船出を待つ間に
雪の合間をぬって、二人は町へと出た。船旅に必要なものを揃えるためだ。慣れないと相当つらいと聞いて、ファンは外套の合わせ目をぎゅっと握りしめた。船といえば、川下りの早船がほんの少し。幾日幾週も海の上という心配が、寒風と一緒にさっきまでぬくんでいた手足を冷やしていく。白の国に入ったばかりに見た海は、今目の前に黒々と広がっている。船出が近いと聞いたのに、波は高い。
人の声が多いのに気がついて、ファンはそちらへ顔を向けた。立派な体格をした男たちが集まって、何か話をしているようだった。格好を見ると、この町の人のようにみえる。
「あの人達が、水夫の人なんでしょうか」
先を行っていたシンが足を止め、そちらを見やる。
「ああ、そうだろうな。船出の支度に出てきたんだろう」
皆どこか困り顔や焦り顔に見えるのは、この荒海に船を出すからだろうか。腕組みをし、一人二人、と集まってはまたどこかへ駆けだしていく。時々、顔を振って合図し、しきりに辺りを見渡している。
「誰か捜してるんだ」
ファンは呟く。水夫の皆で捜すなら、仲間だろうか。同じ船に乗る一人ひとりが大事だと言っていたから、皆が揃わないと駄目なんだろう。
「ファン、どうした。行くぞ」
声を掛けられて、慌てて駆けだす。あれなら船出もすぐだろう。そう言ったシンの言葉に頷いて、ファンも店の並ぶ方へと足を急がせた。
いくつかの店を回り、荷袋いっぱいに支度が揃った。その間にも、何やら急ぎの水夫たちを見たから、彼らの捜す人はまだ見つからないらしい。
「二三日の間にでも、船が出れば上々だな。今日も早めに休んで、力を蓄えておいた方がいい」
シンはそう言って、足早に貸し屋へと向かう。店は温かいとはいえ、通りは冷え切っている。買い出しの間にすっかり冷えてしまっていた。その言葉にファンも頷いて、両手いっぱいに荷物を抱え直す。目深にかぶった外套と荷物に風の音が低く轟いた。
しばらく風ばかりだった町に、今度は雪が降り始めた。勢いこそ収まったものの風はあるから、もしかするとまた吹雪になるのだろうか。
「捜してる人、まだ見つからないんですね」
あちこちで見かける水夫を見て、ファンは口を開いた。
「人探しなのか?」
「そう思ったんですけど、雪でもまだ捜してるってよっぽどの人なんでしょうね」
「ああ。それにしても、外にいるような天気ではなさそうだが」
商店の並んだ通りから一本入ると人気はすっかりなくなったが、それでも水夫たちがどこかへ引くようなことはなかった。
貸し家につき、ファンはようやく両手をふさいでいた荷物を下ろした。今度持ち歩くなら、もっときちんと詰め直した方がよさそうだ。うっかり滑った時、手が出せないから。
「日もまだ高い。船がどんなものか、少し見て来るか?」
戸棚に荷物を入れながら、シンが海の方を示した。
「はい! あの、大きな船ですよね」
「ああ。しばらくやっかいになるとはいえ、外側を見るのは今のうちだ」
シンの荷物の横にファンも、自分の荷物を詰める。荷づくろいは帰ってきてからだ。
やはり外は吹雪いていたが、視界はまだ開けていて明るかった。町を抜けた右側には無数の船が繋がれた波止場がある。小さな船は陸へあげられているが、大きな船はしっかりと舫い綱をかけられて、岸に浮かんでいる。近くにいた人に聞くと、やはり一番大きな船が、黒の国への渡し船らしい。
「すごい……!」
高い波を避けて海から距離を取っていても、見あげるほど大きな船だった。船体は黒塗られていて、船べりや帆柱など所々も白く線が引かれている。これは確かに両岸の二国を繋ぐ船にぴったりだと思う。飾るような絵はなくても、所々波や魚の木彫があるのが見える。
「油のにおいがしますね」
黒に見えるところは、油なのか。その部分はつやがあって、木彫が際立って見える。白波が船に砕けて、気の軋む音は離れていてもよく聞こえた。
「水が入らないようにしているんだろう。腐りにくくもなるらしいからな」
そして、なるほど、とシンが船に指を向け、空をなぞる。
「白い部分で何かまじないをかけているな。全体で何か紋を描いてある」
「飾りだけじゃないんですね」
寄せる波に上下している船はまるで呼吸し、生きているように見える。何か一つの生き物のように、遥か海の涯を見据えている。
「……そういえば、前、先生が鯨の話をしてくれたことがあります。絵も見せてもらって、大きな魚だなって。師匠は見たことありますか?」
「鯨か。あるな、確か。かなり昔のことだったと思うが」
似ているかもしれないな、とシンは船を見て笑う。
「知っているか? 鯨は魚ではないんだそうだ、息をしに上まで上がってくるらしい」
「えっ、そうなんですか?」
ああ、とシンは深く頷く。
「本人に聞いたから間違いない」
ファンは目を丸くする。にこりと笑って見せた師の顔を見て――時々忘れてしまいそうになるが――この人は永遠にも近い時間を生きていることを思い出す。もしかすると鯨の目は、こんなふうな深い色をしているのかもしれない。
「さて、鯨に似た船なら尚更心配ないな。それこそ大船だ」
シンが踵を返し、町へと歩き出す。海風に佇んでいるにはそろそろ寒さがつらくなるころだ。帰ったら火の傍で、また話の続きを聞けるだろうか。ファンはかけ足に師のあとを追いかける。
「こんな町に、珍しいもんなんてあるもんかよ! 船も出てねぇのに」
乱暴に張り上げられた声に、ファンは驚いて声のほうを見た。シンも気付いたのか足を止めている。道の脇の家からで、看板を見るに質屋のようだ。声がして間もなく戸が開けられ、少年がひとり出てくる。自分と同じくらいの歳に見えた。
「……なんだよ」
こちらの視線に気付き、少年がこちらを睨む。何でもない、と首を振り、ファンはシンの横に並んだ。旅をして伸びたとはいえ、少年はしっかりとした体つきで、船人の人達によく似ていた。その機嫌は今の海に見えて、まっすぐ貸し家に戻った方がいいように思えた。
「おい、あんたら」
少年の声にファンはびくりと体を震わせた。
「何だろうか」
シンがその問いに応え、振り返る。
「余所者だよな、どこからだ」
「東からだが」
へえ、と短い応え。それ以上返ってくる言葉はなく、シンが歩き出したのに合わせて、ファンもその横をついて歩いた。微かに積る雪を足で擦りながら、足早に貸し家へ向かう。
「わっ」
ようやく着いた、とファンが何気なしに振り返ると、すぐ後ろにあの少年が立っていた。進むのに必死で、ついてくる足音にも気配にもまったく気がつかなかった。
「……あんたら、ここに住んでるのか」
問われたシンも少なからず驚いたようだった。
「ああ。船が出るまでの間だ。宿が無いから貸していただいた」
ふうん、と少年はこちらを値踏みするように見つめている。特にシンの方が気にかかるのか、上から下までその視線がなぞる。
「何か用なら――」
「ウェンがいたぞ!」
シンが問おうとした言葉を掻き消して、水夫の声が響いた。次いで、それに応える男たちの声。
「やべっ」
少年が駆けだそうとして、ファンは無意識にその腕を掴んだ。掴んだ手首の袖の下から黒く、波と魚の刺青が覗く。それは船の模様によく似ていて。
「離せよっ!」
乱暴に振りほどかれて、ウェンと呼ばれた少年は家々の間に姿を消した。その後を追って水夫たちが走り過ぎていく。
「尋ね人ってあの子だったんですね……」
応えるようにシンが小首を傾げる。
「何だったんだ」
応えられるわけもなく、吹きつけて来る風と雪に、二人は腕をさすりながら貸し家へと入ったのだった。