暗闇で
気が付くと、またあの雨の夢の中にいた。夜が更けて、貸家の床で目を閉じたのが先ほどで、今は師の言う“過去”の夢の中にただ立ち尽くしていた。
それでも今度は体をしたたかに叩く雨も、その冷たさも、しっかりと感じることが出来た。水の匂いの中に血の匂いと腐臭とが混じり、踏み出した足に粘ついた泥がまとわりつく。
シンが言うように、やはりここは戦場だったのだ。人の姿が見えないだけで、この地面はきっと大勢の人が殺し、殺されたところなのだ。神と人が魔獣の軍勢と相対した時代――万も昔の神話の世界。
これがその夢ならば。ファンは土砂降りの中を駆けだした。この先に、青を統べた始まりの人がいる。平原は灰色に染まり、どこまでも続いている。急がなくては。ファンはただひたすらまっすぐに走った。どこへ向かわなくても、この足を進めればきっとその人に会えるだろう。
髪や上着が水を吸って重たくなり、泥が跳ねあがって顔にかかる。声はまだ聞こえない。おそらく同じくこの夢を見ている人の、その名前を呼ぶ声が。青色もまだ見えない。この夢に病む師が、ただ一人追う人の鮮やかな青色。
「未来から過去に……夢を現に、ここにいたから……やがてくる」
背後から聞こえた声に、ファンは慌てて足を止める。でも、それは捜している声とはまた違って、水底から響くような女声だった。ぬかるみ、足跡の残った泥が黒く湧きあがる。それは徐々に人の形になり、やがて現れた女の人は真っ赤な口でにたぁと笑った。同時に、ファンの体の底から湧きあがったのは、これまでに対峙してきた、絶対的な者達への恐怖。
「魔獣……っ!」
踏み出してきた足には、あの徴。なら、目の前のこれは、昏の者達の、最後の一人。
「どうして」
――ここは、彼の夢の中ではないのか。夢の中だから、今こんなに危険を感じていながら、力を引き出せないのではないのか。泥の滑る音を立てて、それは歩みを止めた。そして、血のように赤い口を開く。
「太極、うつわ、うみを渡る船……主」
「ある、じ?」
雨音にまぎれて、うわごとのような言葉が重なる。
「何を言って――」
目の前のそれは、それ以上足を進めず、言葉を発せず、次には雨に溶けるようにその輪郭を崩しはじめた。
「待て!」
足を踏みだした同時に、閃光がその場を貫いた。次いで空を穿つような雷鳴。かばうように前に差し出した自分の腕の向こうで、女の不気味な笑みだけが白い光に縁取られて消える。元の曇天へと戻った時にはもうその姿はなかった。見回してもそれがいた地面はただのぬかるみで、自分の足跡だけがくっきりと残っていた。
「今のは」
ファンは呟く。今起きたことは、いつ、誰の身に、起こったことだろう。過去か今か。自分かシンか。また、他の誰かか。何より、夢か現か。何もわからない。
びっしょりと濡れた髪から、首筋へ水が一すじ流れる。
「そこにいるの……?」
今度こそ、捜していた声にファンは顔を上げた。まだ、これが夢だというのなら、これにはまだ先がある。呼びかけは繰り返されたが、応えかたがわからないファンはただそちらへと歩き出した。
白く暗く霞む世界に、一点の青が浮かび上がる。何よりも鮮やかに清らかに、立ち尽くす一人の少女。東の地を興した青の乙女は振り返り、驚いた様な顔でこちらを見つめていた。
「あなたは」
言葉を発したのは同時、少女の方がすまなそうに微笑んだ。
「……わかりました。そういう、ことなのですね」
「えっ」
戸惑うこちらをよそに、彼女は立ちこめる曇天を見あげた。降り続ける雨に、頬を伝うのはその雫だろうか。ファンは彼女に歩み寄る。さっき目があった瞬間の、不思議な、だが、はっきりとした感覚。この人はもしかすると、いや、確かに――
「あなたは」
ファンがもう一度繰り返した言葉を、低い轟きが掻き消した。それは稲妻のような激情と、雨のような悲嘆を含んだ、“いきもの”の咆哮だった。
「――許して」
彼女がこちらを見る。一瞬だった。謝罪の声も、彼女も、その世界も、後ろから来た生ぬるい風が一吹きに吹き消していった。
「待って!」
それは何を留めたかったのだろう。自分が発した声に驚いて、ファンは目を覚ました。見えたのは夜の闇、目をしばたくと少し慣れて、天上梁がぼんやりと映った。そうだ、ここは貸家の屋の内で。
「……ちっ」
舌打ちと、がさごそと荷を掻きまわすような音に、ファンは驚いてそちらを見やる。炉の火とは違う、小さな手灯りに照らされて、荷の周りで人影が動いた。
「泥棒!」
ファンはとっさに声を張り上げる。
「師匠! 泥棒が!」
何、とシンが跳ね起きる。ファンは布団を飛び出し、取り押さえようとそちらへ飛びかかったが、かわされてしまった。ごろりと一回転する間に、人影は灯りを吹き消し、部屋の隅、戸口の方へと逃げていく。暗闇を見越したような紺の服に、顔を覆った布で人相が全く分からない。
「大した荷はなかったろう! 置いて行けば、咎めはしないぞ」
シンが人影へと呼びかける。人影は小さく身じろぎし、屈んだように見えたあと、小銭袋が飛んできた。金狙いの物盗りだろうか。シンが袋を掴み、ファンは手探りに荷の方を確かめた。袋の口が開いている。他に、何か無くなってはいないだろうか。
人影はこちらのほうをじっと見ながら、後ろ手に戸を開け放った。風が吠え、海が唸っている。月はないようだったが、真っ暗な屋のうちに、外の光で盗人の人影がはっきりと映った。駆けだしていく人影のその手には、しっかりと何か棒のような物が握られて。
「師匠! 夙風が……!」
ファンは荷の傍の壁をさっと撫で、在るべきその物の名前を挙げる。
「くそっ……待て!」
シンが人影の後を追って飛び出していく。ファンはもう一度、それが無いことを確かめてから、すぐさまその後を追った。うっすら積った雪に、足あとが二人分、通りの方へと続いている。剣盗人と、それを追うシンのものだ。微かに聞こえる声とそれを頼りにファンは急いで走りだす。
少しして、遠目にシンの姿を見つけたときにはもう、夢での出来事はすっかり忘れていた。