雨の夢
誰かが誰かを呼んでいる。殆ど聞こえないのは、雨の音のせいか。目を開けると、そこは土の剥き出しになった平原だった。足あとと馬の蹄の跡が地面を平らにしていて、何度も踏まれて、草が絶えてしまったのだろう。
気付くとファンはただそこに立ちつくしていた。音はしても、雨は少しも自分を濡らしていなかった。寒くもないし、叩かれる感覚もなかった。何を思うでもなく、微かに聞こえる声のほうへ歩き出す。低く立ちこめた黒雲は、時々ごろごろと雷の音を含ませた。
少しずつ、声の方へ近づいていく。女の人の声だ。ファンは無意識に駆けだす。しばらく駆けて、雨に霞む暗灰色の辺りに、ぽつんと立つその姿を見止めた。すっかり濡れているその様相。濡れていても鮮やかに際立つその青の衣。そして、こちらに気付いたかのように、振り返ったその瞳。ああこの人は、そうだ、と合点がいったそのとき、横をぬるい風が吹き抜けた。途端に、ふつ、と途切れる視界。
そうしてようやく、これは夢だと気がついたのだった。
改めて目を開けると、薄暗い中に借家の板間が見えた。炉に掛けたままの鍋の底が、ちらちらと橙色に照らされている。火の根はまだ生きているらしい。それでも、部屋の中はすっかり冷えていて、夜具の中の手足を寄せながらファンは反対側へと寝がえりをうった。隣ではシンが静かに寝息を立てていた。深く寝ているシンを見るのは、久々な気がする。ここしばらく、眠れていないようだったから。ほっとする半面、息をしているか心配になる。じっと見つめて胸が上下しているのを確かめてから、ファンはそっと布団から抜けだした。もっと焚き木を足そう。少しの音も立てないよう注意しながら、部屋の隅へと向かった。
焚き木を置いてやると、炉の火は少しずつそれに回っていった。水を汲みに行こうかと思ったが、火の前に座るとなかなか離れられない。手のひらをそれにかざして、痛いくらいの温かさに息をつく。
あの夢。とてもはっきりした夢だった。かつて見ていた父母の夢のように。鈍色の空、青い服の女性。それは旅の始まりに見たあの女性にとてもよく似ていたから。その人は誰かを呼んでいた。思った人が確かなら、呼ぶのはきっと。
衣擦れの音がして、ファンはシンの方を見た。薄目をあけて、シンもこちらを見て返した。
「おはようございます、師匠」
「ああ。早いな」
シンが閉め切られた雨戸の方を見る。
「……雨か?」
問われて、ファンは立ち上がり、ほんの少し雨戸を開けた。晴れてはいないし、来た時のような強い風と、打つような波の音がした。
「いえ、降ってません。でも、もしかするとあとで、雪が降るかもしれませんよ。あちこち凍ってます」
答えるとシンもようやく上体を起こした。解いていた額の布を締めて、ただ、そうか、とだけ応えた。
雨。何故だろう、自分はきっとさっきまで、シンと同じ音を聞いていたのだと思った。そして、同じ光景を見ていたのだと。シンは布団の上にあぐらをかいて、黙ったままどこか一点を見つめていた。今なら自分にも、この師が何を思うのか、少しわかるような気がした。
ファンはまた炉端に座り直すと、少し息を整えて、口を開く。
「雨の音なら、おれも聞きました、師匠」
シンの目が見開かれ、視線がこちらに注がれる。
「でも、夢の中なんです。とてもはっきりした夢で」
多くの人間に踏みしだかれ、雨に叩かれ、命の絶えたような場所の。
「見たこともない場所でした。見渡す限り何もない、広い場所です」
シンが額に手をやって、目を伏せた。そして、ゆるゆると首を振る。
「……戦場だ。今の、お前が育った町がある辺りにあったんだ」
やっぱり、そうだ。まるで体験したようなあの夢に、真に居合わせたのは――。驚きと、微かな戸惑いを浮かべたシンを見て、これまでの予感がが容を得ていく。
「師匠、この夢は――」
「続けてくれ、頼む」
シンのその目がすがるように見えて、ファンは黙って頷いた。
「……誰かが誰かを呼んでいる声がして、おれはそっちへ行きました。だんだん声がはっきりしていって、姿が見えて」
言葉を切り、一度息を整える。
「若い、女の人でした。青い服を来ていて、すっかり雨に濡れていて。近づいてもやっぱり、誰を呼んでいるかはわかりませんでした。でも」
ファンは炉の火にやっていた目をまっすぐシンに向ける。
「その人は、とても東王陛下に似ていました。前に、水盆鏡で見た姿に。……呼ばれていたのは、師匠、ですね?」
シンは何も答えず、手のひらでそっと両目を覆った。
「この夢は、師匠の夢なんですね。それで、きっと」
ややあって、ああ、とため息のような応えが返る。
「俺の記憶だ。今の陛下じゃない、初代陛下の――亡くなった時だ」
手繰るべき糸をようやく見つけた気がした。
「……ファン。教えてくれ。俺には思い出せないんだ、おそらくお前が見たという、その先を。何が起こったのか」
シンがこちらをじっと見つめる。その瞳に、言葉に、ファンはシンの心を蝕んでものが何であるかを知った。シンはこれまで絶対に忘れるはずのないものを失ってしまったことに、ひどく困惑し、狼狽し、憤ってきたのだ。そして、記憶を失うことで、それらをぶつけるべき相手も失ってしまった。だからきっと、後悔として自分を責める他なかった。
「陛下はひどく手傷を負っていた。気付くと、俺は血にまみれ息を引き取ろうとする陛下を、この腕に抱いていた。俺は絶対にその人を守らなければいけなかった。そうだ。常に傍にいたはずだったのに、俺はなぜそうなるまで、気付けなかったんだ? なぜ、俺は陛下を死なせてしまったんだ。――青龍の力を持っていながら!」
少年のような激情が、吐き出す言葉から滲む。シンがこの旅の先に何をしようとしているかはまだ知れない。けれど、この激情こそがシンを旅へと向かわせたのだ。
「今の東王様が、初代様にとてもよく似ていたから」
ファンが呟くと、シンはくっ、と短く声を漏らす。
「すみません、師匠。おれが見たのはそこまでです。何が起きたのかまでは」
「そうか。……すまないな、少し落ち着く」
胸に滲む苦みを飲み下すような、一呼吸。ファンは立ち上がり、鉄瓶に水を汲んだ。荷に少し残った茶を今淹れよう。その苦みが胸につかえないように。炉の火が大きくなり、掛けた鉄瓶の底を撫でるころ、シンがようやく口を開いた。
「そうだな。俺の記憶を見たのなら、お前にただしてもしかたなかったな。すまなかった」
微かに笑みを浮かべてシンがこちらを見る。いいんです、と応えると、シンはすまない、と繰り返した。そして、立ち上がり、炉のはす向かいに座る。
「我ながら情けない。近頃はずっとだが、苦労かけるな、ファン」
ファンはゆるりと首を振った。
「いいんです。やっと、師匠のことがひとつわかったような気がして。……おれもできるかぎり、師匠の力になりたいんです。師の苦労なら、弟子にも付き合わせてください」
シンは頷き、その手をぽんとこちらの頭に乗せて笑んだ。手が下りる僅かな間、言葉はなかったが、何かを伝えるには、すまなそうな笑みのそれだけで充分だった。