朱の月
「ファン! しっかりしろ、ファン!」
目を開けると、師匠の顔があった。肩を揺すられていて、視界がゆらゆらと振れる。見えるのは夕闇の迫る空、外だ。どうして外で寝ていたのだろう。
そうぼんやり思ったところで、記憶が全て戻ってきた。慌てて跳ね起きて、辺りを見回す。どの姿もない。
「ちびが、饕餮が! あと、ジュジが、母さんのが」
「落ちつけ! ……饕餮が居たのか」
激しく鼓動が鳴る。しっかりと肩を押さえられて、ファンは短く息をしながら頷いた。外で待っているはずのシンがいる。周りにいる一座のにいや達が呼んでくれたのか。
「ちびに、饕餮が憑いていたんです。で、おれ、乗っ取られそうになって、母さんの結界が働いて。ジュジが来て、また意識が飛んで――」
記憶を辿りながら、一つずつそこまで上げて、ファンは再び辺りを見回し、声を上げた。
「ちびは……ダオレンは!」
後ろのにいや達に尋ねたが、にいや達は顔を見合わせ、そして、首を振った。
「真っ先にファンを追っていったと思うんだけど、俺達がここに来た時にはいなかったよ。で、お前が倒れてるから、シンさん呼びに行ったんだけど」
「ああ、その時にも、ここにまた来る時にもいなかった」
あの夢が現実のものなら。急がなければ、早くしなければ。大丈夫か、と問うシンに応えて頷き、ファンは立ち上がった。何の騒ぎか、と衛士達が集まってきていた。遠巻きに他の官の姿もある。
「早く捜さないと!」
駆けだそうとした腕を掴まれ、ファンは後ろに倒れそうになる。シンは、前に言ったろう、と厳しい目でこちらを見て、言う。
「ああ、饕餮が来たというなら、陛下に伝えなければ。来い、ファン。俺から離れるな」
王宮の方へ向かおうとすると、にいや達に呼び止められた。
「なぁ、ちびが憑かれてるってどういうことなんだ、ダオレンはどこへ」
その問いを掻き消して、子供の泣き声が辺りに響いた。ちびの声だ、少し門の方へ戻ったところか。一時辺りに広がった緊張を破るように、二人は互いに頷き、走りだした。
暗がりで立ち尽くす、小さな影。駆け寄ると、ちびは怯えたようにこちらを見て黙ったが、すぐまた泣きだした。
「かかぁ……ととぉ」
今まで一度も呼ばなかった父母を探して、けたたましく声を上げる。
「これは、たぶん……」
まずシンが駆け寄って抱き上げたが、ファンが見てももうその目の奥にあの魔獣の影を見つけることはできなかった。まず、これまでシンには絶対に抱かれなかったちびが、泣き続けているとはいえ抱きあげられているのだ。念のためにシンが獣化した手で背中の辺りに触れてみるが、祓い出されるものはなかった。
「もう、この子は大丈夫だ。饕餮はいない。……とすると」
宿舎のある方から、声を聞きつけてユーリー達が駆けてきた。シンは泣き続けるちびを預け、座長を見たか、と問うた。やはりユーリーも首を振った。
「急いだ方がいい。座長は力があるからな。そして、奴もおそらくそれを知っている」
心配そうな一座の若者たちを伴って、宮殿の方に向かう。途中、衛士に何ごとか止められたが、シンが、急を要する、と言ってそこを押し通った。すぐに武官が現れたが、正体を知る僅かな者と、その伝えなければならないその内容に、さらに奥へと通される。本殿の前に出た頃には、辺りはすっかり夜になっていた。満月の頃合いだから明るいはずだが、鋭い山の向こうに隠れて辺りは暗い。
「またお前たちか、何ごとだ!」
本殿に駆けこむ前に、篝火の焚かれた殿中から、白い衣の青年が出て来る。気にいりの女官を伴い、こちらをじっと見て、そして、成程と笑みを浮かべた。
「もう来たのか。否、来ていたのだな。立て込んできたものだ」
紫晶、と傍らの女性に呼びかけ、西王は辺りを見回す。
「来ます、陛下。お下がりください」
女性――白虎は遠く東の空を見つめて、そう低く呟いた。同時に響き渡る、狼の遠吠え。野のものとは明らかに異なる、力強く、そして、今は禍々しい気に満ちた声だった。ファンは、魔獣の気に身体を強張らせた。悪意と害意とを押し詰めたような、圧倒的で強力な邪気だ。それに対して、傍らのシンと白虎とが、自身の気に身を包むのがわかった。二人の気は差異はあれ、清浄な気が辺りの空気ごと、饕餮のそれから人を守る。炯々(けいけい)とこちらを照らしだす、美しくも恐ろしい月だった。
「居たな。やはり、そうか」
シンが呟く。月と山の陰に、ぽつんと出た黒い点。目を凝らすとそれが異形の者であると気付いた。再びの遠吠えに、にいや達の呼吸が、不揃いに短くなるのがわかった。ダオレンの体は、とられてしまったのだ。
集まってきた衛士や官をも巻き込んで、緊張する空気を開いて、西王が声を張る。
「シーヤー! イーホウ!」
呼びかけに応じて、武官と文官が一人ずつ、王の前に膝を屈し、平伏する。
「シーヤー、獣化できる武官を集め、支度させろ。身体を取る魔獣だ、一瞬たりとも気を抜くな」
は、と短い声がして、武官が礼の後に、左手の官舎の方へと駆けていく。次いで、王は残った文官にも令をだす。
「戒厳令だ、すぐに布達を出せ。風水の強化も急げよ。面倒だ、家から出るなと言え」
そう言って、自身は宮殿へと踵を返す。文官が官舎へと走っていく。
「お待ちください!」
一座のにいやが声を張り上げ、段を上がろうとする西王の後ろで、叩頭した。
「一座の者です。我々には、何が起きているかわかりません、皆が魔獣と指すあの者は、我らの座長のように思うのです」
西王がぴたりと足を止め、ため息交じりに振り返った。
「黙っていればよかろうに。……ああ、そうだな。あれはお前らのところの座長だ。魔獣に身体を取られた、な」
顔を上げたにいやの顔が篝火にわかるほどに青ざめる。しばらくの沈黙の後、にいやは再び深く叩頭した。それに合わせて、一座の他の若手も一斉にひれ伏した。
「お願いです。悪しき者に身体を取られたとて、それは座長の本意ではございません。どうか、どうかご容赦を!」
武官たちの声がする。微かに聞こえる剣や弓支度の金属音を、にいや達は不安に交じった気持ちで聞くのだ。
「知らぬ。身体が座長とて、饕餮を相手に容赦などできぬ。俺は王だ、民を守るために、それに害をなすものは全て排さねばならない。俺のやることは、変わらぬ」
そんな、と誰かの嘆息するのが聞こえる。西王は歩き出し、宮殿の入り口に向かう。にいやが叩頭したまま呟く。ざり、と額が地面を擦る。
「俺達は、ああ、確かに俺達は民じゃない……どこの民でもない。でも、こんな、こんなことってあるかよ……!」
噛みしめる唇からは血が出そうに見える。そこに、一度は本殿に消えた西王の声が返ってくる。
「おい、小僧、その師!」
シンの正体を伏せて、西王が言う。
「貴様らは俺の臣ではないからな。勝手に動くがいい。だが、邪魔をするなよ」
ファンはシンと顔を見合わせ、頷いた。本意はどうあれ、好きにしろ、と言うならば。するべきことは一つだ。
「皆と固まっていてくれ。俺とファンは、座長を助ける術を探す」
シンの言葉に、にいや達は滲む眼でこちらを見た。ファンも、それに頷き返し、拳にぐっと力を込める。まずは、山の陰から消えた、座長であり饕餮の影を探さなければ。