西の禍霊(2)
饕餮はこちらを見て、にやりと笑った。目の前を全て覆うような巨大な人狼だ。
「おい、太極、面白い格好じゃねぇか、その体寄こせ!」
ぶんと繰りだされた腕を避け、ファンは地面を滑るように後ろに下がった。饕餮の爪のあたった部分は、地がえぐれている。いくら龍化していると言ったって、あれをまともに食らえば、ひとたまりもない。ふらつきそうになる自分の体を支え、ファンはきっ、と饕餮を睨み据えた。
「欲のねぇのは気にいらねぇが、具合はいいぜぇ!」
太い腕に力を漲らせ、饕餮はまるでそれを楽しむかのように、いたずらに腕を振りまわす。何条も地面に走るひび割れはこの山をも崩さんばかりに深い。
「ダオレンの体を返せ!」
絞り出すようにそう叫ぶと、饕餮の目がぎろりとこちらを向いた。
「くそ餓鬼が、返せだぁ? “これ”はもう俺様のもんだ、返すも何もねぇ」
とんとん、と自らを指で差し、饕餮は高く笑う。そして、こちらの握った拳ににやり、牙を剥いて見せる。
「……おおっと、そうだなぁ? 代わりの体をくれりゃあ、返してやるかもしれないなぁ?」
こちらを指差して、饕餮が下卑た笑い声を上げる。口元から零れる黒紅の靄が、ざらりと音を立てた。
「お前が他人にものをやるなど、ありえない。大概にするんだな」
シンが間に割り込み、庇うように前に立った。吐き捨てるような、短い息の応え。
「大概にするのはてめぇの方だ、青龍! いっつも邪魔しやがってよぉ!」
空を切る音と鋭く軋むような金属音。饕餮の力任せの攻撃を、シンが龍化した腕で防ぐ。師匠、と声をかけると、シンは大丈夫だと繰り返した。
「もうこの地上に、お前等のものなど何一つないぞ、饕餮」
シンの言葉に、饕餮が歯噛みするのが見えた。互いに弾かれるように距離を取り、饕餮は吠える。
「俺様の名前は俺様のものなんだよ、勝手に呼んでんじゃねぇ!」
「それは悪かったな、何も持たざる者。与えられた獄に収まりやれ」
声にならない怒号が辺りに響き渡る。衝撃は空に地に、全てを揺るがしながら、広がり伝わっていく。ファンは腕をそれの盾にしながら、横目でシンを見やった。幾度も見てきた横顔だ、饕餮を見据える目は精悍に、ただ、これまでに気付けなかった何かを潜ませていた。静かながらも底知れない怒り、憎悪。
「あの体から出さんことにはどうにもならんな」
シンの言葉に、ファンは頷く。攻撃の際に見えた、饕餮の腕は自ら繰りだす攻撃に耐えられず傷んでいた。奴はあの体を自分のもの、と言ったが、自分のもの、は己が身とは違うのだ。普通ならば人はそれを大事にするが、やつにとっては代えの利く道具のひとつにしか過ぎないのだろう。ならば、どうやって。
「――撃ぇ!」
饕餮と対峙する二人の後方から号令と、矢の雨が降った。
「……馬鹿な!」
驚きと苛立ちを込めたシンの言葉。後ろを見ると、弓に二の矢をつがえる武官達の姿があった。饕餮に――座長の体を有するそれに、向けられる意には少しの遠慮や躊躇いもない。射かけられた饕餮に、いくつもの矢が刺さる。
「今の西王も容赦ねぇなぁ! こいつを捨てるか」
濡れた犬が水を振るうように、饕餮は刺さった矢を振り払った。鋼のような体毛に防がれて、傷を与えるまでには至っていないらしい。にやりと笑みを浮かべ、武官たちに向けられる。次いで、剣や自らの腕を以て、何人も獣化した武官たちが駆けて来る。四足の獣を宿す彼らは、月にその目、その爪を光らせながら、しなやかに力強く、大地を蹴る。
「待て!」
先頭を往く、獅子髪の武官を止め、シンが吠える。
「あの体を攻撃したとて、何にもならん! 奴の本体にただの攻撃など」
「そんなことなど、とうに知れている! これも西王の命である。下がりやれ、東国の武人よ! 邪魔立て無用と言われたはずだ」
腕を掴むシンの手を払い、武官は饕餮を睨む。
「王命であり、我らが命だ。我らはあれより、この国を守らねばならんのだ! 我らが命を差し、罪なき者の身を以ても、あれを止めねばならんのだ!」
愚かな、とシンが呟く後方で、饕餮が嘲り笑う。
「そうだ! そいつらの言うとおりだぜぇ、俺様を護るのに、こんな野郎の命一つを護るって方がよっぽど愚かじゃねぇか! 好きに傷つけやがれ、代わりの体を持参でよ!」
饕餮は再び暴れ出す。ファンやシンはそれを避けて下がったが、命を賭して挑む彼らは退くことがない。攻撃をされれば、躊躇わず刃で受け、返すそれで打って出る。だが、それで傷つくのは饕餮の持つ体だけだ。本体はきっとあの靄なのだ。ちびの体からわいて出たあれが。饕餮が傷むことはない、だから、あのように笑いながら戦っているのだ。
「このままじゃ、ダオレンは」
西王は、饕餮に痛みを覚える体のないことを知っている。ならばどうして、彼らの命を魔獣に晒してまで、攻めるのか。彼らの行動が、護国の命と王の言葉の元にあるのなら、いくらダオレンを守ろうと止めても、彼らにとっては魔獣を庇うものにしかなりえない。
「どうすれば」
呟いた途端に、シンも同じことを口にしたのに気付いた。気ばかりが急いて、打つ手が浮かばない。ただ地を踏み直すばかりで、その場から動けなかった。
剣戟の音と彼らのたけりを貫いて、澄んだ鐘の音がその場を止めた。響くこと数度、熱を冷ますような音色が王宮の方から響いた。
「総員引け、合図だぞ!」
獅子髪の武官が声を張る。退くこと無し、と思われた彼らが、一度に饕餮から距離を取る。切りつけられ、射かけられた饕餮はかなりの血を流していたが、鐘の音のする方にその鼻先を向ける。饕餮を止めたのは、鐘の音ではない。鼻をひくつかせ、喜びを圧したような声を上げる。
「この、感じ。あぁ、間違いねぇ! 俺様の体だ! 封を解きやがった!」
谷を越えたあの跳躍で、遥か頭上を超え、一跳びに王宮へ向かった。武官たちもそれを追い、王宮へと退き始める。
「封を解いたって、まさか。師匠」
「王は何を考えている……追うぞ、ファン!」
二人も追って、王宮へ。確かになるばかりの饕餮の気配に、ファンは震えだしそうな足を打った。