白影(2)
王宮の瓦を踏み割り、体勢を崩しながら饕餮は王宮の建物の影に転がりこんだ。新しい体がいる。これは使える体だが、この体の男は“元手”が足りない。何にもまして体を動かす情動が、欲がない。自分そのものであって、力の元になる欲が、この男には足りない。半端なやつだとあのくそ餓鬼の王に殺される。もっと欲の強くて、力の強いやつを――
「また、ずいぶんと苦労しているね」
「誰だっ!」
饕餮は弾けるように振り返る。壁にもたれて立つ少年。背後に立たれてようやくその気配に気づく。
「てめぇか。何しに来やがった、これは俺様の獲物だぜ」
「知っているさ、邪魔をする気はないよ。ただ、ちょっとだけ手伝ってあげようかなってさ」
にっこりと笑い、少年はこちらへやってくる。こいつの気配なんてなかった。今の今までは。だとしたら、こいつは今この封の中へやってきたのか。
「力を貸そうってのか」
「貸してあげてもいいけど、ボクが力を貸すほど、キミは無力じゃないしね。貸すのは、そうだね、知恵かな」
饕餮はじっと少年――ジュジを見つめた。こいつは、あの人の子供だと言った。父の復活まで俺達に力を貸したい、と。有り余るほどの力を以て。
「知恵、だぁ?」
「そう。せっかく、キミは人の体を取れるんだ。それに、西王はあんなに手掛かりをくれたじゃないか」
手掛かり、と言われて首を傾げる。たたみ込むようなことばかり言われた覚えしかない。ジュジはこっちを見て、笑みを深めた。自分たちとは異なる、白い相貌。
「その体でもいいけどさ、もっと良い体があるよ。彼が言うように、この場で最も、向こうが取られたら困る体がさ。それも、強い欲に塗れている」
近づく美麗なその顔。緋色の瞳がこちらを覗き込む。
「あれを奪えれば、キミはぐっと有利になる。考えてもごらんよ、ここにいるのは、高慢な王に、未熟な神獣。それに手を貸すのも、病んだ龍とただの子供だ。全部獲れたっておかしくない」
揺れる赤色は、出がけの月よりも遥かに強い色。
「ボクが言ってること、わかるね?」
饕餮は頷いた。ああ、ああそうだ。そして、今はわからずとも、頷かねばならない時だった。
「それに、あの王。大事の為に小事を切れるのが王なら、あれは、一番王たらざる王だよ。惑わされたら駄目だ」
離れたジュジを目で追って、饕餮は言わんとすることを充分に理解した。確かに、少しのきっかけさえあれば、それも容易いだろう。
目の前を行く白色を見て、饕餮はふと思う。こいつの体を取ったら――と。そう思った瞬間、少年は振り返った。
「饕餮」
何よりも自分のものであるそれを口にして、ジュジは微笑んだ。名前は己だ、普段なら怒るところ、体が少しも動かせなかった。心も同じく、射すくめられたように。絶対的な差を示す、美しい笑み。これには、逆らってはいけない。他の四凶の知らぬ目の前の“何か”の。
「誰か来るね、その体の人の知り合いかな」
逸れた視線に安堵をおぼえて、饕餮は力のない返事をした。
「……さぁ、丁度いい駒も揃う。頑張ってね」
王宮の濃い影に白い影は馴染み、霧となって解けた。ジュジの示した方をみやると、女官の服を纏い、こちらへと駆けて来る女がある。饕餮はにやりと笑みを深める。一座の舞い手だ。内に押し込めた体の主が、ざわざわと騒ぐ。
「来るな、ユーリー!」
口が勝手に動いたのに気付いて、内側のもう一つの魂を押しつぶすように力を込めた。西王が余計なことを言ってから、こちらごと自死を図ろうと抵抗する男。女はびくりと足を止めたが、こちらが動かないでいるとまたその足を踏み出した。
「ラン――ラン・ダオレン! あなたなんでしょう? ねぇ、応えて、魔獣に体を取られたって本当なの? その姿……」
本当に体を取られていたら、その問いこそ無駄になるだろうに。また、別の方から足音がする。二つ。これは西王と、白虎か。小僧はともかく、あの娘姿の神獣。饕餮は込み上げる笑いを押し殺した。どうなるだろうなぁ。饕餮は聞こえて来る足音に、ぞくりと背筋を震わせた。楽しみだ。
ならば、まずは。
「一座の女か! 止まれ!」
駆けこんできた西王が、声の限りに吠える。こちらに呼びかけていた女が、怯えたようにそちらを見やった。その視線が西王の銀槍をなぞる。
「西王様、私たちも、彼も、何もやってはいないのです……!」
じり、と砂利を踏み、女は少しずつ、こちらにやってくる。ダオレン、とこちらに呼びかけながら。
「動くな!」
西王が怒鳴る。その表情に先ほどまでの余裕はない。ああ、白影の言っていたことはこれか。心の内で笑み、饕餮はつとめてこの男の声色で、応えてやった。
「頼む、ユーリー。お前らだけでも逃げてくれ」
女の瞳が潤み、西王とこちらとをみる。
「西王様、彼は――」
女がこちらに踏みこんできたのを見て、饕餮は女のほうに飛びかかった。西王が舌うちをし、傍らの白虎に呼びかける。
「紫晶!」
白衣の影が二つ、目にもとまらぬ速さで駆ける。ああ、やはり。饕餮は笑った。
白虎が人狼の振るった腕を受け、その後ろで西王が女をかかえて、そこから退く。辺りに漂うのは、ざらりとした黒い靄。
「兄に代わり、あなたを滅します。饕餮、容赦は――」
白虎がそこまで口にして、はっと後ろを振り返る。そして、“饕餮”はにやりと笑った。女の顔で。西王がそれに気付いたが、この距離だ、間違いはない。
「獲ったぞ、西王! さぁ、容赦しないってのを見せてもらおうか、白虎さんよぉ!」
西王の体を黒い靄が包む。
「陛下!」
響いたのは、悲鳴にも似た白虎の声。そして、新たな体を得た、饕餮の哄笑だった。