倒壊
シンは乱暴に、町長の部屋の扉を開けた。開ける前から薄明かりが漏れていたから、中に人がいるのはわかっていた。扉をあける前から体の底を震わすような影の気配を感じていた。記憶の底にある傷の周りにできた錆が剥がれるような、心地悪さだ。
「やけに遅かったじゃねぇか、まさか獣にでも襲われたか?」
下顎の牙をむき出して、檮杌は笑った。部屋の隅には、町長が小さく縮こまって座っていた。目が合うと、ひっと小さく声を漏らして更に小さくなった。こちらにも目の前の大男にも同じ視線が向かっている。同類とされたくはないが、それが恐怖であり畏怖であるなら、あながち間違いでもないか。
「いいや、獣共の中に似た顔がいたもんで間違えたんだ。しかし、まぁ、奴らの方がいくぶん麗しいか」
平然とそう答え、シンは目の前の男を見据えた。ファンはすぐ後ろにいるのがわかる。リーユイはこちらまで踏み込もうとしなかった。昇化の身ゆえに檮杌の気や力がわかってしまうからだろう。
檮杌はファンの方に一瞥くれて、またシンを見る。
「その餓鬼が太極だな? 俺は欲しいとも思わねぇが、あの人が要るってんだ、寄こしてもらうおうか」
「断る。――あんなに広い獄をくれてやったんだ、これ以上くれてやるものなどない。あの人とやらと大人しく永久に収まっていればいいものを」
シンは刀の柄に手を置いて、ため息をついて見せた。檮杌はそれを見ると、鼻息荒く、怒気をその巨躯にめぐらせ始める。
「ああ、気にくわねぇな。気にいらねぇ。死ぬほど時間が過ぎたってのに、そのすかした態度も澄ました面もちっとも変わらねぇ!」
「こっちは一万も時が過ぎれば死んでくれると思ったんだがな。その傷でも懲りぬようなら、もうしばらく獄につないでおいてやる」
シンが両腕を竜化させると、檮杌はそれを見て半ば嬉しそうに笑んだ。背後でファンが一歩退く。空気がびりびりと張り詰め、震えている。気や力まで感じ取れずとも、この場で立っているのは容易でないだろう。
「久しぶりに大暴れさせて貰うぜぇ! この傷、そっくりてめぇに返してやらぁ!」
檮杌が腕に唸りをつけて、壁に向かって振り切った。こちらに向けられたものではなかったが、巻き起こった風がこちらを巻き込んだ。直撃を食らった壁は粉々に砕け、振動は関の建物全体に広がっていく。檮杌は窓から外へと飛び出していった。
「ファン、来い! 崩れるぞ」
シンはファンを呼び寄せ、崩れ始めた建物から外へ向かう。リーユイが後ろから叫ぶのを聞く。
「守護者! この男のことは私が預かる! 構わないな?」
シンは一度振り返り、わかるように頷いて見せた。もとより小柄な町長の縮こまったのを抱えあげ、リーユイは別の道から外へ向かう。竜化した足で、崩れていく建物を蹴って、下へと駆け下る。シンは轟音を立てて降る瓦礫を避けながら、ファンを連れて、檮杌の姿を捜した。関の片側は門とそれを支える柱を残して、完全に崩れてしまった。来る道で確認したはずだが、人がいれば無事では済むまい。
「師匠!」
ファンの声で檮杌の場所を知る。関だった石の山の上に暗い影が一つ。人の姿をしていたそれは少しずつ膨らむようにして大きくなって、その端々から人ならぬものが現れ始める。現れては消える月明かりに照らされて、檮杌の姿が明らかになる。この場を平らにした腕は太く大きく、その上体は人と虎とが混ざっている。地に叩きつけた長い尾は石を容易く割ってしまった。
「これで思いっきり力が出せるな」
シンはその声の主を睨みつける。体はシンの倍以上あろうか。下顎の牙は鋭く天を突き、大猪のようなその顔で檮杌はにやりと笑った。
「ファン、下がっていろ!」
シンは振り下ろされた腕を避け、叫んだ。部分的に竜化している余裕はないだろう。人の形を保ったまま、出来る限り力を引き出す。孔雀藍色の鱗で四肢を包み、青い火の点いた眼で檮杌を見据えて、大きく踏み出した
「一万年ぶりの喧嘩だぁ! 楽しませてもらうぜ」
檮杌はその腕に一層の力を込め、再びこちらへ振り下ろしてきた。