結界と、堂の
日暮れが近い。シンと分かれ、一座のにいやと共にあちこちを探しまわったが、本山を含め、いくつかある離れ山を巡ってもちびは見つからなかった。大きな吊り橋を渡れば衛士が見ているはずだが、それもない。大通りまで出ると、別の方から見て回っていたシンと落ちあった。やはり見ていないという。
「王宮から居なくなったのか?」
続々と集まってくる一座の若手たちに、シンが尋ねる。この人数でここまで探したのだ、町の中にはいないのかもしれない。にいや達は顔を合わせ、頷く。
「昼過ぎに演目の練習に取りかかって、昼寝してた年少連中がちびがいないって言いだしたんだ。寝かしつけるまではあいつらと一緒だったから、探し始めた頃ならそう遠くへ行っていないはずだったんだけど」
晩鐘が町を包みこみ、薄い橙色が空を染める。谷の外へ伸びる吊り橋へは行っていないと聞いたから、町の外にはいないはず。ならば、あとはどこが残るだろうか。
「少なくとも泣けば誰か気付きそうですけど」
ファンは鐘の中の、町の音に耳を澄ます。誰だとしても、子供が泣いてやしないか。しかし、聞こえるのは来た時と変わらぬ、都の人々の生活ばかりだ。一様に俯いて考えていると、馬番のにいやが顔を上げ、口を開いた。
「とりあえず、王宮に戻ろうぜ。俺らはずっと町の中にいたわけだし、もしかしたら見つけたけど連絡が無いだけかもしれないぞ」
そうだな、と相槌があって、皆は頷きあう。
「座長ならすぐ見つけられそうなものだがな」
シンが呟き、にいや達は一層に、そうだ、と声を合わせた。
「そうだよな、ダオレンはにおいはするから、近くにいると思うって言ってたんだ、案外もう戻ってるかもしれないよな」
ならば、門の前で集まっているのも意味がない。皆、王宮の中に戻ることになった。大門の衛士達が、入るなら入れと急かすようにこちらをじっと見つめていたこともある。ちゃんと帰っているだろうか。そう考えると、何故か吊り橋から眺めた谷の深さを思った。大丈夫そうだと宿に帰ろうとしたシンに頼み、見つかったかどうかだけ確かめようと、ファンは彼らについて行くことにした。
門を通ってすぐ、後ろで大扉の締められる低い音がした。夜が来る。一人で夜を迎える不安は耐えがたいものだ。異郷ならば尚更。そう思って、ファンはふとユーリーがしていた話を思い出した。もしかしたら都にはちびの家族がいるかもしれないと言っていた。とすると、家族が一人で歩いているちびを見つけて、連れていったとも思えた。
王宮に残っていた仲間に、状況を聞いたにいやが声をあげる。駆け寄って聞いてみると、王宮の中でもまだ見つかっていないという。話を聞いていると、奥からダオレンがやってきた。王宮の衛士に、何か話していたようだった。こちらに気付くと、ダオレンは、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「ファンも探してくれてたのか、すまねぇ、ありがとな」
「いえ。ダオレンの鼻でも、見つかりませんか?」
礼の言葉に応えて、ファンは問うた。狼の鼻ならば、仲間の居場所がわからないか。ダオレンは鼻をひくつかせると、困った顔をして言う。
「ちっとはにおいが残ってるんだが……妙に鼻が利かねぇ。いつもなら、歩いたあとを充分追えるんだがよ。ただ、王宮から出てねぇはずだ」
王宮にいるならば。昼間会った時、ちびはここに面白いものがあると思っていた。何か、他とは違う面白いものが。夜に先駆けたぬるい風が吹いて、ファンは自分の嫌な予感がすべて繋がったように感じた。きっと、いるに違いない、あの場所に。今ならばきっと。
「もしかしたら……!」
もう一度王宮内を回ろうと話す皆の間をすり抜け、ファンは駆けだした。ダオレンが呼びとめ、場所を問う声がしたが、早く着こうと思う気ばかり急いて、応えられなかった。夕闇がここを覆う前に早く。駆けだしてすぐ、こちらを追って、誰かが走ってくるのがわかった。
向かうのは、王宮の中でただ一つ禍々しく建つ小さな堂。昨日の覚えを頼りに、ファンは王宮のいくつもある建物の角を曲がった。それらの陰になっている堂は一足早い夜を纏いながら、まるで生きているもののようにそこにあった。そして。
「ちび!」
堂の前に立つ小さい影にファンは呼びかけた。やはり、いた。ならば、封は何も変わっていないだろうか、札が剥がれたり、綱が抜かれたりしていないか。ファンは堂を注意深く見ながら、幼い子を後ろから抱き上げた。
「大丈夫? ちび。何も、何もしてない?」
泣きもせず、怪我のないのを確かめて、こちら向きに抱き直す。じっとこちらを見る瞳。にいちゃ、と応えがあって、そして、ちびは今までに見たこともない顔で、にぃっと笑ったのだった。
「こっちを何とかしようと思ったが、そっちが独りで来るたぁな。――身体は後回しだ! 貰ったぞ、太極! 俺様のものだ!」
その目は堂の中の、獣に似て。饕餮は、その意識はもうここへ来ていたのだ。招かれた客の中に、招かれざる客が混ざっていたのだ。低い声に驚き、手を離す間もなく、ざらりと音をたてて現れた暗い靄に、ファンはふっと意識を失った。
『ファン!』
闇に溶けた思考の中、温かく優しい声がこちらを呼んだのに気付いた。ああ、あの声は。玻璃の砕けるような高く清浄な音をたて、身体の中を光が駆けた。
暗転は急激に解け、動かない身体に対して、音だけはしっかりと聞こえた。まず聞こえたのは、舌打ちとあの低い声。
「何だ! 何が起きた? くそ! どっちにも結界なんぞ掛けやがって、くそ! なら、どっちも壊して手に入れてやらぁ!」
苛立ちに吼えて、小さな足音が遠ざかっていく。いけない、止めなくては。そう思っても、身体がまだ動かなかった。ちびは、ちびではない。封を掛けられた己の体も、手に入れようとしたこちらの体も、手に入らずに怒り狂う魔獣だ。止めなくては――
「キミのお母さんに感謝だね、ファン」
少年の声に、ファンは身じろぎも、声を上げることもできなかった。白い、闇夜へと消えた、あの少年。
「だから言ったのに。捕まってもいけないって。今回は結界があったけど、人の忠告は聞かないと、ファン」
――結界。この身に掛けられ、魔獣の侵を弾き返したそれ。そして、あの声は。
「母さん……?」
絞り出すように、やっと出た声にジュジは小さく笑う。
「もうお母さんに助けを求めちゃあ駄目だよ、大きいんだから。でも、まぁそれが駄目でもと思って来たけど、結局ボクの助けはいらなかったね」
「助け?」
ささめくような笑いだけが返ってきて、ファンは未だに明けぬ視界に、動かぬ身体に苛立った。早く、早く伝えに行かなければ。強からぬ自分には、どうにもならないこの事態を。
「そうだね。――でも、まだ眠っていて。誰かが君を起こすまでは」
ぐらりと目の前の闇が揺らぎ、ファンは再びそこに落ちていった。
夢のように、暗闇に明けて見えたのは、自分の後を追いながらも、見失って辺りを見回すダオレンと、そこに歩み寄る小さな影。
「ちび! どこにいたんだ、やっと……」
「この際てめーでも構わねぇ、無欲のくそ野郎。その体、俺様が貰った!」
溢れだす暗い靄は一度、石の像と同じ形の巨大な影を形づくって漂う。目を見開くダオレンと、魔獣の嗤い声。辺りに夜をまき散らしながら、ダオレンの体に吸い込まれていった。