魔の者
生ぬるい風と、後ろから放たれた殺気にシンはすぐさま檮杌から飛び退いた。その横を大きな影と陰の気が通り抜ける。
「――今回のところは、引かせてもらいますよ、青龍」
頭上からの声に、シンは声の主を探した。翼のある黒い豹が、暴れる檮杌を掴み、こちらを見下ろしている。
「放しやがれ、窮奇!」
檮杌が吠える。それを無視しながら、窮奇と呼ばれたその黒豹は淡々と告げる。
「この借りはすぐにでも返しましょう。ただ、それまで太極は君に預けておくことにします」
「待て!」
追おうとしたシンの足元に、窮奇の羽根が矢のようにいくつも刺さる。それを避ける間に、二匹の魔獣の姿は暁近い夜空の、闇の濃い方へと溶けるように消えた。
「てめぇ、なんのつもりだ、窮奇!」
陽が昇るのを避けて山間を飛ぶ窮奇に、檮杌は吠えたてた。
「何って、助けてあげたんですよ。不満ですか」
「余計なお世話だ! 俺に『撤退』なんざさせやがって!」
それを聞いて、窮奇は深くため息をつく。
「僕は君のような馬鹿は嫌いです」
地を撫でるように飛ぶ窮奇に、檮杌は噛みつくように言い返す。
「だったら、俺なんか拾わねぇで、あの餓鬼拾ってくりゃあ良かったじゃねぇか」
その言葉に、しばらく返事はなかった。空が紫がかり、いよいよ夜明けが迫る頃、地上にただ一点残った影が浮かび上がる。窮奇は言う。
「……近く、蚩尤様がお目覚めになられます」
「そうか」
小さな影は近づくにつれて広がり、湖の様を呈する。
「我らが主君覚醒の折に、全員揃わぬなど恰好がつかないじゃありませんか」
窮奇の言葉に、檮杌は小さく鼻を鳴らす。そして、二匹の魔獣は光すら逃さぬ暗い湖面に音もなく飛び込んだ。大きく広がった波紋がやがて穏やかになったとき、陽の光がその湖を照らした。その瞬間、湖はまるでそこに存在しなかったかのように、唯の草原に変わったのだった。