記憶のしじま
沸いた湯で茶を入れ、二人は揃って息を整えることにした。熱い茶が腹の底から体を温める。体が温まるとやはり、部屋が冷えているのを感じた。
「つらいことの夢を見るから、師匠は具合が悪かったんですね」
問うと、シンはそれもあるが、と言い、渡した茶に口をつけた。
「夙風がどうにもな。夢の内容と関わりあることだろうとは思うが、妙に騒ぐ」
「剣が?」
シンは頷く。そして、もう一口茶を含み、茶碗を手のひらでおおって続ける。
「……お前が言っていた、ジュジと言う者に会った」
「えっ」
「西都を発つ少し前だ。俺を知るふような口ぶりで、お前から借りていた夙風の封を解いていった。他には何もされなかったが」
シンが夙風を見る。見た目には何ごともなく、夙風はただ静かに壁に立てかけられていた。
「西都に着く前から、少しずつだがな、剣の気が騒ぐようになった。何がきっかけかはわからん」
「なら、もう一度封をすれば」
そう言って、髪紐を解いたところで、シンは首を振った。
「駄目だ。何度か試みたんだが、封そのものを受け付けん。これはおそらくジュジがしたことだろうが……ファン、夙風には絶対に触れるなよ、何が起こるか、もう俺にもわからん」
そう言う頃には夙風を取ろうと腰を浮かせていたところで、シンが小さく笑い、座れ、と床を指で叩いた。
「そこまで心配そうな顔をするな、少しずつだがな、俺なりに答えを寄せようとは思っているんだ」
「でも、ジュジや、四凶が何かしているなら……」
また、シンがこちらを心配させまいとしている気がして、ファンは食い下がった。何かある時こそ、それを隠そうとするのがこの師であることはよく知っているつもりだ。そして、こちらが隠しごとをなくそうとしているのをシンもよくわかっているだろう。シンは笑みこぼしながら、また首を振る。
「夢の中身まで知れてしまったんだ、隠しはしない。……心配ない。夙風が荒れるのはおそらく夙風自身に何かあるからだ。今俺に何かしようと思えば、夙風ではなく、直接この通り弱った俺に向けたほうが手っ取り早いしな。そして、夙風そのものに故があるとすれば、きっと天が意図しているもののはずだ」
「天が?」
髪を結い、繰り返すように問うと、シンはゆっくりと頷く。
「そうだ。前にも話したな、夙風は天が下した剣だ。それだけは確かに覚えているから、夙風が現すことは天の意には違いない」
シンが手で包んでいた茶碗から、また一口すすり、それにな、と続ける。
「捨てようかと思いついたとき、かえってどうしても捨てられんことに気がついた。きっと、お前が二親の夢を見ていたように、俺はあの雨の夢を見なければいけないんだろう。夙風を鍵として、過去を見なければな。……冷めるぞ?」
示されて慌てて、ファンも茶に口をつけた。案の定、飲みごろを過ぎて温んでいた。鉄瓶の中の茶を足そうと、ファンはそちらへ手を伸ばした。そうしてふと思う。
あの夢の中の人は、泣いていた。雨に濡れながらも、シンを探して。シンもその人の元へと駆けつけ、その先で彼女が被る死に立ち会った。間に合わなかったこと、食い止められなかったことを、シンは途方もない年月をかけて悔やんでいる。
そして、今。夢のその人に似た、今の東王様を自分の主に選んだ。
「師匠は、木王様が好きだったんですね」
何気なくそう呟き、ファンは鉄瓶を戻そうと炉に手を伸ばした。その途端、大きな咳こみと、たて続いた小さなむせび。ファンがそちらを見ると、シンは堪えるように顔を伏せ、小刻みにを震わせていた、ひとしきりした後、シンが顔をあげて短く吠えた。
「何を!」
その顔は見る目にわかるほど赤くなっていて。思いがけない反応に手が止まっていて、顔を合わせていると自然に笑みがこぼれてきた。咳きこんだ拍子か、シンの膝の上がお茶で濡れてしまっている。
「なんとなくそう思ったんですけど」
悪びれずそう応えると、シンは強く息をつき、未だ赤い顔で首を振った。
「違う、そういうものじゃあない。そうだな……」
黙って茶碗をこちらに差し出し、シンがうーんと考え込む。
「一概に同じとは言えないが、たとえば、生まれてから自分の面倒を見る者がいれば、それは親だと思うだろう? 傍にいて当然、と感じる者が俺にとって、神獣にとっては王なんだ」
ファンは頷きながら、シンの茶碗に茶を注いだ。自分にとってはバクがそういうものだろうか。そして、御柱に行ってからは、夢で見続けた親にも確かに感じるもの。心か魂か、繋がっていると感じる何か。
「その時代の誰がなったとして、神獣にとって王は“王”というもので、主人であり、友であり、身にも等しい自分の力を分けたもう一人の自分のようなものだ。多少、その人間によって神獣が思う向きも変わろうが……俺にとっては」
そこまで言って、シンは再び黙り込んだ。置かれた茶碗からのぼる一すじの湯気が、シンの口元でゆらりと形をかえる。息は零れても、続く言葉はなかった。
しばし漂った沈黙に、ファンは自分の茶をふうと吹いて冷ます。波立つ水面が、少しばかり外の海に意識をやる。波涛の声は絶え間ない。
「……何なのだろうな」
シンが静かに呟く。
「俺にとっての王も、他の神獣にとっての王も変わらんはずなんだが。後悔ばかりしてきたからかな、悔いてきて減らしただろう慶びがなんだったのか、考えもしなかった」
失くしたことを思う間に、失くしたものそのもののことが薄れていって。
「じゃあ、もし師匠が昔のことを全部思い出せたらきっと、大事な王様達の中で、木王様だけの、何か一つの特別を思い出せるんじゃないでしょうか」
ファンはシンに微笑みかける。
「おれが先生や師匠を特別に思うように。親にも近しいものを感じるような」
シンの口元が僅かにほころんだのを見て、ファンもほっと笑みを深めた。
「そうか。そう思えば、夢に怯える必要もないな。何かを得ると思えば」
シンがようやく目の前の湯気に手を伸ばす。揺れた一すじはまるで生き物のようで、その人の本性が小さく現れたようで。揃って茶碗をおいて、二人で息をつく。
「おれ、また船の様子がどうだか聞いてきます」
そう言って立ち上がると、シンも頷く。
「ああ、頼もう。長居するようなら、買う物もあるだろうしな」
ひとまず雨戸を開けると、ぴんと張った朝の空気が家の中に入り込む。シンも立ち上がり、別の窓を開けたようだ。寒さもあるが、体が温まれば、まだそれほどつらくない。戸口に向かおうとして、ファンはふと思い立ち、シンの方へと振り返る。目の端にあの剣がうつったとき、先のしじまに、過去を追う師の、国の守護者の姿がよぎったから。
「もし、今日も船が動かなかったら……王様たちの話が聞きたいです」
「木王陛下や、今上のか?」
驚いたように眉を上げたシンに、ファンは頷く。
「そのお二人は特に。それに他の王様達も。師匠の特別な人達が、どんな人達だったのか、聞いてみたいんです」
しばらくこちらを見つめていたシンが、頬を緩ませ頷いた。
「いいだろう。たまには昔の話もな」
「ありがとうございます!」
なら、急いで聞いてこよう。ファンは飛びだすように、戸の外へと駆けだした。一万年の間の王様たちならば、きっと今から語ったって間に合わないだろうから。