北路
白の国の章の続きです。
寒い。体を縮めて冷え切った手足を身に寄せる。寝床がわりにと借りた馬の寝わらの山が、ごそりと音を立てる。しっかりと潜っていたおかげか、わら山の中は温かくて、氷のようになった爪先がじんわりと温む。西都から北、黒の国を目指す、山村の屋の内だ。ファンは向こうのほうで盛り上がっているわらの山を見て、師が良く眠れているかと思った。わら山は静かに上下している。
高所にあった白の国の都から、下る先でやがて海に出でるという北への道。都を出る頃から既に涼しかったが、今は涼しいで片付くほどの寒さではない。やや南にあった、育った町もとびきり冷えた日は確かにこれくらい寒かった。しかし、聞けばこれはまだまだ序の口で、そのうち火がなければ眠れなくなるのだという。いや、違った。火もなしで眠れば一夜のうちに死んでしまうのだ。ぼんやりと霞んだ寝ぼけ眼に、小屋の扉の白くなっているのが見えた。霜が降りている。重たい冬支度に身を包んで、汗をかきながら進んでいたというのに、今はその荷物ですら少し心もとない。はじめこそ下りばかりだった道は上りを含んで、勾配は差し引きでおよそ平らになった。もうすぐ北の海へ出るらしい。
まどろみが晴れてくると、外の白みがはっきりとわかるようになった。もうすぐ夜明けだ。自分はもう起きてしまおうか。日が昇ればこの小屋の主も周りの家々も起きだすだろう。日が落ちるのが早いから、出発も早い方がいい。
それでも。
師のほうを見てやって、ファンは静かに深く息をついた。西都を出てからしばらくして、シンがまた眠れていないことに気がついた。そして、今度は何故か、シンはそれを隠したのだった。代わりに、封のなくなってしまった夙風に絶対に触れるな、と険しい顔をして言った。今度ばかりは、きっと何も言ってはくれないだろう。耐えるときこそ黙ってしまう人だ。シンも、こちらが気付いていることに気付いている。だから、すまない、と言ったのだ。それ以上追及はできなかった。
ならば、こちらも黙ったまま、最大限出来ることをするしかない。それはきっと、ひたすら北への道を進めることで、また、逆に休めるときしっかりと師を休ませることだ。今は、どちらを取るべきか。小さくはじけるような鳥の声に、ゆっくりと息を吸う。わらが小さく音を立て、次いで吐いた息にささやかに揺れた。
「――起きているか」
不意の声に、体がびくりと震えた。反射的に返事をして、藁の山を跳ねのける。
「はい!」
「そうか。なら、支度をするか、朝なのだろう?」
ああ、やはり。それを聞いてファンは、返事をするべきじゃなかった、と思った。目覚めれば訪れているはずの朝を、彼の人は来たのかと問うた。昼夜に境を得ないまま、彼の時間は過ぎてしまったのだ。離れた馬小屋の方から馬が鳴くのが聞こえる。人の起きたのを察して、餌を催促しているのだ。こうなれば、もはや起きなければいけない。この小屋の主人もすぐに来るだろう。
「今日で海がみえるくらいには進めるといいのだが。船に乗ってもしばらくかかると聞くからな。……寒くないか、大丈夫か?」
シンが体を起こし、ふうと息をついた。温みを持ったそれは屋の内の空気と薄明かりに白くわいて、そして、すぐに消えた。
「大丈夫です、少し動けば温かくなりますよ」
応えて立ち上がる。自分は大丈夫だ、少なくとも問うた人よりはずっと。道はだんだんと寒くなるが、寒いと言っている場合でなかったのが、かえって良かった。
服に引っかかった藁を払い落し、端に置いておいた荷物を見る。寒くなるにつれ食べ物が痛むのも遅くなったが、今度は凍みがくるので買い出しはきちんと物を選ばなければいけなくなった。今日は幸いに荷物は凍っていない。荷を確かめ、シンの方へ頷いて見せた。
動きを止めると寒さが身にしみた。身支度にお湯が借りられればいいのに、と思いながら、ファンは先んじて小屋の扉を開ける。吹き込む風は身を切るように冷たく、地面は白く霜で覆われている。扉から落ちた霜が朝日に照らされてきらきらと光り、青白い朝に澄んだ空気が行き渡っている。良い天気だ、きっとしばらくすれば寒さも緩むだろう。
「先に水借りてきます」
師の返事を確かに聞いてから、ファンは声のする方に向かった。きっと水場が共同なのだ、女の人達が朝の挨拶と水を汲みに集まっているようだった。
「おはようございます」
声をかけると、怪訝そうな顔がこちらに向く。そういえば昨日は、夜になってからこの村へ宿を得たのだった。宿場もない小さな村だ、外の人間が珍しいのだろう。シンがいつもやるように、つとめてにこやかに名乗って見せた。
「旅のものです、昨日、そちらのお宅で宿をお借りしました」
しばらくの沈黙とその家の人間に確認を取るようなささやかな会話。そして、品定めするような視線のあと、中の一人が挨拶を返してきた。
「なるほどねぇ、おはよう。遠いところからきたんだね?」
問われて、頷いてみせる。
「東の方からです。わかるんですか?」
「歩き方がね。その歩き方だと滑るよ、気をつけな」
大柄なそのおばさんは、抱えていた釣瓶の水を水桶にうつすと、それをこちらに寄こしてくれた。
「先に使いな、支度は早い方がいいだろうし」
「ありがとうございます!」
手にしていた手ぬぐいを首にかけ、水桶に手を入れる。飛びあがりそうなほど冷たい。顔を洗えば、残っていた眠気はすっかりどこかへいってしまった。再び礼を言って、水をあけた桶を返した。
「この先の道は厳しいですか?」
問うと、女性たちは顔を見合わせて、さぁねぇ、と首を傾げた。
「私たちは慣れた道だからね。厳しいとしたら、海かね。荒れてるというし」
「よそからだから、道が凍ったら厄介かもね」
凍ればねぇ、とあちこちから同意の声が上がる。海、と呟くと、近くの人が頷いてくれた。自分は海自体を見たのもほんの少し前、遠目に見た海は草原のように蒼く平坦に見えたのだけれど。礼とともに頭を下げ、ファンは水場を離れた。視線が僅かに追いかけて来るのを感じたが、すぐに途切れてまた賑やかな話声に変わった。
道が悪いなら、気をつけなければいけない。でも、できるなら急ぎたい。知の国だという、北の黒の国につけば、そして、その王宮へ着けばきっと、シンの具合も良くなるはずなのだ。――今、シンが隠そうとしていることも、北の王様や神獣様なら、どうにかしてくれるはずだ。