宵闇の関
肺の空気に不安を覚える頃、頭上に月明かりが射した。リーユイに引かれるままに水面に上がると、二人は急いで空気を吸い込んだ。こちらの井戸は人が使っているようで、釣瓶がかけられている。服が水を吸っているとはいえ、一番身の軽いファンがまずそれを伝って上り、ファンが辺りに人を確認すると、シンも縄を伝い井戸から這い上がる。そして、井戸から一匹の大きな魚が飛び出して人の形を成す。完全に人の姿に戻ったリーユイはすぐに周りを見渡していた。
月明かりは束の間で、すぐに雲に覆われてしまった。リーユイは服以外余り濡れていないようだ。ファンは上着の裾を集めると、ぎゅっと水を絞った。髪を結っていた紐が流されてしまったようで、襟足に自分の髪が張り付くのを感じる。シンは額の布が緩んだのか、巻き直している最中だった。
「この通りをまっすぐ行けば、すぐ関に着くだろう。私は町長に用がある。同行させてくれ」
その申し出をシンは了承する。
「だが、檮杌が暴れだせば、かなりの範囲を巻き込む。その場合はできるだけ離れてほしい。この時間でも人がいればまずい」
リーユイが頷き、三人は関に向かって走り始めた。服はまだ水を吸っていてずっしりと重い。足をつく先から、びたびたと水の音がした。深夜とはいえ、人が見れば奇異に思うだろう。走りながら、シンは言う。
「ファン。お前は絶対に俺から離れるな。檮杌だけだと思うが……念のためだ」
ファンは小さく返事をして、足を速めた。
関に着くと、やはり大門は閉じられていた。見張りの火だけが赤々と燃えて、辺りを明るく照らしている。建物の影から三人は様子を窺うと、十人近くの見張りの衛士が辺りを動き回っていた。それらを見て、リーユイは声を落とし、言う。
「いつもより見張りが多い」
「参ったな、倒している時間はないんだが」
シンは応え、見張りの動きを一つ一つ眼で追っていた。ファンは頭上の月を見あげた。月は雲に隠れては、切れ間から顔を出すのを繰り返している。照ればそれなりに明るいが、隠れるとまったくの闇になるだろう。この場を照らすかがり火は、離れたこちらまでその熱を伝えるように燃え続けている。
「リーユイさん。おれたちの服から水は抜けますか?」
リーユイはこちらを向いて首を傾げた。そして、しばらく考えてから応える。
「溜まった水でないからわからないが、おそらくできるだろう。だが、服などに構っている暇は……」
「あの火を消せるくらいの水を、おれ達は持っていると思います。火が消えて、月が隠れれば、きっと見えない」
やってみよう、とリーユイはすぐに了承した。服から糸が抜けるように、水がリーユイの手元に集まっていく。ファンがそれを見ていると、シンに目の前を覆われた。
「いい案だ。なら、目を閉じておけ。俺達が闇に慣れて動けないと駄目だぞ」
「確かに、充分な量だ。すぐにでも消せるぞ、準備はいいか」
リーユイの声に、シンはああ、と返事をした。まぶたの向こうに感じられた光がふいに消える。目を開けると確かに暗かったが、扉の場所や衛士達の場所くらいはわかる。三人は衛士の眼が慣れてしまわぬうちに、と関所の建物の扉へ向かって走り出した。賊か、明かりを、と衛士達の声が響き渡る。衛士の間を縫って、扉を開け、屋内へと向かう。シン、リーユイが入り、ファンが入ろうとした時、ふと誰かに腕を掴まれた。
「誰だ!」
聞き覚えのある声がして、ファンは小声で返す。
「シュウさん! おれです、ファンです」
「ファン? なんでまたここに」
同じように小声で問う声が返ってきて、ファンは慌てながらも答えた。シンとリーユイも足を止めている。
「説明している時間がないんです、早く……」
一瞬間があって、シュウが言った。
「昼間の話のその後ってことだな、よし黙っててやる。早く行け」
「ありがとう、シュウさん」
掴まれていた手が振りほどかれる。先の二人も再び走り始めている。ファンも急いでそれについていこうとして、思い出したように振り返る。
「シュウさん。門の傍に居たら危ないです、逃げてください」
わかった、という声を背中で聞きながら、ファンは駆けだした。