今はただこの体の中で揺蕩っているそれが、隅々まで行きわたり、緩やかに回り、だが徐々に加速していく心象を思い浮かべる。それが、体の外に溢れるように思ったとき、力は具現する。
窓が開いたのか、風が吹き込んだ感覚を覚えて、ファンはそっと目を空けた。
「できてる……!」
袖口の下から見える、青い鱗に覆われた腕と鋭い爪をもった指。どこまで龍化できているのだろう。急いで部屋の隅の姿見に走り寄る。自分の目には青く明かりがともったように見え、額の上には一対の角が揃っていた。腕はさっき見たとおり、足も龍化していて、駆けるのがすごく軽い。上着をめくると、腹は白い腹板が覆っていた。龍化した今は、シンが言っていた青龍の気というものがよくわかる。体の中を風が吹くように巡っている。
「なかなかうまくできたようだな」
「句芒が二人になったかと思えば、そういうことか」
声がして振り返ると、シンと朱明が満足気な顔をして立っていた。
「ほう、太極とはこういうものなのかの。王以外に神獣の力を得るとは」
朱明はこちらの姿を上から下から眺めると、関心深そうにため息をついた。ファンがようやく興奮からさめて一息つくと、その拍子に青い光が爆ぜてファンは元の姿に戻った。朱明はこちらの目をじっと見つめている。ファンがその瞳を見つめ返すと、赤い火がちらちらと燃えているのが見えた。
「ふむ、余はこういう者を初めてみたが、そうだの。ならば。……じっとしておれ、ファン少年」
朱明は細い腕を伸ばして、ファンの額に人差し指をつけた。朱明の指が触れた部分がぽっと熱くなり、目の前が明るくなる。小さな火がともったようだ。
「さて、どうか」
「えぇと、何がどうなって……」
尋ねようと口を開いたとたんに、額の火は大きく燃え広がってファンの全身を包んだ。驚きに悲鳴を上げて、火を消そうと体を叩く。
「ファン、落ち着け、大丈夫だ」
シンに腕を取られて、ファンは改めて体を見た。まだ火は残っているが熱くない。そして、ひと際火が強く、眩しく燃えた次の瞬間、ファンは姿見に映った自分の姿に瞠目した。
「ほう、出来るものだの。驚いたぞ」
姿見に映るのは、青から一転、背に大きな紅い翼を生やし、同じ色の羽毛に身を包んだ自分の姿だった。五色の尾と赤銅色の足は先ほど見た朱雀の姿によく似ていた。体の中を青い風の代わりに、真っ赤な火が駆けているように感じる。ファンは姿見からシンに目をやった。シンは呟くように言う。
「やはり、そうか。ファン、その状態で青龍の気は感じられるか?」
ファンは体の中に意識をやる。今全身を巡る火の気とは別に、静かではあるが青龍の気があるのを感じる。
「あります。……静かですけど。わっ」
再び火が全身を包み、それが消えると姿は元に戻っていた。今のは朱雀の力なのだろうか。静かになったが、二柱の神獣に力を分けて貰ったおかげだろうか、今は自分の体の中に青と赤、二色の力が揺蕩っているのがわかる。嬉しさというよりは純粋に感動を覚える。
「なるほど。朱明、どう思う」
「不思議だの。しかし、余はこういう例を知らぬ。御柱の者なら何かわかろうが」
二人の話をよそに、ファンは自分の掌を見つめる。結んで開いて、を繰り返していると、心の中にほっと安堵が湧いたのがわかった。表情にまで出ていたのかもしれない、シンが言う。
「素養が決まるまでの間は、その力がお前を守ってくれる」
「はい!」
これで夢の中のあの人も怯えずに済むだろうか。ファンは朱明の方を向いて、頭を下げる。
「ありがとうございます、朱雀様」
「ん? 朱明さん、でよいぞ? それに、面白い物を見せて貰った。礼を言われるまでもない」
朱明は少女のような笑みで笑った。そして、言う。
「ところで、余の力は強いぞ。ぬしにうまく使えるかの」
確かに。自分でもそう思う。第一、青龍の力もまだ、使える、という段階にないのだ。具現化できるようになった、というだけの話だ。
「あの、朱明さん」
「なんだ?」
「さっきのでも、かなり怖かったんですけど、その、火ってどうやったら慣れますか」
朱明は意外、といった顔をした後、真剣な顔で考え込んだ。
「どうやったらと言われても難しいの。余にとって火など周りの空気と同じなのだ」
そう言われればそうだ。シンが獣化を教えるのが難しい、といったのと同じこと。ならば、どうすればいいかは決まっている。それを代弁するかのように、シンが言う。
「慣れ、だ。練習はちゃんと見てやる、鍛練を続けないとな」
体の中に漂う二つの気を確かに感じつつ、ファンは確かに頷いた。