西国は来たり、又進む
※前話の視点違いの部分があります。
ここに来るまでも、こうして西王達の方へ戻る今も、シンの表情は険しかった。万一のこと、とシンが言うのが、まるで本当になってしまうような色を含んでいたからだ。昼間の西王との話が甦ってくる。その時の話よりもこの場はもっと慌ただしく、必死の様相を呈していた。
「俺達は、助けてやれなかったのだ。ずっと、西がどういうことを続けてきたか、知っていたのにな」
達、というのはシンを含む他三方の神獣か。微かに向こうから聞こえて来る声の他には、王宮内は静まり返っている。ただ、神獣魔獣の気が満ちているから、音の方へあまり気がいかないだけなのかもしれない。本殿前へと駆けもどりながら、シンは呟くように続ける。
「あの御仁が死ぬまで、俺達は気付けなかった。何も西が特別だったのではないと」
そうか。前の白虎が、そして、代々の王達があまりにも当然のように、弑し、弑されてきたから、西とはそういうもので、それも当たり前のことだと、皆思いこんでしまったのだ。その中で押し込められてきた西の歪は、凶荒となって中つ国に溢れだした。
夜気に呼吸がふと白くなる。きりりと冴えた空気に、どろりと流れる饕餮の気配。
「あの御仁だからこそ、今までもったのだ。俺達は、自分のところの安寧にそれを忘れていた。急ぐぞ、今度こそ西は助からねばならん」
ファンは黙って頷いた。そうして、思う。天下は一万年、泰平だったのではないのだと。西の地のように、所々に歪みを生みながら、あたかも泰平のように取り繕われてきたのだ。そこで生きる無辜の民に、善なる王と臣達に、国の守護たる四柱の神獣に――天に。皆、今は平和なのだ、と思いこんで生きてきたのだ。戦いは終わった、もう起こることはない。辛い記憶を忘れ去ることこそ、そこから逃れる術だと思ってしまったのだ。
踏みしめた砂利に、微かに夜露が混じる。その音は重たい。飛びこんですぐに聞こえたのは白虎の悲鳴、見えてきたのは西王が自刃しようとする姿だった。西王は、その身ごと、饕餮を滅ぼそうとしているのだ。白虎がそこへめがけて走る。
「西王! 蓐収!」
シンが叫ぶ。見守るしかない状況に、ファンもじっとそれを見つめた。
――緊張に、止まったように感じる時。
自らに振り下ろす刃よりも、僅かに白虎の手がその先に届く。急速に動き出す時間に、何ごとか交わされる会話。シンが横で息をつくのが聞こえた。
ほっとする間もなく、そこから逃げ、沖する黒い靄をねめつける。饕餮の本体。人の体を奪い、我がものとする魔性の獣。西王は、いつもの余裕ある笑みでそちらを見据えて、魔性と語らう。
「西王は、どうするつもりだ。体から離せば、誰も死なんがあれも死なん」
沖する黒靄と西王が何か言い合い、西王の手にする長槍の先、饕餮の足元で光が溢れた。目をこらせば光の線で描かれた円には、何か文字が刻まれている。旋風と閃光。饕餮がそれに引きこまれ、悲鳴を上げた。
ふと見やると、白虎がこちらに掛けてきている。傷だらけで、ひらひらとしていた衣も、裂けて酷い様子だ。
「手を貸すか、蓐収」
シンが問うと彼女は頷いた。白虎がちらりとこちらを見やる。彼女が頷くので、とっさに頷いてしまった。
「青龍、二極封をやります。できますね?」
「まさか」
シンの言いかけたのを遮り、白虎がこちらに向き直った。
「やるしかありません。それに貴方にならきっと出来るでしょう」
覗き込む紫の瞳が美しい。だが、初めて会った時のような戸惑いと不安はもうそこになかった。自分が何をすればいいのだろう、シンが驚くような何か。解らぬままに見つめていると、彼女がそっとこちらの額に触れた。じんわりとした温かさ。
「あなたに、白虎の力を預けます。借り受けた三柱の神獣の力を以て、青龍の補佐をしてください」
その瞬間自分の中を、白い光が駆けた。高く澄んだ鐘の音のようなものを伴って。白銀の毛に覆われた手足と、それまでなかった尾の感覚。西王や目の前の人から感じる匂いと同じもの。僅かな間に力の溢れのように出たそれも、すぐに収まって元の姿に戻った。
「荷が重いと思うかもしれません、ですが、貴方は大丈夫。彼もそう思っています」
何をすればいいのかはちっとも解らないまま、頼みます、と彼女はこちらの肩に軽く手を置いて微笑んだ。その足で、また西王の方へと戻る。
「蓐収!」
シンが呼び、白虎が足を止める。
「――良き王だな。己が“初王”を守りたまえ、新しき白虎」
シンの言葉に、ファンもはっとする。彼女にとって、今の西王こそが初王で、真に相対した唯一の王なのだ。彼女は振り返らずに、応える。歓喜に満ちた声で。
シンがこちらに振り向く。
「ファン。本当はゆっくり教えたいところだが、急ぎだ。龍化して、俺の前に立っていろ。言うとおりにして、気を抜かなければ、きっと大丈夫だ」
「な、何をするんですか?」
シンが西王達の方、饕餮を捉えた円陣の方へ足を踏み出して、ファンもそれを追う。
「饕餮を封印する」
「えっ」
短い応えに、思わず問い返したが、シンは答えなかった。自分に、神獣の掛ける封を手伝えという。向こうはおそらく西王がやるのだろう。
無茶だ。戸惑っても安心に足る答えはない。そして、円陣との距離はあっという間詰まってしまった。とにかく、言われた通りに。ファンは自分の中に吹く青い風に身を預けた。