若き虎王
西王が向けた銀槍の先で、饕餮が吠える。それは空をも震わしたが、王宮の結界は破れなかった。
「奪うことばかりで、何も持たずに来たお前が、勝てると思うなよ、饕餮!」
饕餮は低く唸る。爪で、胸をかきむしると、それまでの爪痕や刀傷から、血が飛び散った。ざわ、と辺りがどよめいて、ファンも足を踏み出したが、シンに止められた。それと同時に、朱雀の力が火の消えるように引っ込んだ。
「お、お、俺様の名を呼ぶな……! 俺が何も持たねぇだとっ! これから奪うのさ、てめぇらに奪われた分も全部取り返してなぁ!」
血走った眼で西王や白虎をねめつけて、饕餮はそう言った。この状況だからだろうか、奪われた、という言葉が頭に残る。西王に奪われた、というのはあの石と化した体のことだろうか。なら、全部とは。あの体一つではなく、まだ何かを奪われたと言うのか。天の選んだ王達に。
「あいつらを憐れむなよ、ファン」
思っていることがわかったのだろうか。シンが静かな口調で言った。振り向かず、ただ饕餮の方を見据えて。そうか、シンも知っているのだ。あの魔獣の言う、奪われたものが何なのか、何故奪われているのか。
「問題あるまい。お前が、こちらから奪ったものを返すつもりがないように、こちらも返すつもりなどない。公平だろうが」
西王はぶん、と槍を向け直す。
「さあ、その体で死ぬか? 初王の記憶が確かなら、お前はどんな体でも取れる、が、体が死ぬ前に出ぬと、その本質も死ぬのだそうだな」
饕餮の――ダオレンの体の周りでうっすらとあの暗い靄がざわめく。砂の擦れる音。舌うちと共に、饕餮は強く地面を蹴って、王の頭上を飛び越えた。鋭い音は、王がその攻撃を受けた音だった。虎の足で、その衝撃を受けて西王は王宮の別のほうへ逃げた饕餮を目で追った。白虎が西王に駆け寄る。
「陛下、お怪我は」
「あるわけなかろうが」
ふん、と鼻を鳴らし、西王は長槍の柄で、どんと石を突く。シンとファンも、饕餮の方を見やりつつも、そこへ寄る。
「西王、追わんのか」
シンが問う。
「追う。が、ここからは出られん。そう急ぐこともない」
「王宮にいる他の人は大丈夫でしょうか。一座の皆は――」
ファンの問いに、西王は小さく息をついた。
「屋の内にいる奴には手を出せんようになっている。奴らも屋の内だ」
ファンは良かった、と表情を緩ませた。きっと、ダオレンのあの様子を見たら、みんなは傷つくだろうから。それに、西王が今のように、容赦のない態度をすれば、飛び出していってしまいかねない。ファンですら、もし本当にダオレンごと饕餮を滅そうとしたら、やはり飛び出すのではないかと思うのだ。
「おい、小僧。お前は饕餮に体を取られかけたそうだな」
問われて、頷いて返す。
「どうやった。取られても、少しは意識があるのか」
微かに獣化して、虎の目でこちらを向いた王にファンは少し戸惑った。目はやはり、白虎と同じ、美しい紫だった。饕餮に体を取られた時。ファンは思い返して、首を振った。
「わかりません。気が付いたら、師匠に起こされていましたし……きっと、防いだのも母の結界があったからで」
そうか、と西王が小さく息をつく。
「参考にならんな。まぁ、いい。お前も狙われてるなら、下手に動かれても面倒だ。青龍! お前等はもう動くなよ。ここに追いこむまでが手だ。ここにいろ」
「今はそうしていよう。だが、あの体の主と、貴下に何かあったと思えば勝手に動くぞ」
シンの答えに、西王は笑みを深めた。
「俺に何かあったら、か。いいだろう、そのときは勝手にしろ」
西王は待機を続ける武官たちに向き直り、声を張った。
「お前等も、この場から離れるなよ。独りで動いて、体を取られたりしてみろ、その時は容赦なくあれ諸共滅するぞ。いいな!」
は、と低い返事が返ってくる。酷な言いようだ、とファンは西王を見る。そして、その首筋に汗の這うのを見止めた。激しく動いたわけではないだろうし、この寒さだ。じっと見ていると、西王と目があった。睨まれたように思って、すぐ視線を逸らす。
「疲れるな、これは。――行くぞ、紫晶。用意はいいな」
自らの白虎に呼びかけて、西王は饕餮の言った方へ向きを変える。駆けだそうとしたその前に、宮殿の中から、文官らしき影が走り出てきた。
「へ、陛下!」
「どうした、屋の内にいろと言ったはずだが」
「一座のものが、牢から抜け出した、と!」
牢、と聞いてファンはぎょっと西王とそちらを見比べた。少しばかり、困惑した表情を浮かべて、西王は応える。
「全員いて、確と封を掛けたはずだが」
「いえ、まずあの場にいたものが、全てでなかったらしく……女官たちが、見慣れぬ女官姿のものがいたというので、詰めたのです。そうしたら」
「なるほど、口を合わせて隠していたというのか。大した芝居一座だな。これだから、ひとりも逃すなと。急ぎになっただろうが!」
紫晶、と呼びかけて、西王は走りだす。ファンもできることならそれを追いたかったが、止められて留まった。牢、と聞いて驚いたが、もうここまでくると、西王の行動にそこまで動じることもない。きっと何もかもが故あってのこと。
疲れるな、と呟いた顔に、妙にほっとした自分がいる。待とう。今は、動かぬことが彼の手の内だから。