「命を果たせ」
奪われた主の体を睨み、紫晶は白虎としての責を自分の心に押し込んだ。これは為さねばならぬこと、何よりも“私が”為さねばならぬことだ。
「青龍、為す事がないなら今、我がいた方にいけ。貴方が守ろうとしたものが倒れている」
ざり、と砂利を踏む音。躊躇いを覚える音。
「いいのか、蓐収。――否、わかっている。その心に違うことなきよう」
少年を呼び、青龍は向こうへと駆けていく。自分はゆるりと人型を取り戻しながら、国の守護と王とが対峙する場面に、戸惑いただ立ち尽くす官たちに声を張った。
「気を確かめろ、官共。よく見届けよ、この国とはどういうものなのか!」
返事も疎らに、だが、その視線がこちらにそそぐ。王や私が一万年前を、王たる者が何かを知らず、模索する以上に、彼らはずっと安寧の中をまどろんできたのだから。
「おい、てめぇ、どういうつもりだ? 王の体だぜ?」
笑みこそそのままだが、狼狽の気配で饕餮はこちらに問うた。どうするつもり、など初めから知れている。
「ああ、それは王の体だ。我が君の体だ。私はその方のために働き、その方の意志を何よりも優先せねばならない。正しい道を歩ませねばならない」
あの笑み。紫晶は小さく息をつく。長い裾や袖を引き裂き、払う。
「その御方は、否、その御方に続くこれまでの王は、貴様を倒せとおっしゃった。西のはじめの使命を果たせと。その意志は私の心よりも強く、彼の命より重い!」
紫晶はその人の体の手足に、白虎の力を行き渡らせた。しなやかに動く脚も、鋭い爪も、そして、何より――剛健たるのが白虎の徴。刃に血が舞う戦場の、その先陣を任せられた身。
「使命は何にもまして、果たされなければならぬ」
紫晶は繰り返すように呟き、強く地を蹴った。鈍い金属音と激しい打音。鋭く踏み込んで、紫晶は西王の体へと爪を向けた。
国の初め、四方はそれぞれに、その土地の魔獣を倒すよう天に命を賜った。それと引き換えに与えられたのが国であり、蚩尤が率いたそれらが四方に封ぜられた時、それは果たされたはずだった。しかし、この国の王や神獣はそれを良しとしなかった。封とはいつか解けるもの、またその災厄が後の世に先送りされたにすぎない、と。
あの場は、もう封ずるだけでも限界だった。だが、ならば後の王は封を守るのではなく、それを完全たる勝利へと持っていくべきだ。相手を滅して。順うことなき相手を生かしておいて、その先に利などない。初王は封を為したあとも、そこからあるべきと思うように働き、その記憶を継いだそれからの王たちも、そうあるべき、と自らの命を賭した。
饕餮の体は富を生む。国を潤す。そして、饕餮の体は饕餮のものだ。きっと奴は取り返しに来る。体を取りにここへやってくる。その時こそ、好機。今度こそ、完全に滅してやる。そこではじめて、西はすべてから解放されるのだ。はじめの命を全うできるのだ。
長槍の刃と白虎の爪とが、激しく交錯を繰り返す。懐に入りこんでしまえば、長槍に利はない。繰りだす手足が空を揺らす。蹴り脚を確と西王の、饕餮の腹にくれてやって、ふーっと整えるように息をついた。
西王の体が、敷石の上を滑り、ついた指や爪の食ったところから血しぶきが飛ぶ。この身とて無事ではない。頬や脇腹が熱い、きっと切れているだろう。こちらが頑強ならば、その力を預けた王の身もそう。饕餮が使おうとも、ここは白虎の力を持つ者同士の戦い。同じ力量で無ければ、こともなく砕けるような場。
「なんでだよぉ! 躊躇わねぇのか? 王なんてそうそう出るもんじゃねぇだろうが!」
「王なら、この国だけでも三百は居た」
静かに応え、紫晶は口の中にたまった血を吐きだした。
「犠牲にしようってのか、そうまでして俺様を殺してぇのかよぉ!」
弾けるように、饕餮が向かってくる。主の姿で。ああ。
「その御方は、そんな余裕のない表情を私に見せたりはしない。ただでは死なぬといいながら、何かの為なら自らの命も手札にできるそういう人だ」
乱暴に繰りだされた白刃を避け、白いその柄を払った。西王の手を離れた槍は、弧を描いて宙を舞う。饕餮がただ憎いというだけなら、このような長きにわたって、王達は苦しめられなかった。これは命なのだ。命とは果たされるべきものなのだ。全ての生けるものに与えられたのがそれなら、最も人たる王が、獣たる神獣が、それを守らずして何が国だ。世だ。それこそが道理で、人を前へと進める力。
長槍を追って跳んだ白衣の体を、再び地上へと蹴り落とす。そして、紫晶は叫んだ。
「この国の王に、誰ひとり犠牲者などいない。皆、彼らは自分を全うしたのだ!」
犠牲というのは、何もせず殺された者の名だ。それは不幸であり、憐れまれるべき者たちだ。降りかかった災厄に、抗することのできないままに死した者だ。しかし、王達は違う。その災厄すら望んで向かい、それに激しく抗し、そして、何ごとかを為して死していった。災厄の首を取ろうと、幾世にわたり爪痕を残した。
着地して、向こうの饕餮を見やる。主の体。しなやかなる若い背。頬に別の温さが伝った。私は何をしているのだ、目の前をこうも滲ませたら、戦えないではないか。
地面にたたきつけられた饕餮が呻く。
「なんだ、言っていたことと違うな、紫晶。容赦などない」
饕餮が――否、西王が言う。紫晶は顔を上げた。寸時見えたその笑みは、嫌味なほどに余裕があって。その笑みを掻き消し、饕餮が舌打ちをする。
「もう起きやがったか、くそ餓鬼がっ!」
「くそ餓鬼? ああ、そうか。貴様は……俺よりもずっと子供だったものな」
同じ口で二者が話し、饕餮が頭を抱えた。紫晶は不意に緩んだ表情を慌てて引き締める。ああ、そうだ、この人は。ただでは死んだりしない。私を“残す”ようには死んだりしない。