王の体、欲の獣
「ああ、本当だなぁ、おい! こりゃあいい体だ、欲に染まったいい体だぁ!」
歓喜と祝勝の声色で、饕餮は高く笑う。気絶した女を無造作に投げ出し、西王の体をもって、饕餮は立ち上がる。動き良い体。元々の強さも、獣人としての気もたまらないが、何よりもこの体は欲に満ちている。
欲は初めから何も持っていないものにはわかない。得て、失うから強く欲するのだ。ならば、こいつの欲は相当。ただ当たり前の生活から、国やおよそ人に与えられるべきでないものまで全て、こいつは欲している。そして、得られると思っている傲慢。堪らない、これはいい体だ。
手にするこの長槍。これも懐かしい、あの忌々しい小娘が使っていたものだ。向けられればやはり忌々しいが、自ら振るえばこれほど愉悦を覚えるものはない。どう、と音を立てて倒れた、さっきの体の前で立ちすくむ虎の娘。こちらを見据える目は、睨むとはまた違う、不安定な揺れをもっている。
「なんだぁその目。悔しいか? ああ、そうさ! てめぇがもう少ししっかりしてりゃあ、こんなことにならなかったかもなぁ?」
白虎の娘が唇をかむ。次第にざわざわと波立つ、その気。ああ、堪らない。大事なものを奪ったときの、この酔いに似た快感。
「前の白虎が兄だって? なるほどなぁ! あの野郎の後釜なら、弱いわけだ!」
あの石と化した自分の体を、死の間際までおいつめたあの神獣。猛虎としか言いようのなかったあの、男神。
「壊せばよかったのになぁ? 俺様の体をよ。はっは、欲はやっぱり俺様のものだ」
人の身に余る欲は狂疾となった。虎のごとき勢いを持つ欲を、人の体で御そうとしたから、西の王達は次々と死んだ。
「みじめな野郎どもだな、この頭につまった王達ってのも」
新たな体の主の、その銀髪の下を示してみせて嗤う。代々の王に課せられた苦しみの記憶とやらも、これが自分の為だと思うと愉快以上のなにものでもない。
「お前になど、わかるまい。その、記憶のもつ真の意味など……!」
老練の獣に多い語り方で、白虎の娘は呟く。記憶が記憶であることに、意味の真偽があるものか。悔し紛れか、と笑みを深める。
白虎は拳を握りしめていたかと思うと、次の瞬間には獣の姿を取り戻して、もとの王宮前へと走りだし始めた。間断なく、饕餮もそれを追う。
「何だァ? 逃げるのか! そうだよなぁ、傷つけられないよなァ、王の体は!」
王の体にある白虎の気を使って、軽く高く跳躍して見せる。ああ、単なる獣人とは違う、何もかもに溢れた王たる者の体。追いつくたびに、白い毛並みのその雌虎に、長槍で少しずつ傷を付ける。自分が許し、認めた人間の体で、自分が与え、共に闘うための力を、魔獣に奮われる――どれだけ悔しいだろう、それを思うだけで背筋がぞくぞくするほどに喜びが走った。
もとの場所に戻ってきて、白虎が先に、あの元の体の前に滑りこむ。青龍と餓鬼がそこを守っていたが、駆けてきたこちらを見て、少なからず驚いたようだった。
「蓐収、決めたことだ手を出すぞ!」
青龍が、その人の姿の全身を龍に寄せながら、こちらを見て言った。出来るものならやるがいい。同じ穴のむじなが。あつらえたように馴染む西王の体は、この魂と容易にひきはがせるものではない。身体の方の元の魂は、まだ目覚めぬのかもうこちらのもとに下ったのか、ぴくりとも動かない。なんとあつらえ向きか。
「王との約とは別だ、手出し無用ぞ、東の。この場の約は我の方が先だ」
小さな傷にまみれた白虎が応える。納得いかぬ、と言った顔で青龍は下がり、あの餓鬼はどうしたらいいのかわからないのだろう、ただ辺りの人間の顔を見回すばかりだ。その尾で、石と化したかつての体を持ち上げて、吼えた。
「これで、対等な交渉ができるというもの。この体と、その王の体。価値を比べてみないか。取引をしたい」
白虎の言葉に、初めこそ戸惑ったが、それを言いだした白虎の目にあざけりも何もないのを見て、哄笑した。なるほど、それだけこの王の体が大事か。代々の王がこちらに渡らぬように守ってきたそれを返してでも。そんな相手が望んだ結果など出すか。
「全部俺様のもので、取引だと? 交換なんざしねぇよ! てめぇが手出しできないこんな便利な体を、古いその石なんかと比べられっか」
当然のようにそう応えてやると、白虎は静かな口調で呟いた。
「ならば、この石の像、奪ってからはこちらのもの。お前はこれを取り返す機会を失ったぞ!」
何も動く間もなく、白虎が尾に取っていた石像を石畳にぶつけ砕いた。今はこの体があるとはいえ、己の体。
「てめぇ、何しやがる!」
白虎の娘は応えた。
「もし、自分の体が、あの石像よりもその価値を上にしたら、先にあの像を壊せ。それこそ饕餮の欲に、こちらが勝ったあかしだと、陛下はおっしゃられた。こんな元手など要らぬ。そして、白虎の命を思い出せと」
牙をむき、白虎はこちらを睨み据える。
「饕餮、貴様を倒す事だけが西の存在意義。王の体を取ろうとて、ここの”誰の”体を取ろうとて、全て殺しても貴様を滅す。兄も私も、王殺しの命を持つ国護の獣だ。なめるなよ。貴様ごと殺されるなら、その王こそ西の興王よ!」
こちらに向けられた瞳に、気に入らない色が混じる。それは主人を取られて惑う娘のものではない。殺意すら信頼と覚える、あのかつての男神と同じ眼差しだった。