西の王、西の守護者(4)
できない、と口にする前に、饕餮が声を上げた。彼の気配が薄らぐ。
「ああ、くそ! しぶとい野郎だ! こんな魂くらい潰してやる…!」
“饕餮”がぎりりと歯を噛みしめる。点滅するように、饕餮と西王の気配が入れ替わる。完全に体を取り戻せずとも、その動きを封じているのだ、現に饕餮は立ち上がれない。
「出来るものならやりやれ、魔獣め。こんな小僧くらい潰せずに何が西の災厄よ」
同じ口で、西王がその口元を吊り上げる。声色を探ればそれが容易ならないのは解る。だが、それでも彼は抗する。
「暗がりに閉じ込められて泣き喚くほど、俺は幼くないぞ。――内に入ってわかった。貴様は、俺よりもずっと子供なのだ。その性情も本来の姿も」
「――黙れ、くそ餓鬼!」
饕餮が自分の体を殴り、爪で掻き毟る。白衣に細かに血が飛び散る。
「餓鬼は貴様だ、饕餮! あれも欲しい、これも欲しいと暗がりで駄々をこねる子供。何を欲せばいいのかも解らぬままに、見えるものだけひたすら欲する、ただの子供なのだ、貴様は!」
西王の、力の拮抗に痙攣する腕が、靴のかかとに触れる。震えの見える足が、石畳を踏んで強く立ち上がる。その手には薄く、月明かりに照る白刃。彼が幼いころから、ずっと衣を改めても残していた暗器。
「やはり、できないか。紫晶。甘さと優しさは違うとずっと言ってきただろうに」
西王の瞳がこちらに注ぐ。愛し横顔。兄の記憶の、無数の王達の最期の笑みによく似たそれ。饕餮から体の支配を取り返し、身の内にとどめたまま――
「おやめ下さい、陛下!」
悲鳴にも似た自分の声に、ようやく脚が動く。言われたことの逆を、自分はしようとしている。これなら、こうも動けるのに。そうだ。兄も、私も、命を尊ぶ以上に、認めた王を、殺すでなく守るために存在したかったのだ。
「西王! 蓐収!」
風の合間に聞こえた青龍の声。自らの喉元に向けられた、西王の手の中のものを止めなければ。白虎の気に身を包み、刃そのものを掴もうと急ぐ。今自分がしていることは、饕餮をも救うことになる。それでも、それでも。
「おやめ下さい!」
どちらの笑みだろう、その人は笑った。お願い、届いて――
「――先が思いやられるぞ、紫晶。まぁ、今はそうだな、助かった」
伸ばした手がかろうじて刃を捉える。僅かに首に刺さった薄い刃の先に、玉のような血が滲み、膨らんで、滴った。その目は間違いなく、西王のものだ。そして、ここになくなった饕餮の気を追って、二人は空を仰いだ。
「逃げたな、饕餮」
ざらり、と上空に夜闇とは違った色の、暗きが漂う。饕餮の本質の。帰る体を失くした靄が、惑うように宙を泳ぐ。
「うるせぇ! 心中なんてしてたまるか! ちくしょう、他の、他の体を寄こせ! 俺を呼ぶな、畜生、体を!」
転がっていた長槍を拾いあげ、西王はどん、と石畳をついた。
「なるほど、こうやって初王は体を取ったか。お前はやっぱり子供だぞ、饕餮。奪ったもの、得たもの、手に入れたものは、それを保持しなければ何の価値もない。どんな玩具も使い捨てにする者には次のものなど、手に入らん」
饕餮の答えは声にならぬ、砂塵の咆哮。散ることもどこかに映ることもままならず、王宮上を旋回する魔性。
紫晶、と西王が自分を呼ぶ。目で示された先には、こちらを饕餮に警戒する東の守護と、天恵の子。
「二極封にする。小僧にあれをやれ。足止めは俺がやる。……すまないな」
聞きとるのも難しいほどの、ささやかな謝罪。彼が謝る必要などない。そもそも彼は何に謝るのだろう。否、意味など解っているが、それよりもこの身を染めるのは何よりの忠誠と歓喜だ。微かに頬を緩め、紫晶は声を張った。
「御意のままに、我が君!」
駆けだした後ろで光輝が走る。代々の西王に継がれる、饕餮の為の仕掛け。辺りの光と共に生まれた風が、白い砂利を吹き飛ばし、その下に刻まれた円陣を浮かび上がらせる。
「さぁ、他に手を用意して来たか? 無いなら、こちらから出るぞ。百と少し前の王に代わってな」
「嫌だ……やめろ…! 嫌だぁぁあ!」
円陣の上で渦巻いた風が、黒い靄を絡め取りその内に抱きこむ。
「――初王と、俺に苦戦するような魔獣だ、きっとお前は四凶の中でももっとも弱い。違うか? ……捕えたぞ、饕餮!」
紫晶! と西王の声が届く。急がなければ。封印の類は大抵が、そういう術に長けた王が掛けたもの、今上が王とて得意不得意がある。彼はそう言う類が苦手なのだ。
「手を貸すか、蓐収」
問うてきた青龍のもとに駆け寄り、頷く。
「青龍、二極封をやります、できますね?」
まさか、と驚きを見せる青龍をしり目に、少年の方に向き直る。
「やるしかありません。それに、貴方ならきっと出来るでしょう」
何ごとか、と戸惑った様子の少年の額にそっと手を触れる。
「あなたに、白虎の力を預けます。借り受けた三柱の神獣の力を以て、青龍の補佐をしてください」
白い光が少年の額に吸い込まれていく。瞬時、白虎の力が少年の体に溢れたが、すぐにそれは内側で静かに収まっていった。さぁ、これで準備は良い。
「蓐収!」
西王のもとに駆け寄ろうとして、青龍が呼びとめる。
「――良き王だな。己が“初王”を守りたまえ、新しき白虎」
返事の為には振り返らなかった。西の獣は、今ようやく王を守るために存在できたのだ。