獄の主
どこまでも果てしない暗渠の底に、さらに暗く、霧が人の形を成す。凝集した黒い霧から、白い手足が伸びる。青い燐光に照らされる、少年の白皙。優美にたわめられた口元は、歌いだしそうなほどに上機嫌だ。その手の上では、橙ほどの玻璃の珠が遊ばれている。中には、暗褐色の靄がゆらりと揺らめいている。
「いやあ、助かったぜ、ジュジ! あの餓鬼どもに壊されるところで……」
「ねぇ、饕餮」
玻璃の珠を覗き込み、そこから聞こえた声に少年は応えた。
「ボクはさ、キミのこともう少し賢いかなと思ってたんだ。だから、せめて、西王の首か白虎の首くらいは取って来られると思ってた」
ぽん、と上に投げ出され、珠から短く悲鳴が漏れる。
「まぁ、思った通りではあるよ。勝てはしないだろうって。でも、これはすこし、ひどすぎるね」
「だってよ、西の奴だけならまだしも、東の龍まで」
玻璃の中でくぐもる声を、上に下に投げながらジュジはとん、と玉座に腰を下ろした。他の四凶の姿は無い。獄は広い、別の場所にいるのだろうか。周りにあるのは、小さな闇を食む魍魎の姿だけだ。
「好きに喋ってて。ボクは疲れた。だから、うっかり珠を投げ落とす、ってこともありえるね」
「や、やめてくれ……! 中に入ってるだけじゃあねぇんだ、今、俺様の体はこれになってて壊れたら」
ぱし、と音を立てて、ジュジは珠を掴んだ。
「ああ、知ってる。ねぇ、饕餮。ボクが、どうしてキミを西王の手から取ろうとしたかわかるかい?」
「そ、そりゃあ、仲間だから――」
その言葉に、ジュジの笑みがより深められる。
「仲間? 何それ」
緋色の瞳が、玻璃にうつる。全てを溶かしゆくような鮮やかな赤。
「下手にとられるよりは、壊してやろうと思ったのさ。力だけの馬鹿は要らないんだ。……でもさ、ボクは今機嫌がいい。ボクの手伝いをしてくれれば、引っ掻いて遊ぶくらいには、してあげるよ」
白い指が玻璃の面を撫で、爪が小さな高い音を立てて滑る。
「わ、わかった。でもよ、こんな体じゃあ、手伝いもなにも……」
ジュジはこつ、と爪が珠を叩いた。そして、指は泥に沈むように玻璃の中へと入りこんでいった。饕餮が悲鳴をあげる。
「流石に、地上へは出せないけれどね。まぁ、キミはこれで充分でしょ」
指先がするりと黒い靄を掴み、煙から引き出す。もやの一端はジュジの手にしている珠へと繋がっているが、黒靄はすぐさま人牛の形に歪むと、ざらりと音を立て、ジュジへと詰め寄った。
「はは! 出してくれて、ありがとよ! ただ、俺様を馬鹿呼ばわりしたことは、死んで償え! 糞餓鬼が」
靄は近くの魍魎に入りこむと、その小さな体を膨れ上がらせ、爪を向けた。白い喉元に、刃のような爪が食う。
「やっぱり、キミは。――愚かだな、餓鬼はどっちだ」
冷たく、低く声を発し、ジュジは手にしていた珠を指先ではじいた。珠は白光をはじめ、黒い靄を再び吸い込む。あの術が再現されるような、光と風。術が溢れさせた光が、周りの魍魎達を消し、灯っていた燐光を明滅させる。
「な、どういうことだ、こんなこたぁ、蚩尤様も――」
「魔の者の術だろうと、天の者の術だろうと、ボクには何も関係がない。さて、死にたいか、饕餮」
ジュジは手のひらの珠に力を込めた。細い指に力が入り、その下で玻璃の珠はまるで泡のように歪になり始める。
「お、お前は……俺達魔獣とも違う。蚩尤様の、子なんかじゃねぇ。何なんだ、お前は! 嫌だ、やめてくれ、死にたくない!」
珠は今にも爆ぜそうで、中の黒靄は雷雲のように渦を巻く。
「キミが欲しがるものは全部与えないことにしたんだ。だから、その答えもね。ただ、まぁ違いがわかっただけでも、お利口じゃないかな」
ジュジは空へと珠を放り、また手のひらでそれを受け止めた。ジュジは珠から目を離し、広々と続く闇へと目を向ける。誰かがこちらを窺っている。――窮奇か。が、出てこないところをみると、また向こうも何か思惑があってのことだろう。面白い。
「二度目はないよ、饕餮。――この獄の、西側。キミのすみかのどこかで、東の怪物が封じられているよね。それを起こしてきて欲しいんだよ」
「な、あんなもん、起こしたら――」
「頼むね、饕餮。うまくいけば、今度はこの封印も解けるかもしれないし」
にこり、と笑い、ジュジはまた珠のなかから黒い靄を引き出した。そして、出てきた饕餮に玻璃の珠を渡す。
「はい。ちゃんと守っていれば、割れないさ。さぁ、行ってきて、饕餮」
笑みはやわらかいが、有無を言わせぬ気色。気付けばこちらを窺っていた視線が消えている、饕餮がこうしてかりそめとはいえ姿を取り戻したからか。それとも、こちらからの視線に気づいたからか。
ともあれ、誰がどう動こうとも、この先どうなるかなど、もう決まっている。ずっと、長い長い時の上で、一つの意志の元に動いて来たこの世界。そう、誰が、どれだけ抗おうとも。誰が、どれだけその意の主に近づこうとも。何も変えられやしない、この自分以外は。
「さて、と」
肘掛を掴み、黒曜の玉座から立ち上がる。ぐっと伸びをすると、宮殿の隅から、新しく魍魎達が王座の間にやってきた。ジュジはほほ笑む。
ここは、捨て場だ。上の世界で、あれが気に入らないものを全て追いやった、不要なものたちの空間。ここを作り出した、建国の魔たちも、初めに封じられたあの一柱の神も。
「そろそろ、“青龍”が邪魔だね。動こうかな」
ジュジはその足元を霧状に霞ませる。彼らは今、どうしているだろう。僅かに得られた勝利に酔っているだろうか。残った不安に惑っているだろうか。ジュジは笑みを深める。太極は育っている。もう、最も優れたる人間、王達に並ぶほどに力を付けて。あとは、心を、意志をこちらに向けてやればいい。
「待っているよ、ファン。キミが、ここに来る日を」
白影は揺れ、黒い霧に解けて消えた。