東の守護者(2)
ファンは自分が気を失っていたことに気がついて、急いで飛び起きた。檮杌に立ち向かって、刀を弾き飛ばされたところまで覚えている。目の前にあの大きな腕が迫ってきていて――そこまで思い出したところで、辺りを包む光に気がついて、ファンは顔をあげた。そして、その光景に眼と心を奪われた。
巨大な檮杌に対峙する、一柱の青龍。
自ら仄かに光を放つ鱗は孔雀藍。檮杌をも二重に巻けるような長い体はしなやかに宙に波打っている。月光色のたてがみの上には一対の角を戴き、鬼のものと言われる双眸は春の山野の色を湛えていた。ファンはその姿に息を飲むような荘厳さを見ながら、檮杌に向けられる鋭い気を感じていた。
檮杌は言う。
「それがてめぇの本当の姿か」
「ああ。この姿はあまり動けんから、好まんのだが」
「おいおい、また弱くなったってんじゃねぇだろうな? 動けなきゃ話にならねぇぞ!」
そう言って、檮杌は再びその剛腕を振るった。その大きさと勢いに、ファンはとっさに眼をつむる。
「ファン、大丈夫だ。俺より前に出るなよ」
恐る恐る眼を開けると、こちらに向けられた檮杌の拳は青龍の鼻先で見えない壁に遮られていた。檮杌は遮られた腕にいっそう力を込めたが、壁の上を滑るように逸らされ、少しも通りはしなかった。檮杌はぎりと歯噛みする。
「てめぇ……!」
「動けなくてもさして問題はない。避けずとも済むからな。ただ」
言葉を止め、青龍が虫を追うように尾を振ると、檮杌と青龍の間で強烈な風が巻き起こった。砂や小石を巻き上げる風は、眼に見えるほどに凝縮され、一気に爆ぜた。突風。傍にあった大きな石ごと、檮杌は再び吹き飛ばされる。
「お前と同じように加減がきかん!」
地面にたたきつけられる前に檮杌は体制を立て直したが、蹄で地面をえぐりながら、尚も後ろに押されていった。やがて、勢いが無くなって止まると、檮杌は青龍の方を見て、口角をつり上げる。
「なんだ、こんなもんか……」
そう言いかけた瞬間、その体に朱の線が走る。かつての傷に交差したそれから、赤い霧が噴き出し、辺りに雨のように降りしきる。
「は、はは……ははは! そうだ、この感じだ、青龍! さぁ、やろうじゃねぇか!」
檮杌は高く笑いながら、再び青龍の方へ向かってきた。その渾身の力は、先ほどの壁を突き通し、青龍の体に到達する。鱗が散り、青龍もそれに伴って、空に体を泳がせた。
そこから先に人の声はなかった。神獣と魔獣の戦い。この国の人間なら誰もが一度は耳にしている、遥か昔に起こったとされる戦いの一幕。絵巻でしかないようなその場面をファンはじっと見つめていた。
再び檮杌の咆号が響き渡り、辺りは静かになった。地に伏す檮杌を見下ろし、青龍は静かに言う。
「今度ばかりは獄へも送らぬ」
その言葉に檮杌は返す。
「そりゃそうだ。どっちか死ぬまで終わらねぇよ」
青龍――シンは人型に戻ると、腰の刀を抜き放った。刀は月明かりに照らされ、鋼とも陶ともつかない不思議な輝きを発している。
「……地の力に還れ」
シンは刀を振り上げ、檮杌の喉に狙いを定めた。