王の記憶
第二代の王が充てられたのは、あの戦いからどれくらい経った頃だろう。十数年だろうか、傷も癒えぬ間にと思った覚えがある。それとて、人の寿命に合わせるとそれもきっと長い時だったのだろうが。もう自分の傍にくる者などいないと思っていたのに、その者が天命を受けたと参じた時、“然り、この者は主である”とすぐに思った。人がみればきっと薄情だと思っただろう、当然自分も幾度となくそう思った。
それでも、二代の王を送り、そこから続く東王朝の数多の王たちを送ってこられたのは、彼らに初王と同じものを感じたからだ。王である、という天命による繋がり以上に、何気ない所作が懐かしく心を惹いた。呼びやる声に、振り返る横顔に、そして何より受け継いだ初王の記憶を語るその言葉に、遠くその人の姿が見えた。
彼らはみな、同じ言葉を残して逝った。前を向いて進めと、初王の残した言葉を、同じように。ならば、何故聞かなかったのだろう、その言葉を残す前に一体何が起こったのかと、欠けている記憶はどのようなものだったのかと。長い時を過ごす間に、無いことに慣れてしまったのか。多くの死に立ちあううちに、それもそのうちの一つと納得していたのか。問わなかったからか、彼らも一人として語らなかった。
尋ねることができないままに、彼らは逝き、今上へと王の命は巡った。
そして、この奇妙な患いがあの雨の日に発するものだと、わかった時にはもう記憶を尋ねることができなくなっていたのだ。
今日も船は出ないと言う。外に出て波の様子を訊ねた後、朝餉の場でシンは話し始めた。
「王は代々、初めの王の記憶を継ぐものだ」
ファンがその言葉に小さく驚きを示して、箸を置く。
「天に直接見えた王は太祖達だけだからな、その時に王達が思ったそれぞれの国の意志を保つためにも、彼らの記憶は必要だった」
全てが同じ必要はない。だが、国を興した志は受け継がれなければならない。始まりの善き者たちが何を考えていたか、伝えねばならない。そのために、天は王達の記憶が受け継がれていくように為した。――そして、その記憶を有するを以て、民と王とが見分けられるように。
「それに、神獣はまあ、なんというかな。俺もそうだが……気まぐれだからな。俺達の好き好みで王が決まってはいけないだろう? だから、天が選んだ証拠として、王になる人間には初めの王の記憶が与えられる」
そう、だから、今回もこれまでと同じように決めたのだ。彼女は、初王と自分ただ二人しか知らない呼び名を、まるで本人のような顔で、声で呼んだから。なのに、懐かしく繰り返されてきた喜びのまま、現王として戴いたその人は、何も覚えていなかった――
「始まりの王様達の記憶があって、神獣に認められたら、王様ってことになるんですか?」
「おおよそ、そういうことになる。ただな、初王達の記憶と言っても、それが神獣と共有された事柄でなければわからん。それに、不思議な夢を見て、それを初王の記憶だと言ってきた者もいたし、悪気はないんだろうが、王になりたいと思ったんだろうな、それらしい記憶を自分でこしらえてしまった者もいた」
シンも同じように箸を置き、小さく息をついた。
「そうすると、やはり、最後に決めるのは神獣なのだろうな」
それを聞いて、ファンが何か思いついたように顔を上げたが、すぐにその視線は躊躇いがちにそらされてしまった。おそらく、今自分が思っていることと同じ疑問がファンにも浮かんだのだろう。
「もし、俺が間違った王を選んでいたら、か」
「そんなこと!」
ファンが弾かれるように顔を上げ、首を振った。もちろん、と笑んで返し、別の茶碗の白湯をすする。
「天の見ていることだ、間違っていれば、王の即位で得られる恵みもない。つまりは、在位に際して天恵さえあれば、それは合っていたということだ」
ファンは、今の東王に最初の王の記憶がないことを知らない。それを知っても知らなくても、前の疑問につながるのだ。シン自身も、たとえ今上の顔が初代のそれと良く似ていたとして、最初の王の記憶が全くないと思えば、違う、と切れただろう。ただの空似だと諦めもついた。だが、ただ一言、王として名乗りも上げなかったその娘が、こちらに向けて呼びかけた言葉、それがあの王と同じでなければ。他のどの記憶を置いておいても、真っ先にそれが“彼女”のものであると思う記憶の言葉でなければ。
天も選んだ者のはずだと、今になって何度も自分に言い聞かせている。そして、そう言い聞かせなければ、至るのはある考えだけだ。自分は自分の古傷を癒すためだけに、似た娘を選んだのでないか。俺は自分の間違いをただ認めたくなくて、病んでいるのだろうか、と。
「そういえば、師匠。今の東王様は」
ファンがそう言いかけて、戸を叩く音がそれを遮った。
「旅人さん達はいるかい」
あとだ、とファンに指で合図して見せて、戸口に向かってああ、と応える。戸が開き、大家の老人が挨拶もそこそこに口を開く。
「若いもんがな、船がもうすぐ出せるかもしれん、と言っとった」
「嵐が止みそうなんですか?」
ファンが問うと、大家は首を振る。確かに風は来た時と変わりなく、強く吹き続けている。
「嵐でも出せる支度ができそうだってことさ。急ぎだろうし、動くとなればすぐ乗るだろう? 早めに伝えておこうと思ってね」
「それはありがたい。何から何まですまない」
いや、いいんだ、と言った大家の目が僅かに腕の巻き布にうつる。
「都から北へ向かう人は多いが、またその色は珍しいと思ってね」
直接的な言葉を避けて、大家はまたくるよ、と去っていった。おそらく官人や貴人の類だと思われているのだろう。
「嵐でも出せる支度って何でしょうか」
ファンが途中になっていた茶碗を手にし、首を傾げた。
「何か船に仕掛けがあるようだな。それこそ、西王自慢の船と船人のことだろう」
戸が開いたからか、部屋の中がまた冷えてきた。シンは炉の火の方に寄る。
「そういえば、さっき言いかけたのは何だ。陛下がどうと」
尋ねると、ファンはいえ、と口を濁した。
「あの、やっぱりもう少し考えてからでもいいですか?」
上目遣いの問いに、シンは笑んで返す。
「好きな時に聞いてくれ。その間俺もいろいろと考えてみることにする。……とはいえ、船が出るなら支度を始めなければな。これが済んだら、何か買いに出よう」
「はい!」
返事のあとに、飯をかきこむ音が続く。それもまた、鳴りやまない風と波の音の間に紛れていった。