水盆鏡(1)
ジンユイは洗い場でうずくまっていた。ファンが来たことに気付くと、水でさっと顔を洗った。前掛けでそれを拭いながら、うっすらと赤い目でジンユイは振り返る。彼女は笑顔だったが、笑顔ではなかった。
「まだ、仲直りさせるには時間がかかりそうね」
立ちあがって、ファンに洗い物の続きをしないかと言った。
「お兄さんは、どうして盗賊なんかになったの。昇化だって」
「兄さんはね、役人になって人々の役に立つんだって言って、旅に出たの。私は反対したのよ。母さんが病気なのに、どうして今旅立つんだって」
ファンに器を手渡しながら、ジンユイは続ける。
「今こそ出かけるしかないんだって。父さんも私も怒ったんだけど、母さんがどうしてもっていうから、父さんも許した。でも、兄さんが旅に出た後、母さんの病気はますます悪くなって、都からの薬に頼るしかなくなった。前も買ったりしてたんだけど、配給が始まった時から、薬の値段が高くなって。都に合わせた値段だから、変えられないって」
ジンユイの手元の水桶にいくつか小さな波紋が広がる。
「母さんの病気は悪くなる一方なのに、薬は買えなくなっていって。1年経って兄さんが帰ってきて、兄さんの顔をみて、安心したのかな。母さんは死んだの」
小さな音を立てて、桶の中に雫が落ちる。ジンユイはその細い背を震わせていた。
「それから、兄さんはあんなになりたがってたはずの役人が嫌いになったの。母さんが死んだのは、役人の、官のせいだって」
ファンはなだめるように、ジンユイの背をさする。ありがとう、と小さく応えて、ジンユイは指で眼の端を拭った。
「私も官や役人は嫌いになった。父さんみたいに、王様を心から信用することはできない。でも、兄さんのやり方はきっと間違ってる」
「――それについてなんだが、俺が知っている情報とずれがあるようだ」
後ろからの声に、ファンとジンユイは振り返る。シンとニエンだった。ニエンは畏まったような様子で、後ろに静かに控えていた。シンは何らかのことをニエンに話したようだった。
「お嬢さん。どんなものでも構わないが、水盆鏡はあるか」
「母さんが嫁入りにと残してくれたものが。今持ってきます」
ファンはシンの元に駆け寄る。それがどんなものかはファンも知っているが、鏡など何に使うのだろうか。水盆鏡は金属でできた浅い盆のような物で、水を張ると鏡になる。普通の鏡とは違い曇らないので、高価だが重宝されていた。頭に疑問符を浮かべているのに気付いたのだろう。シンはファンの方を見た。
「ファン。獣人になると使えるようになる力があるのは教えたな?」
ファンは頷く。バクのように人の夢を食べる力や、シンの回復の力などだろう。獣人になると単純な力がつくと同時に、特殊なそれぞれに与えられた力がつくと教えられた。
「それともう一つ、特殊だが大凡の獣人に使えるようになる術がある。まぁ、流石に双方がよく知る者でなければならないが」
ジンユイが水盆鏡を持ってきた。皆で長の家に入り、机の周りに集まる。シンは椅子に座り、水差しの水を水盆鏡に注いだ。曇った一枚の金属の器が水を注がれた部分から、周囲の風景を移し始める。波立ちが止むとすっかりと一枚の鏡のように水盆は正面に座るシンを映した。
「配給が有料になっているなど、初めて聞いた。――東王府に確認をとる」
シンが龍化した腕で、水盆鏡の縁をそっと撫でた。澄んだ音と共に、微かに水面が波紋をうつ。縁から中心へ数回波紋が行き来すると、水盆はほのかに青い光を発して静かになった。
「貴方がこちらへ繋げるなんて、珍しいですね」
鈴を振るような声がして、皆は息を呑んだ。そこに映るのは藍の玉の良く似合う美しい少女。東を治める、青龍と心を通わす者、東王その人だった。