時化の港
「部屋がない?」
そう、シンは宿楼の主の言葉を繰り返した。宿楼の奥を見やると、旅人らしき人間が忙しく行き来していた。荒天にも関わらず出歩く人の姿は、海の様子を見る船人と旅人の姿らしい。寒風の中たどり着いた港町は、既に多くの旅人が滞在していた。
「時化が続いてる。相部屋、雑魚寝もしてもらうくらいで、もういっぱいいっぱいだ」
「……申し訳ないが、他に宿は」
問うと、宿の主人はゆるりと首を振った。
「どこへ行ったって同じさ。ここ二週くらい、妙に荒れてね。仲間に聞いてみるが、期待しない方がいい」
「そうか、ありがとう」
小さく礼を言い、踵を返した。ファンは待合いに置かれた長椅子に腰掛け、火鉢の炭近くまで手を寄せていた。近づくと、ファンは表情を伺うようにこちらを見上げ、立ち上がる。
「どうでしたか?」
思わしくないのを察してか、心配そうに顔を曇らせる。
「部屋に空きがないようだ。聞いてもらってるがそれも怪しいところだな。ここしばらく、船も出ていないらしい」
閉め切られた雨戸が音を立てる。崖の上から、白く刃のように見えていた沖の白波は、下りて見ると随分高くうねっていた。若き西王は“多少荒れる”くらいなら船は動く、と言ったが、今の波はどうやらつわものぞろいの船人たちも見合わせるほどのものらしい。慣れたものが無理だ、と思うのならば、無理もきかない。
「もし駄目なら、おれ、どこか泊めてもらえる家がないか、探してきます」
ファンが深刻そうな顔で扉を見やるのを見て、相変わらず素直だと思う。この弟子は何に対しても向き合い方がまっすぐだ。シンは小さく笑み崩した。
「もし駄目なら頼もう。まさか馬屋まで混んでいるわけでもないだろうしな」
まぁそれでも、とシンは火鉢を見る。その視線を追ったファンと顔を見合わせる。
「あたれる火があるといいな」
ファンはようやく固かった表情を緩めた。きっと心なしか緊張しているのは、きっとこちらの不調にも、まっすぐ向かい気を遣うせいだろう。申し訳ない気持ちを感じながら、ただ長い船旅の楽しみだけを話して、宿の主を待った。
片時もせず宿の主が声をかけてきた。こちらが向かうと周りを気にしているのか、少し声を落とした。
「近くに空き家が一軒ある。大家がそこに泊まってもいいとさ。今、小僧に案内させる」
代金なんだが、とさらに小さい声で主人が言うのをさえぎり、シンは頷く。
「宿であろうとなかろうと、屋の内に泊まれるなら上々。そちらの言い値で構わない」
宿の主人がほっと顔をほころばせる。
「話のわかる人でいいな。別にふっかけるつもりはないさ。ここと同じだけいただけりゃあ、こちらも上々ってやつだ」
前金で、と言われた今日の分を渡してやると、主人は機嫌よく小僧を呼びやった。小僧に何やら言い含めている。どうやら上客と思われたらしい。ひょっとすると、すでに少し他より割り増しで払ったのかもしれなかった。
楼の外に出て、小僧の案内で近くの家に案内された。家は二、三人ひと固まりで暮らすような小さくさっぱりしたもので、既に大家らしき老人がそこで待っていた。老人はすぐにあたれるようにと火をおこしてくれていた。
「知り合いに用意した家なんだが、使わんと言ったもんでなあ。丁度良かった。たぶん、ひと月くらいなら好きに使って構わんだろうよ。家財もある」
老人はそう言って笑い、まだ足りないものはないかとあたりを見回している。その大家もおそらく昔は漁師か船乗りだったのだろう、過去の勢いがまだその体付きから見てとれた。火の傍を勧められ、二人は近くの円座を引き寄せて座った。
「いや、それほど長居はしていられないのだ、船が動き次第すぐにでも発ちたい。……船の事にもお詳しいようだ、どれくらいで出られるだろうか」
問うと、老人は困ったようにごま塩になった頭を掻いた。
「海のことはなあ。船乗りは今ある波は読めても、明日の空と女房の機嫌はわからんでな。もう少し、もう少し波が落ち着きゃあ、荒れでも出してやれるんだが」
老人は外を見て、ううんと低く唸る。入りこんできた風が、むき出しの梁を僅かに軋ませ、炭火が少し赤みを強めた。
「あんな大きな船でも、出せないときがあるんですね」
ファンが口を開くと老人は振り返り、そうだよ、とにこやかに頷いた。
「大勢で繰る船だから、船乗りはそれぞれ役割を持っててな。だから、いっそう一人ひとりが大事でな、帰って来れないような波には乗らんのさ。水夫みんなに家族がおる」
なるほど、とシンとファンは揃って口にした。小さな笑いの後、息をつく。
「と、なるとやはり待たねばならないな」
「急ぎのようですまないね。その代わりと言っちゃあなんだが、船が動く時はすぐに知らせよう。ここにいる間も、困ったことがあったら言ってくれな」
じゃあ、と戸に手をかけた大家に、二人は深く礼を言って見送った。
「待てば海路の日和あり、か」
呟くと、ファンが小首を傾げて、こちらを見る。
「待っていれば良い知らせもくるだろう。疲れたろう? 何か腹に入れたら、今日は早めに休むか」
ファンがしかと頷く。ファンが外で、米と少しの野菜とを買ってきた。棚で埃をかぶっていた鍋を借りて粥を炊き、干し魚をあぶった。食後、少し北の国の寒さについて色々話をしたが、ファンがうとうとしてきたのに合わせて床を敷いた。
風が強く吹くと梁は鈍い音で軋み、海鳴りはずっと同じ調子で近く低くとどろいていた。それはまるで、耳をふさいだ時のようで、目をつむるといつもより落ち着いていられる気がした。外の波のように荒れる自分の内を、今日は見ずに済むようで。
隣から小さな寝息が聞こえてくるのを聞いたシンは、しばらくぶりの安息に身を預けることにした。